とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」806(二人の銀座) 和泉雅子さん 山内賢さん

2024-06-02 01:39:00 | 日記
この映像を見て、ぐっときたのはドラム。和田浩治です。私はデビュー当時から魅かれていました。石原裕次郎似の独特の魅力。私は映画館でその立ち居振る舞いをじっと見つめていました。これは裕次郎超えの大器だと信じていました。ところが数作の主役の後脇役ばかり。いまだに理由がわかりません。この作品でもドラムを叩いている脇役。しかし、それでも震えるくらいに感激しました。

昭和の歌 (二人の銀座) 和泉雅子さん 山内賢さん


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「二人の銀座」(ふたりのぎんざ)は、ザ・ベンチャーズが作曲し発売したシングル。のちに和泉雅子・山内賢の2人がデュエット曲としてカバーし、シングルとして発売し映画化される。その後、ザ・ベンチャーズが作曲し発売した「東京ナイト」も同様に和泉雅子・山内賢の2人がデュエット曲としてシングル発売され、同様に映画化される。

和田 浩治(わだ こうじ、1944年1月28日 - 1986年7月6日[1])は、1960年代から1980年代前半にかけて活躍した日本の俳優。本名、和田 愷夫(ひでお)。ホリプロに所属していた。

https://shige-zii.amebaownd.com/posts/342397/より引用
来歴・人物
茨城県水戸市に、ジャズピアニスト・和田肇[注釈 1] の次男として生まれる。東洋音楽学校声楽科在学中の1959年、当時人気の石原裕次郎に似ていることからスカウトされ、日活に入社し、同年の『無言の乱斗』に主演し、映画デビューする。

翌1960年から、石原裕次郎(タフガイ)、小林旭(マイトガイ)、赤木圭一郎(クールガイ)とともに「ダイヤモンドライン」を結成。(やんちゃガイ)と称され、「愚連隊シリーズ」や「小僧シリーズ」に次々と主演する。ダイヤモンドラインの中では一番若く、『俺の故郷は大西部』のような奇想天外な設定のアクション映画が多かった。多くの作品で「日活パールライン」を構成していた清水まゆみと共演し、名コンビと称される。

しかし、年を経るにしたがって、他の主演級と比べて特徴を売り出すことが出来ず、1963年頃から徐々に脇役に回ることが多くなった。1968年には浅丘ルリ子、二谷英明と共にNHK大河ドラマ『竜馬がゆく』に高杉晋作役で出演している。

旧日活体制が終焉し、ロマンポルノ路線へ移行した1971年からはフリーとなり、ホリプロの企画制作だった『女番長 野良猫ロック』に出演した縁から、最終的にホリプロ所属となった。千葉真一主演『殺人拳シリーズ』の第三作『逆襲! 殺人拳』で沖縄武術の達人である敵役に扮するなど、いくつかの映画作品に出演した後、1978年からテレビ時代劇『大岡越前』第5部に同心・風間駿介役で登場。血気盛んな好漢の同心役は好評で、第9部(1985年〜1986年)まで出演し、生涯の当たり役になった。風間を主人公とした、当時としては珍しいスピンオフ作品『疾風同心』『八丁堀暴れ軍団』も制作されるなど、時代劇俳優として新境地を開拓していく。

私生活では酒豪として知られ、1971年に梓みちよと結婚したが、翌1972年にスピード離婚。1974年にクラブ経営者・田村順子と再婚し、1975年1月にハワイで挙式したことも話題になった。いずれの妻との間にも子はいない。

1984年12月に「胃が痛い」と最初の不調を訴えたが、薬などでごまかしていた。1985年6月1日、とうとう我慢できずに病院に行き、緊急入院。年末には奇跡的に回復し、一時退院で活動再開。しばらく休んでいた『大岡越前』に復帰し、最後のレコーディングとなった『なぐさめ』を収録したが、1986年になり再び体調悪化。2月14日から10日間入院し、その後は一進一退の状況が続く。5月15日、『酒井広のうわさのスタジオ』(NTV系)に出演し、その『なぐさめ』を披露した二日後の5月17日に再入院。1986年7月6日、妻に看取られ、胃癌のため42歳で死去した。



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