こころの荷物
人生に処するスタンスは人さまざまである。重い荷物を背負って、遠い道を歩きつづけた天下人もいる。家財を人に譲り、身一つで道を求めて旅に出た俳人もいる。
私の場合は何にしろ重い荷物を背負い込むのはあまり向いていない。身も心ももろくできているようだ。だから例えば身の回りの所持品でもかさばるものは荷物に思えてくる。中でも一番始末の悪いものは本だと思っている。私にもしものことがあれば家族は始末に困るだろうと思うのである。
そこである学校には転勤時に貴重な郷土資料を多数寄贈した。新品の本を後輩にあげたこともある。学園祭の古本市に出して処分したものも多数ある。高価な『時代別国語大辞典』をリサイクルショップに出し、ただ同然で引き取って貰ったこともある。最近は諸橋徹治氏の『大漢和辞典』をすべてある人に譲った。かくして今家にある本は残りかすみたいなものばかりである。何か調べようとして書棚を探していて、ああ、あの本はあの人の所にある、と思い出すことたびたび。しかし惜しいことをしたとはちっとも思わない。
一つひとつ身軽になる。なんといい気持ちではないか! そんな心境を今私は味わっているのである。ところが、どうしても整理できないことがある。それは心の後始末である。
口外も出来ぬあやまち連れて老い
(今岡忠雄)
本紙三日付け「しまね柳壇」のこの句が私の心にからんできて、私は最近精神的に身動きができなくなった。軽いもの、重いもの。身に負っている若いころからの「あやまち」を次々と思い出したのである。……これだけはお土産に持っていくしかないな。(2006年投稿)
人生に処するスタンスは人さまざまである。重い荷物を背負って、遠い道を歩きつづけた天下人もいる。家財を人に譲り、身一つで道を求めて旅に出た俳人もいる。
私の場合は何にしろ重い荷物を背負い込むのはあまり向いていない。身も心ももろくできているようだ。だから例えば身の回りの所持品でもかさばるものは荷物に思えてくる。中でも一番始末の悪いものは本だと思っている。私にもしものことがあれば家族は始末に困るだろうと思うのである。
そこである学校には転勤時に貴重な郷土資料を多数寄贈した。新品の本を後輩にあげたこともある。学園祭の古本市に出して処分したものも多数ある。高価な『時代別国語大辞典』をリサイクルショップに出し、ただ同然で引き取って貰ったこともある。最近は諸橋徹治氏の『大漢和辞典』をすべてある人に譲った。かくして今家にある本は残りかすみたいなものばかりである。何か調べようとして書棚を探していて、ああ、あの本はあの人の所にある、と思い出すことたびたび。しかし惜しいことをしたとはちっとも思わない。
一つひとつ身軽になる。なんといい気持ちではないか! そんな心境を今私は味わっているのである。ところが、どうしても整理できないことがある。それは心の後始末である。
口外も出来ぬあやまち連れて老い
(今岡忠雄)
本紙三日付け「しまね柳壇」のこの句が私の心にからんできて、私は最近精神的に身動きができなくなった。軽いもの、重いもの。身に負っている若いころからの「あやまち」を次々と思い出したのである。……これだけはお土産に持っていくしかないな。(2006年投稿)