とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

ズック靴

2010-08-10 22:58:44 | 日記
ズック靴



 「死を考えながら崖の上で迷っていると、履いていたズック靴が『死んではいけない!』と言ったので、私ははっとしてわれに返り、思いとどまったのです。だからそれ以来ずっとズック靴を履いて全国行脚をしています」。私が勤務していたある高校で開催した講演会でそう仰った方がいる。『金子みすゞの詩を生きる』(JULA出版局)を著し、全国各地で金子みすゞの詩精神を説いている群馬県の禅僧酒井大岳氏である。十年くらい前のことであるが、私はその言葉が今でも心に焼きついている。
 その前日に出雲市主催の金子みすゞを語る講演会が出雲市民会館であった。金子みすゞさんの全貌を明らかにした矢崎節夫氏とみすゞ心酔者である酒井大岳氏が、それぞれの熱い思いを語られた。共通していたテーマは命の尊さであった。酒井氏は講演会の冒頭でぐるりと聴衆を眺め回し、突然仰った。「満席ですね。大変な人数です。この人たちがいずれ全部死ぬんですねえ」。すると、どっと笑い声が起こった。屈託のない心からの哄笑(こうしょう)だった。私も思わず大きな声で笑っていた。笑いながら、日頃の心のもやもやが霧消するのを感じた。
 最近、残念なことに、子どもの殺害とか自殺などの死を報じるニュースを見聞きすることが多くなってきた。その度に酒井氏の言葉を思い出す。諸行無常をわきまえた上でさらりと生と死を語り、思いやりの心と生きる力をやんわりと胸の奥に渡し届けるその人柄。さすがだと思っている。
 ベレー帽にズック靴姿の禅僧の辻説法は、今の世こそ広く求められているのではないかと思うこの頃である。 (2005投稿)
 
 
 

ピアノ

2010-08-10 15:24:29 | 日記
ピアノ



 一月七日の朝NHKのラジオニュースを何気なく聞いていた。すると、「被爆ピアノ」が昨年末広島市で運搬中にトラックごと川に転落して大破したという。私は直感的に感じるものがあったので、すぐさまパソコンで検索し、河北新報ニュースの関連情報を探し当て、最期を迎えた「被爆ピアノ」に関する詳細な内容を知ることができた。このピアノは爆心地近くの音楽教員が所有していたが、被爆当日は爆心地から五キロの場所に移されていたので、惨禍を免れたそうである。戦後は各地の演奏会で活躍していたらしい。
「ヒバクピアノ」……。その言葉を反芻しているうちに、私の連想は、芥川龍之介の掌編小説「ピアノ」に自然と繋がっていった。関東大震災に遭って弓のように曲がったある廃墟のピアノが、作者が通りかかったときに、ポロン、と音を出すという物語である。
 私の心の奥でこの二つのピアノが結びついたのは、いずれもこの世の地獄を見ているからである。人死して「もの」残り、哀しい諧調で過去を語るピアノ。そしてまた主を失って我が身はぼろぼろとなっても、なお楽器であろうとするピアノ。
 「もの」にも心あり。などと言ってもこういう世界は言い尽くせない。人が作り出した「もの」は形ある限り時の試練を超えて「もの」以上の「もの」になる、という真実をピアノが語っているように私には思えて、しばし厳粛な気持ちになった次第である。(2005投稿)

参考記事:広島被爆ピアノで演奏会
                                  

ガラスのうさぎ

2010-08-10 14:44:28 | 日記
ガラスのうさぎ


下の画像は、次のサイトからお借りしました。多謝。
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 「……大砲で砲弾を撃つ場面はニュースで報じられますが、その後向こうで何が起こっているかは報じられません……」。ある朝、寝ぼけながらNHKのラジオのインタビュー放送を聞いていたら、そんな言葉が耳に入ってきた。話していたのは、『ガラスのうさぎ』(金の星社)の作者高木敏子氏であった。よく聞いていると、自作のアニメ化をやっと承諾し、近く完成するという話のようだった。私はいっぺんに目が覚めた。その作品は、私が子ども向けの戦争文学の中で最も感動した作品だからである。
 何、アニメ化? 私は自分の耳を疑ったが、確かにそういう事業が進行しているようであった。高木氏はアニメ化しても自作の世界は伝わらないと考えていたようである。しかし、時を経るうちに、戦争を知らない子どもたちが増えてきたことが高木氏に危機感を抱かせた。そして、四回目の要請でやっと決意したという。
 高木氏は昭和二十年三月十日の東京大空襲で母と妹二人を失い、父もその年の夏米軍の艦載機P51の機銃掃射で死んでいく。作品はその悲惨な実体験を子ども向けの小説にまとめたものである。
 主人公の少女は父の死後、夜中に海の中へ入っていく。しかし、はっとわれに返り、海から上がる。そして、父の遺体の前で、「私が死んだら、(中略)お墓まいりは、だれがするのか」と考え、「どんなことがあっても生きなければ」と自分に言い聞かせる。
 今でもこのような悲劇が現に起こっている。作者は被害者の一人として、戦争の残虐さを後世に語り継ぐ大きな責任に突き動かされたのである。私は戦中生まれだが、戦争を知らない世代に属している。だからこのアニメを必ず観て、高木氏の熱い心を体全体で受け止めたいと思っている。     (2005投稿)