とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」(番外)藤田菜七子ちゃんやった!ついにJRA通算100勝

2020-04-27 16:08:31 | 日記
藤田菜七子、骨折を克服して通算100勝 !!!! この勢いでコロナも逃げていく ?!  沈んだ雰囲気の中私はスカッとしました。映像提供者に感謝です。

【100勝】藤田菜七子ちゃんやった!ついにJRA通算100勝達成おめでとう


藤田 菜七子(ふじた ななこ、1997年8月9日 - )は、日本中央競馬会(JRA)所属の騎手。根本康広厩舎(美浦トレーニングセンター)所属。マネジメント先はホリプロ。
16年ぶりに誕生したJRA生え抜きの女性騎手として注目を集め、2018年にJRA女性最多勝利記録を樹立。翌2019年には史上初の女性騎手によるJRA重賞制覇を果たした。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」(675) 稲垣潤一 クリスマスキャロルの頃には

2020-04-19 23:21:12 | 日記
実力とはこういうものだ、ということを感じさせます。

稲垣潤一 クリスマスキャロルの頃には




稲垣 潤一(いながき じゅんいち、1953年7月9日 - )は、日本の歌手、ミュージシャン。本名同じ。宮城県仙台市宮城野区出身。血液型はO型。身長173cm。

来歴・人物

父親は東京都板橋区、母親は兵庫県神戸市出身で、父が終戦後、満州からの妻の疎開先・宮城県宮崎村に引き揚げ、仙台市に移り住んだ後、潤一が生まれた。
仙台市立東華中学校を経て、宮城県工業高等学校卒業。

中学に入り本格的なバンド活動を始め、仙台にて「フェイセス」を結成。その後、仙台のライブハウスや横須賀や立川の米軍キャンプ等で演奏を続けるうち、「スーパーポップボーカル」というキャッチコピーで1982年に「雨のリグレット」でデビュー。3枚目のシングル「ドラマティック・レイン」で自身初のTOP10入りを果たし、スターダムにのし上がる。

1986年から1989年にかけてオリジナルアルバムが4作連続1位を獲得した。また、1992年に発売した「クリスマスキャロルの頃には」は170万枚を売り上げ、今でもクリスマスソングの定番として親しまれている。

現在では自作曲もあるが、そのレパートリーは他の作詞・作曲家提供による楽曲がほとんど。その後もシングルのタイトル曲は自作していない。しかし、1984年には神田正輝のシングル「マティーニの後で」のカップリング曲の作曲を担当した。
「思い出のビーチクラブ」(1987年カナダドライ・ジンジャーエール)、「セブンティ・カラーズ・ガール」(1989年初春のカネボウ化粧品)、「APRIL」(1986年三洋電機)などのCMソングも多数。

デビュー当初は、東芝EMIとの契約だったが、後にファンハウス(現:アリオラジャパン)に移籍し、ファンハウスを傘下にする前のBMGビクター・BMGジャパンを、さらにテイチク傘下のコンチネンタル・レーベルを経て、やはりテイチクエンタテインメント傘下のインペリアルレコードに所属。2007年より、ユニバーサルミュージック・USM JAPANレーベルに移籍。なお、BMG(air Records)時代のものを除き(2013年にソニー・ミュージックダイレクトから再発されている)、Imperial Records時代までの楽曲の原盤権はフジパシフィック音楽出版が管理しており、2008年(平成20年)にUSM JAPANレーベルからファンハウス以前のアルバムが再発された際には、フジパシフィック音楽出版のライセンシーによりリリースされている。

映画『アイ・ラヴ・ユー』の音楽監修も務め、主題歌・挿入歌を担当している(挿入歌は、同じくテイチク所属のSALAHも担当)。
既婚だが、最初の妻とは死別している。2009年(平成21年)一般女性と再婚。同年3月14日内輪のみパーティーを済ませ、挙式も済ませている。

2006年(平成18年)には声優・長谷川杏里のデビューシングル「フラグメンツ・ブルー」の作曲を担当した。
稲垣の地元、仙台市を本拠地とする東北楽天ゴールデンイーグルスのファンクラブ名誉会員(会員No.11)であり、2007年(平成19年)3月31日フルキャストスタジアム開幕戦(日本ハム戦)で国歌独唱を行った。

2013年に日本最高峰のSUPER GTのGT300クラスのGREEN TEC RACING TEAMの監督に就任した。自身も公式ライセンスを取得しており、かつてはトヨタ・アルテッツァのワンメイクレース「ネッツカップ・アルテッツァワンメイクシリーズ」等に参戦するなど、モータースポーツへの造詣が深い。

元々はドラマーであり、ドラムを演奏しながら歌うことがライブやテレビ出演で見られる。ドラムはTAMAとエンドースメント契約を結んでいる。

(「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」674 Joan Baez ~ Donna, Donna

2020-04-13 17:38:03 | 日記
心が、自ずとほぐれていくのを感じます。フォークの根源にこの人あり。・・・このご時世、しばし和みます。

Joan Baez ~ Donna, Donna



ジョーン・チャンドス・バエズ(英: Joan Chandos Baez、1941年1月9日 - )は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター。
フォークロックの草創期から、今なお第一線で活動し続けている女性音楽アーティストの第一人者。キャリアは60年にも及び、フォーク界に多くの足跡を残した。2017年『ロックの殿堂』入り。
名前は「バイズ [baɪz]」と表記する方が近い。


来歴[編集]

1963年

ニューヨーク州のスタテン島にてメキシコ系の家に生まれる。彼女の一家は、クエーカー教徒であった。父親のアルバートは物理学者であり、軍需産業への協力を拒否し、それはジョーンの1960年代から現在まで続く公民権運動と反戦活動へ影響を及ぼした。妹のミミ・ファリーニャ(Mimi Fariña、1945年4月30日 - 2001年7月19日)もフォーク歌手であった。

歌手としての経歴は、1959年のニューポート・フォーク・フェスティバルから始まった。1960年10月、ファースト・アルバム『ジョーン・バエズ』をヴァンガード・レコードから発売。同作は「ドナドナ」「朝日のあたる家」などトラディショナルのフォーク・バラード、ブルースと哀歌が、彼女自身のギターによって演奏されたものであった。

1961年9月発売の『ジョーン・バエズ Vol.2(Joan Baez, Vol. 2)』はゴールド・アルバムとなり、翌年リリースされた『ジョーン・バエズ・イン・コンサート 』も同じくゴールド・アルバムを獲得した。バエズは、1960年代初頭から中期に掛けて、アメリカにおけるルーツ・リバイバルの先頭に立ち、自らの聴衆に対し、ブレイク前のボブ・ディランを紹介し、また多くのアーティストは彼女を模倣した。

1968年12月、ディランの作品のみを歌った2枚組のアルバム『Any Day Now』を発表。シングルカットされた「ラヴ・イズ・ジャスト・ア・フォー・レター・ワード」はバエズのコンサートの定番曲のひとつとなった。
1969年、ウッドストック・フェスティバルに出演。

2010年3月、スペイン政府より芸術文学の勲章を受勲し、Excelentisima Señoraの称号を得る。
2017年、『ロックの殿堂』入りを果たす。

2018年、10年ぶりのアルバム『Whistle Down the Wind』をリリース。この作品と、それに伴うワールドツアーが最後になると明言し、第一線からの引退を表明した。 (「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」(番外)「スター・ウォーズ」メドレー / エレクトーン演奏

2020-04-08 00:34:25 | 日記
こういう時期にはこの曲。元気、やる気が出てきます。「826aska」のエレクトーンの才能はは抜群です。

「スター・ウォーズ」メドレー 【 STAR WARS 】 エレクトーン演奏


826aska(はちにろくあすか、2001年8月26日 -)は、福井県鯖江市の電子オルガン奏者。

母親の影響で8歳から電子オルガン教室に通い始め、父親の発案により2010年から演奏動画を定期的にYouTubeに公開していた。
アカウント名の「826」は誕生日に由来。

2015年12月31日にスター・ウォーズのメドレー動画を投稿したところ、英国『デイリー・メール』で「謎の日本人女性による完璧なカバー」として紹介された。

その後『都市日報』カナダ版や、スイスの『ル・ヌヴェリスト(フランス語版)』紙にも取り上げられ、同動画は公開後1か月で100万回再生を突破した。
その後、『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』ローカル枠(FBC福井放送)や福井市の商業施設ハピリンの開業記念イベントなどでライブ演奏。
兄のRyo(ドラム)と共演することもある。(「Wikipedia」より)