とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 332 長崎の鐘

2018-04-29 05:05:45 | 日記
この映画はフィクションではありません。永井隆博士が執筆した体験記録に基づく実録映画です。この映画は同名の歌とともに多くの国民を感動させました。永井隆博士は島根県の三刀屋のご出身です。長崎と三刀屋に記念館があります。キリスト教の信者であった博士は「如己愛人」を説かれこのことは広く知れ渡りました。死後「如己の会」が作られ顕彰・普及活動を続けています。私も会員の一人です。


長崎の鐘


長崎の鐘

『長崎の鐘』(ながさきのかね)は、永井隆が執筆した随筆。
内容は、長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった永井が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。被爆時に大学をはじめとする長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いながら死んでゆく同僚や市民たちの様子を克明に描いている。永井は、この時妻を亡くした。また、救護の際には、頭部の重症と疲労から自らも危篤状態におちいるが、同僚医師や看護婦たちの努力により一命を取り留める。「長崎の鐘」とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のこと。

作品は1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の検閲によりすぐには出版の許可が下りなかった。精神科医の式場隆三郎が創刊に関った『東京タイムズ』に「原爆病患者の手記」の連載を始めると大いに話題になり、1948年、永井隆の『生命の河』がやはり式場隆三郎の経営する日比谷出版社から出版された。『長崎の鐘』は、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、1949年(昭和24年)1月、同じく日比谷出版社から出版され、紙不足の当時としては空前のベストセラーとなった。

永井自身は、「なかなか出版してくれる出版社がなく、式場隆三郎氏などの尽力により出版にこぎつけた」と本書序文に書いている。
同年7月にサトウハチロー作詞・古関裕而作曲で同書をモチーフとした歌謡曲が発売されて大ヒットし、翌1950年(昭和25年)には松竹により映画化された。

楽曲 「長崎の鐘」


藤山一郎の楽曲。作詞・サトウハチロー、作曲・古関裕而。1949年(昭和24年)7月1日にコロムビアレコードから発売された。

本作品発売の2ヶ月後、永井一家と交流のあった植本一雄の作詞・作曲による藤原義江の歌謡曲が同タイトルで発表されている。古関版「長崎の鐘」は、ソプラノ歌手藍川由美の「古関裕而歌曲集」にも収録されている(同CDには、永井博士の短歌に古関が曲をつけた「新しき朝の」も収録されている。元々その短歌は、「長崎の鐘」を聴いて感動した永井が詠み、古関・サトウ・藤山に贈った歌であった。

藤山は自分の作曲による「新しき朝」を「長崎の鐘」に続けてステージで歌っており、古関版の「新しき朝」は藍川のCDが初録音となった)。なお、古関版「長崎の鐘」の歌詞には、原爆を直接描写した部分は全くない(当時の米軍の検閲をはばかったものと思われる)。
藤山は1951年(昭和26年)1月3日放送のNHK『第1回NHK紅白歌合戦』で本曲を歌唱し白組トリおよび大トリを務めた。紅白ではその後も1964年(昭和39年)・第15回、1973年(昭和48年)・第24回(特別出演)、1979年(昭和54年)・第30回(特別出演、メドレーの2曲目で歌唱)の3回歌唱された。

「長崎の鐘」の吹き込みは最初、池真理子で行おうとレコード会社は考えていたが、歌詞を見た池は「『長崎の鐘』は永井隆博士のご心境を歌ったものであるから、男の人が歌うべき。」と思い、尊敬していた藤山一郎へ吹き込みを切望し、会社側を説得。自身は母の気持ちを歌ったB面「いとし吾が子」を吹き込んだ。

ヒットの要因

サトウハチローの詞は単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌であり、打ちひしがれた人々のために再起を願った詞である。古関裕而が作曲し、藤山一郎が優秀な音楽技術で格調高く美しく歌い上げた。なお、ハチローの弟も広島の原爆の犠牲者となっている。

レコーディングには逸話が残っている。1949年4月4日のレコーディング当日、藤山は国内のスケジュールの疲労から体調を崩し40度近い高熱を出し苦しみ、吹込みは後日ということになったが、式場隆三郎博士と山下清画伯ら関係者がすでにコロムビアのスタジオに来ているということを聞き、妻の運転する車でスタジオに向った。再吹込みする条件で録音したが、藤山一郎の絶唱がスタッフ・関係者一同の感動を呼び、再吹き込みを経ることなくそのまま発売された。

映画『長崎の鐘』

『長崎の鐘』(ながさきのかね)は、1950年(昭和25年)9月23日公開の日本映画である。松竹製作・配給。監督は大庭秀雄。モノクロ、スタンダード、94分。
戦後、日本人によって原爆を取り扱った劇映画第1号である。GHQによる検閲の為、原爆及び被爆状況等について真正面から取り上げる事が出来ず、永井隆博士の生涯を描いた作品という形で製作された。

スタッフ

監督:大庭秀雄
製作:小倉武志
脚本:新藤兼人、光畑硯郎、橋田壽賀子
撮影:生方敏夫
音楽:古関裕而
美術:森幹男

キャスト

永井隆:若原雅夫
みどり:月丘夢路
山田幸子:津島恵子
朝倉教授:滝沢修(民芸)
山下:三井弘次
孫左衛門:薄田研二(新協)
鈴木神父:青山杉作(俳優座)
吉崎医学士:清水一郎
爺や:高堂国典
五島教授:奈良真養
谷村助手:土紀就一
永井誠:村瀬禅
高松栄子
小藤田正一
川村禾門 (「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 331 柿の木坂の家 青木光一

2018-04-28 23:06:05 | 日記
日本にもいい唄がありました。この唄、温かい音調が心地よいです。子どものころよく唄いました。柿の木坂。どこにもありそうな風景ですね。それがいいのかもしれませんね。

柿の木坂の家 青木光一


青木 光一(あおき こういち、1926年2月17日 - )は、日本の歌手。日本歌手協会名誉会長。『柿の木坂の家』など、多くの大ヒットを飛ばし、人気アイドルとして昭和時代中期の日本歌謡界に君臨した。2018年92歳を迎えたが、日本歌謡界の重鎮として今もなお現役で活躍を続けている。佐賀県唐津市出身。青木はるみは実妹。元妻は同じく歌手の永田とよ子(3代目天中軒雲月)。

経歴

幼い頃満州奉天に渡る
1944年、奉天の旧制中学を卒業。奉天中央放送合唱団に入団、コーラスの指導をしていた米山正夫の指導を受ける。

1945年、関東軍に入隊、敗戦でシベリアに抑留される

1949年、シベリアから命からがら帰国

1950年、先に帰国していた米山正夫の推薦でコロムビアに入社。同年8月『若い嵐』で歌手デビュー

1953年、『元気でね、左様なら』でブレイク

1955年、『小島通いの郵便船』が大ヒット

1957年、『柿の木坂の家』が空前の大ヒット。同年、『二代目船長さん』でNHK紅白歌合戦に初出場。紅白歌合戦には計3回出場している。

1963年、隣の工場からの延焼で自宅が全焼

1999年、第40回日本レコード大賞功労賞を受賞

2004年、コロムビアミュージックエンタテインメントより『青木光一全曲集』をリリース

2005年8月3日、自宅が4人組のコロンビア人の襲撃をうけ、現金5万8000円と46万円相当の腕時計や商品券などを盗まれた(コロンビア人4人は9月14日に逮捕)。

2009年9月、妹のはるみが死去

この他に、1983年に日本歌手協会の理事として就任すると、1985年に常任理事、1995年に理事長、2003年に会長、2007年から2018年現在まで名誉会長に就任している。(「Wikipedia」より)



あちこち「SYOWA」 330 ペギー・リー / Johnny Guitar

2018-04-27 00:37:56 | 日記
ペギー・リーのこの曲は何度もラジオで聴いていました。唄というよりその息遣いが私を虜にしました。今聴いていてもその時の感覚は変わりません。

Peggy Lee Johnny Guitar


『大砂塵』(だいさじん、原題・英語: Johnny Guitar)は、1954年(昭和29年)製作のアメリカの西部劇。原作はロイ・チャンスラーの小説、製作会社は西部劇を専門にしていたリパブリック・ピクチャーズである。
原題のジョニー・ギターとは放浪する主人公(スターリング・ヘイドン)の名前だが、彼を巡る二人の女性が実質的な主人公であり、女性同士の決闘が公開当時話題となった。また、ペギー・リーが歌った主題歌『ジャニー・ギター』も世界的なヒット曲となっている。

あらすじ

まだ鉄道も通っていない鉱山の町に流れ者のジョニー・ギターが現われ、昔の恋人だった酒場の主人ヴィエンナの元に身を寄せる。ヴィエンナはこの町に鉄道を通そうとする野心や無法者のダンシング・キッド一味との関係が町の人々から嫌われ、ダンシング・キッドに恋心を寄せていたエマは町長たちをたきつけてヴィエンナを追放しようと画策、一触即発の状態にあった。ダンシング・キッド一味が銀行強盗を働いてその場にヴィエンナとジョニー・ギターが居合わせたことから、町の人々は暴徒と化してヴィエンナの酒場を破壊する。

ペギー・リー(Peggy Lee, 1920年5月26日 - 2002年1月21日)は、アメリカ合衆国の歌手・女優。本名ノーマ・デロリス・エグストローム(Norma Deloris Egstrom)。「ソフト・アンド・クール」な歌声で知られた。血液型はO型。


録音

1942年初頭、ペギーは初めてのチャート1位となるヒットソング「誰かが邪魔した」(Somebody Else Is Taking My Place)を発表。続けて翌1943年には「Why Don't You Do Right?」をリリース。この曲は100万枚以上の売り上げを記録し、彼女の名を知らしめた。1943年に放映された2つの映画『Stage Door Canteen』と『The Powers Girl』では、ペギーはグッドマンと共に歌っている。

1943年3月、ペギーはグッドマン楽団のギタリストであったデイヴ・バーバーと結婚する。その後2人は楽団を脱退。デイヴがスタジオで働き、ペギーは音楽活動を休止して娘ニキの養育に専念していた。しかし彼女は1944年には創設間もないキャピトル・レコード所属として作曲および収録に復帰した。このレーベルで彼女は数多くのヒット曲を発表した(多くはペギーとデイヴによる作詞・作曲)。

例えば「アイ・ドント・ノウ・イナフ・アバウト・ユー」(I Don't Know Enough About You)や「イッツ・ア・グッド・デイ」(It's a Good Day, 1946年)などが挙げられる。1948年のレコード年間売り上げ1位となるスマッシュ・ヒットを記録した「マニャーナ」(Mañana)のリリースにより、彼女の「隠退生活」は完全に終わりを告げた。
1948年、ペギーはペリー・コモやジョー・スタッフォードと共に、NBCのラジオ音楽番組『Chesterfield Supper Club』の司会者となる。

ペギーは1951年にデイヴと離婚。1950年代前半に数年間キャピトル・レコードを離れるが、1957年に復帰する。彼女は、リトル・ウィリー・ジョンのヒットソング「フィーバー」(Fever)や、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーの「イズ・ザット・オール・ゼア・イズ」(Is That All There Is?)のカバー・バージョンが最もよく知られている。彼女のキャピトル・レコードレーベルとの関係はほぼ30年間に及んだ。一方、デッカ・レコードと契約していた期間は短い(1952年 - 1956年)ものの、この間に最も評判の高かったアルバム『ブラック・コーヒー』(Black Coffee, 1956年)をリリースするなど、それは芸術的に豊かな時期であった。デッカ・レコードとの契約中に、ペギーは「ラヴァー」(Lover)や「ミスター・ワンダフル」(Mr. Wonderful)などのヒットソングをリリースした。

作曲

ペギー・リーはまたソングライターとしても知られ、ディズニー映画『わんわん物語』で使用された曲(ペギー自身も歌っている)などのヒットソングを作曲している。彼女の作曲業における共同作業者は夫デイヴ・バーバーのほか、ローリンド・アルメイダ、ハロルド・アーレン、ソニー・バーク、サイ・コールマン、ジーン・ディノヴィ、デューク・エリントン、デイヴ・グルーシン、ディック・ハザード、クインシー・ジョーンズ、フランシス・レイ、ジャック・マーシャル、ジョニー・マンデル、マリアン・マクパートランド、ウィラード・ロビンソン、ラロ・シフリン、ヒュービー・ホイーラーおよびヴィクター・ヤングなどである。

若者たちがロックンロールに傾倒しはじめた時期、彼女はキャピトルの大黒柱ともいえるアーティストのひとりであった。1957年から、このレーベルでの最後の作品をリリースした1972年まで、彼女はごく普通に年に2, 3本のアルバムを発表し続けた。

女優として

ペギーはまた数作の映画において女優として演技している。1952年、彼女はかつてアル・ジョルソンが主演した映画『ジャズ・シンガー』のリメイク作『ジャズ・シンガー』で、ダニー・トーマスの相方を演じた。1955年には『皆殺しのトランペット』(Pete Kelly's Blues)で、意気消沈したアルコール中毒のブルース歌手を演じ、この作品でアカデミー賞にノミネートされた。

受賞歴

ペギーはグラミー賞に12回ノミネートされ、1969年のヒット曲「イズ・ザット・オール・ゼア・イズ」で最優秀女性ポップ・ボーカル賞(Grammy Award for Best Female Pop Vocal Performance)を受賞した。1995年にはグラミー生涯成績賞(Grammy Lifetime Achievement Award)を授与されている。

引退と死

ペギーは1990年代も活動を続けた。やがて体調の悪化にともない芸能活動を引退。数年間の闘病生活の後、2002年1月21日に糖尿病と心臓発作の合併症により81歳で死去した。彼女はカリフォルニア州ロサンゼルス市ウェストウッド地区にあるウェストウッド・メモリアルパークに埋葬されている。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 329 『伊豆の踊子』鰐淵晴子

2018-04-25 09:49:55 | 日記
ひょっとして忘れられがちな女優ですが、私は強烈な印象を受けました。何としても立ち居振る舞いが可憐というか様になっています。エキゾチックな顔立ちも当時としてははっと思わせるものがありました。サユリストは『伊豆の踊子』はやっぱりサユリちゃんだと思っています。しかし、彼女の場合一味違う存在感が滲み出ていますね。


『伊豆の踊子』鰐淵晴子



鰐淵 晴子(わにぶち はるこ、1945年4月22日 ‐ )は、日本の女優・歌手・バイオリニスト。東京都生まれ。大西学園高校卒業。身長165cm、体重48kg。アートプロモーション所属。2007年まではアクターズプロモーションに所属していた。
1995年、『眠れる美女』などで毎日映画コンクール女優助演賞受賞。
(「Wikipedia」より)



あちこち「SYOWA」 328 白鷺三味線 / 高田浩吉 

2018-04-23 00:26:31 | 日記
高田浩吉という歌う映画スターがいました。とにかく軽やかな調子の明るい歌声で人気がありました。私の街の映画館の宣伝カーが「高田浩吉、伴淳、アチャコ。超娯楽大作八雲館にていよいよ上映であります」と言いながら回っていたのを思い出します。八雲館というのは私の地元の唯一の映画館でした。この声を聞くとじっとしておられなくなり、親に小遣いをせびって見に行ったものです。当時明るい雰囲気のものに子どもたちは憧れていました。

白鷺三味線 高田浩吉 UPB-0035


高田 浩吉(たかだ こうきち、1911年11月7日 - 1998年5月19日)は、日本の俳優、歌手である。本名は梶浦 武一(かじうら たけいち)。戦前の松竹を代表する時代劇スターであり、『歌う映画スター』第1号として知られる。次女は女優の高田美和、孫は同じく俳優の大浦龍宇一である。

来歴・人物


1911年(明治44年)11月7日、兵庫県川辺郡園田村(現在の同県尼崎市東園田町)に生まれる。

1926年(大正15年)、大阪商業学校を中退して松竹京都撮影所に入社。長谷川一夫、坂東好太郎とともに「松竹下加茂三羽烏」と呼ばれる。間も無くトーキー映画時代に入ると、生来の関西弁を標準語に変える為、撮影所の江戸小唄研究会というサークルに参加。小唄のレッスンで鍛え上げたその美声を映画監督の大曾根辰夫に買われて、1935年(昭和10年)に『大江戸出世小唄』でポリドール・レコードから歌手デビュー。大曾根監督の同名の映画の中でこの歌を歌った事から「歌う映画スター」第1号として映画、主題歌共に評判になった。なお本作は当時封切られたばかりのルネ・クレールのフランス映画『巴里の屋根の下』で映画も主題歌もそれぞれ大ヒットしたのにヒントを得た大曾根監督が日本初のミュージカル映画として製作したといわれる。

『大江戸出世小唄』の大ヒットの以降、1936年(昭和11年)に『江戸節めおと姿』などを吹込むが、日中事変を契機にレコード業界は戦時歌謡全盛時代に入り、高田もやがてレコードからは距離を置き、自身も戦地に召集され、4年間の軍隊生活を経て除隊されるも戦争の激化により映画製作が激減したことから、高田浩吉劇団を旗揚げし、戦後まで地方巡業を行った。当時、弟子の1人には戦後の歌う映画スター鶴田浩二がいた。

高田が映画スターとして再び活躍するのは、1951年(昭和26年)に当時人気急上昇中の美空ひばりが主演を務めた斎藤寅次郎監督映画『とんぼ返り道中』で復帰してからである。当初はひばり相手の脇役としての出演だったが、高田の全盛期を知らない若いひばりファンたちに人気に火がつき、「平凡」の編集部宛に「ひばりちゃんと共演した新人の高田浩吉の写真が欲しい。ぜひ誌上で紹介して下さい」という投書が殺到したという。

その反響の大きさを雑誌「平凡」の編集長から聞いたコロムビア・レコードの伊藤正憲文芸部長は、高田と専属歌手の契約を結び、1953年(昭和28年)、『伊豆の佐太郎』でレコード界に再び登場。題名の佐太郎は実在の人物ではなく、作詞の西條八十の家に出入りしていた伊豆出身の佐太郎という植木職人の名前からつけたという。また、映画においても1954年(昭和29年)に始まった『伝七捕物帖』シリーズで松竹随一の時代劇スターとして再び人気を博し、この頃既に高田は44歳であった為、「奇跡のカムバック」とさえ言われた。更に、歌手としてNHK紅白歌合戦にも2回連続出場している。

1960年(昭和35年)、松竹を退社して第二東映(後のニュー東映、1961年消滅)に移籍。ここでも主演スターとして活躍したが、あまりのハードスケジュールのため作品の質が低下し、次第に人気にも陰りが見えた。また、時代劇映画が斜陽となり、同社が鶴田浩二、高倉健らの仁侠映画を中心に変わったことから、1964年(昭和39年)より活動の中心をテレビ・舞台に移した。昭和40年代の懐メロブームの際には『なつかしの歌声』(東京12チャンネル、現在のテレビ東京)などの番組に常連出演。その美声を披露した。

「娯楽映画のスターは、常に最も美しく、颯爽としていなければならない。そのためには、コンディションを維持し、私生活でも好き勝手は許されない」という言葉通り、酒も煙草も嗜まず、芝居と歌一筋に生きた。映画時代には「美貌タイム」を唱え、目が充血しないように午後八時以降は一切仕事をしなかったことで知られる。二枚目の容貌を保つため睡眠をたっぷりとることを自らに課していた。

しかし、1968年(昭和43年)に放映された『伝七捕物帳』では徹夜の仕事を強いられることになってしまった。また、京都をこよなく愛し、亡くなるまで京都で暮らしていた。その為か滅多な事がない限り東京で仕事はしていなかった。その一方で、1980年代には愛娘・高田美和の離婚・熱愛騒動や、マネージメント会社を通じて原野商法会社の宣伝用映画出演の依頼を受け、推薦文の製作や原野商法会社主催のディナーショーへの出演などの行為を行った際、依頼をした会社が詐欺行為を行っていることの確認を怠ったとして起訴されたりという事件で話題を呼んだ。

その後、高田は1988年(昭和63年)に京都市文化功労者を表彰され、1990年(平成2年)には勲四等瑞宝章を受章した。
1998年(平成10年)5月19日、肺炎のため京都府京都市北区の病院で死去した。満86歳没(「Wikipedia」より)