とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

こころの荷物

2010-08-22 23:21:54 | 日記
こころの荷物



 人生に処するスタンスは人さまざまである。重い荷物を背負って、遠い道を歩きつづけた天下人もいる。家財を人に譲り、身一つで道を求めて旅に出た俳人もいる。
 私の場合は何にしろ重い荷物を背負い込むのはあまり向いていない。身も心ももろくできているようだ。だから例えば身の回りの所持品でもかさばるものは荷物に思えてくる。中でも一番始末の悪いものは本だと思っている。私にもしものことがあれば家族は始末に困るだろうと思うのである。
 そこである学校には転勤時に貴重な郷土資料を多数寄贈した。新品の本を後輩にあげたこともある。学園祭の古本市に出して処分したものも多数ある。高価な『時代別国語大辞典』をリサイクルショップに出し、ただ同然で引き取って貰ったこともある。最近は諸橋徹治氏の『大漢和辞典』をすべてある人に譲った。かくして今家にある本は残りかすみたいなものばかりである。何か調べようとして書棚を探していて、ああ、あの本はあの人の所にある、と思い出すことたびたび。しかし惜しいことをしたとはちっとも思わない。
 一つひとつ身軽になる。なんといい気持ちではないか! そんな心境を今私は味わっているのである。ところが、どうしても整理できないことがある。それは心の後始末である。
 口外も出来ぬあやまち連れて老い
               (今岡忠雄)
 本紙三日付け「しまね柳壇」のこの句が私の心にからんできて、私は最近精神的に身動きができなくなった。軽いもの、重いもの。身に負っている若いころからの「あやまち」を次々と思い出したのである。……これだけはお土産に持っていくしかないな。(2006年投稿)

クレド サラヤジ

2010-08-22 06:26:22 | 日記
クレド サラヤジ



 「クレド サラヤジ」。この言葉の日本語訳は、「それでも生きていかなくちゃ」という意味である。私の愛読書となったパク・キョンナム(朴慶南)さんの詩画集(北水刊)の表題である。難しい本ではない。セキ・ウサコさんのメルヘンチックな絵がほんわかとしたいい雰囲気を作り出しているので、ミニ絵本と考えてもいい。キョンナムさんは米子市出身の女性エッセイストである。
 筆者の「人生のエッセンス」が各ページにほんの数行の文章でつづられている。「好きになる第一歩は/感じること/ふれることだよ」。「自分が好きになった人でしょ/自信を持ってぶつかっていけばいい」。例えばこういうページを読むと、忘れていた何かを思い起こさせてくれる。
 また、「生きているということは/自分が何か役に立つことがあるからじゃないか/と思うんです」という言葉に接すると、来し方を振り返り、そして今の自分の生きざまを内省し、うん、そうかもしれない、自分も何かの役に立っている! と思えてくる。こう思うことができれば、日増しに存在感が希薄になっていくように思える自分を内から支える柱となる。
 キョンナムさんの両親は幼い頃日本に来た。だから、キョンナムさんは日本で生まれ育った在日韓国人二世である。「この言葉(クレド サラヤジ)は、両親の大切な故郷の言葉です。ときおり、祖母や母がふっと口にするのを聞いて育った私も、たまーにつぶやいてみます」。すると、力が湧いてくるという。
 韓流ブームの昨今、韓国語(朝鮮語)を耳にする機会が多くなった。そんな中で、この「クレド サラヤジ」という言葉は、韓国という国を私に近づけてくれた。(2006年投稿)

クリスマスリース

2010-08-22 06:23:01 | 日記
クリスマスリース



 私は少人数の小学生と公民館で物づくり教室を開いている。一学期は絵本づくりをしていたが、二学期からは活動の幅を広げ、ペーパークラフト的なものも手がけた。そして今はクリスマスリースに挑戦している。私は子どもたちの発想の豊かさに驚くとともに、かえって子どもたちからたくさんのものを学んでいる。
 さてそのクリスマスリースであるが、私はすっかりはまってしまった。一月前ごろからその形、材料、パーツの配置を考えつづけている。いろいろな店のクリスマス用品のコーナーで材料を買い求めたり、既製の大小のリースをじっと観察したりしている。値の張るものはやはりモミなどの生葉が使ってある。形、配色もいい。しかし私はもっぱら既製の模造品を使っている。工夫しているうちに何とか見られるものが出来るようになった。ポイントを下に置くか、上に置くかで趣ががらっと違ってくる。私は作る楽しみが少しずつ分かってきた。
 リースは日本のしめ縄とは違って装飾として楽しめる。壁に掛けても、天井から吊り下げてもオシャレである。リースの円形は終わりがない神の愛を示し、ヒイラギを用いるのはキリストのイバラの冠に由来しているという説がある。植物の緑葉や赤い実を用いるのは自然に感謝し、その生命の力を授かるという意味があると思われる。
 人は全く思いもよらない世界に誘い出されるものである。公民館でクリスマスリースを作るようになるとは夢にも思わなかった。先日子どもたちに材料を渡しながら、出会いの不思議をつくづくと思った。また、生きがいを私に分け与えた目に見えぬ力をひしひしと感じた。                      (2006年投稿)

カブトムシ

2010-08-22 06:19:33 | 日記
カブトムシ



 最近子どもたちの間でカブトムシやクワガタがはやっているとか。しかも輸入までされているという。爬虫類、両生類などとは違ってペットとしてはえらく古典的だなあと私は思っていた。ところがこの現象はあるゲーム・ソフトの影響のようである。それを知って私はやっぱりと思った。
 カブトムシと言えば、即座に私はイノシシと結びつける。この連想は昨年の夏の貴重な体験に起因する。
 昨年の今ごろは仏教山の麓の枝葉リサイクルセンターで仕事をしていた。そこには幾つかの枝葉チップの山があって、カブトムシの幼虫の住みかになっていた。実は私も初めて知ったのだが、イノシシはその幼虫が好物だったのである。だから、夜になるとイノシシが群れをなして山から出てきて、チップの山の周辺をほじくり回して幼虫を食い荒らす。
朝仕事場に行って見ると、チップの山が変形するほど食い散らしていることもあった。私たちは泥田のようになったチップ置き場を呆然として見ていた。何とものすごいことよ。この調子で毎晩出てくると、チップの山は無くなってしまうのではないのか、と思われたのである。
 自然界の異変はイノシシの世界にも及んで、山から里へ食べ物を求めて出没したのである。だから、私たちは幼虫を見つけ次第チップを詰めたコンクリートの囲いの中に入れて、網戸で蓋をすることにしていた。その囲いの中のチップから、毎日たくさんの成虫が這い出てきた。見ていると、虫たちが愛しくなった。
 カブトムシを幼虫から育てて成虫になる瞬間の喜びをたくさんの子どもたちに体験させたい、と私は思っている。ゲームよりずっと面白いと考えるのは私だけだろうか。
                    (2006年投稿)

カエル

2010-08-22 06:12:40 | 日記
カエル

 ウシガエルの声を今夏は久しぶりに聞くことができた。最初は何の声かと耳を澄まして聞いていたが、それと分かると、懐かしい気持ちが一時に込み上げてきた。家の前の農業用水路に居るらしい。名の通り牛の鳴き声に似ている。子どもの頃、溜池に釣りに行ったものである。また、昨年は仕事場でヒキガエルを見た。のそのそと歩いて暗がりに消えていった。自然は次第に回復しているかもしれない。
 蟾蜍長子家去る由もなし
         中村草田男
 カエルのことを考えている私の頭の中をくるみ込むようにこの草田男の句が浮かんできた。あたかも「蟾蜍(ひきがえる)」が私を責めたてているように思えたのである。
 この句は難解句の部類に属するので、全体の解釈は簡単には出来ない。しかし、私はヒキガエルの姿から「家」の因習を感じたのである。そして、「長子」が跡を継ぐべき立場にある慣わしの重苦しさが作者を苦しめているかもしれないとも思った。「家去る」という行為は作者の実現不可能な憧れでもあるかもしれない。
 しかし、私は「長子」だったが「家」を去り、新しい生活を妻と協力して築いていった。そして三十年にもなろうとしている。しかし、「家」を「去る」ことが果たしてよかったかどうか、今も明快な答えを出せないでいる。
 ヒキガエルのように古い家の庭の隅に棲んでいた方が良かったか、はたまた、ウシガエルのようにどこへも行ける用水路に移り棲んだ方がよかったか。(2006年投稿)