とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」713 パイナップルプリンセス 田代みどり

2021-04-29 17:29:14 | 日記
こういうほのぼのとした唄はいかにも昭和という感じで、頭をリセットするのにいいですね。経歴を見て、三原綱木さんとご縁があったことを初めて知りました。

パイナップルプリンセス 田代みどり



田代 みどり(たしろ みどり、本名:田代 清子。1948年4月22日 - )は、歌手・女優。鳥取県生まれ、大阪府大阪市出身。精華学園女子中学校卒業。


経歴

7歳の頃から大阪のジャズ喫茶で歌い、その歌唱力が平尾昌晃に認められて1958年に上京。1960年8月、小学6年のとき、テイチクより「スイート・ナッシンズ」でデビュー、1961年1月発売の「パイナップル・プリンセス(英語版)」(アネットのカバー)が大ヒット。1960年に日活「善人残酷物語」で映画デビュー。他に「舞妓の上京」「ママ恋人がほしいの」などの青春映画に出演。

1970年に「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」の三原綱木と結婚。1972年に「つなき&みどり」を結成し「愛の挽歌」を発売し大ヒット。その後、シングル「愛の絆」、「ふたり」、LPを出すがヒットに恵まれず、1974年コンビを解散。1977年離婚。その後、メンズクラブのモデルとして名を馳せ、今も現役モデルとして活躍中の高橋尚美と再婚。

その後芸能界を引退。2000年代以降懐メロの番組に出演している。元夫との「つなき&みどり」を(『NHK歌謡コンサート』2011年7月12日放送分など)単発で再結成することもあった。(「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」712  よく喋るお母ちゃん その2

2021-04-24 17:29:46 | 日記
浪花千栄子さん。朝ドラ「おちょやん」のモデルです。ほんとに明るいお方ですね。しかし、ドラマを視ていると、とにかく重い、苦しそう。あんなご苦労あっての明るさなんですね。実感です。

よく喋るお母ちゃん その2


浪花 千栄子(なにわ ちえこ、本名・南口 キクノ(なんこう きくの)、1907年(明治40年)11月19日 - 1973年(昭和48年)12月22日)は、日本の女優。昭和初期から中期(1920年代後半〜1970年代前半)に活動した。


来歴

大阪府南河内郡大伴村大字板持(現・富田林市東板持町)に、養鶏業を営む家に生まれる。8歳の時に道頓堀の仕出し弁当屋に女中奉公に出される。その後、京都で女給として働いていたが、18歳のとき、知人の紹介で村田栄子一座に入る。間もなく舞台にも立つようになるが、不入りが続き、東亜キネマ等持院撮影所に移る。香住 千栄子の芸名で端役出演を続け、1926年(大正15年)に山上伊太郎の初シナリオによる大作『帰って来た英雄』の準主役に大抜擢され、それ以来順調に役をこなしていく。その後、市川右太衛門、市川百々之助に招かれて帝国キネマにはいり、芸名を浪花 千恵子に変えて、映画出演を続けたが、給与未払いなどもあり映画界から足を洗う。

1929年(昭和4年)、松竹傘下の「新潮劇」に参加。1930年(昭和5年)に、2代目渋谷天外、曾我廼家十吾らが旗揚げしていた松竹家庭劇に加わる。同年、2代目天外と結婚し、松竹家庭劇、および1948年(昭和23年)に2代目天外らが旗揚げした松竹新喜劇の看板女優として活躍する。しかし、2代目天外と新人女優九重京子との間に子供が生れたのをきっかけに離婚し、1951年(昭和26年)、松竹新喜劇を退団する。

芸能界から身を引き、同業者にとっては行方不明同様になっていたが、NHK大阪放送局のプロデューサー・富久進次郎が浪花を捜索。その富久に請われて、NHKラジオの『アチャコ青春手帖』に花菱アチャコの母親役として出演し人気を博した。『アチャコほろにが物語 波を枕に』を経て、引き続き『お父さんはお人好し』にも二人で出演、これが長寿番組となり、斎藤寅次郎監督により映画化もされた。

同時に映画出演も続き、溝口健二監督の『祇園囃子』で茶屋の女将を演じ、ブルーリボン助演女優賞を受賞して以来、溝口監督や木下恵介監督らに重用される。この時期の代表作に、森繁久弥と共演した『夫婦善哉』(1955年)、黒澤明の『蜘蛛巣城』、内田吐夢の『宮本武蔵』、小津安二郎の『彼岸花』などがある。京都嵐山の天龍寺内に旅館「竹生(ちくぶ)」を開き、養女とともに経営。開業直前には、溝口監督に頼まれて『近松物語』(1954年)で共演する香川京子を旅館に預かり、着物の着こなしや立ち振る舞いを指導した。(「Wikipedia」より)

テレビドラマでも『太閤記』、『細うで繁盛記』などに出演した。

1973年12月22日、消化管出血のため死去。66歳没。没後、勲四等瑞宝章受章。

あちこち「SYOWA」711 中山七里 橋幸夫

2021-04-13 01:39:41 | 日記
この映画、私は初めて知りました。唄だけの世界がこうして実際に姿として現れると新鮮です。思いがけない女優さんも登場したりして。

中山七里 橋幸夫



中山七里(なかやましちり)は、岐阜県にある飛騨川中流の渓谷。またそれを題材とした文芸作品。

概要
岐阜県下呂市を流れる木曽川支流の飛騨川の中流に沿って、下呂市三原の帯雲橋(たいうんきょう)から同市金山町金山の境橋にかけて続く、全長約28キロメートルの渓谷。急峻な山地を飛騨川が浸食してできた渓谷で、奇岩や怪石が数多くあり、また春は桜や岩つつじ、夏はホタル、秋は紅葉と、四季折々の風景に富む観光名所となっており、「屏風岩」「羅漢岩」「孝子ヶ池」「牙岩」などが有名である。

付近の下原ダムはこの渓谷の景観を守るため常時放水を行っている。飛騨木曽川国定公園の一部に指定されているほか、飛騨・美濃紅葉三十三選にも選定されている。

この付近には国道41号とJR高山本線が飛騨川に沿って走るため、車窓からでも存分に景色を楽しむことができる。飛騨金山駅、焼石駅、下呂駅下車。

名称の「中山七里」は、豊臣秀吉の武将で飛騨一国の国主となった金森長近が、五つもの峠を越える旧道がいかにも不便なことから、天正14年 (1586) に秀吉の許しを得て飛騨街道の改良に着手、現在の下呂から金山にかけて続く険しい山中の飛騨川沿いの難所を約七里にわたって開いたことに由来する。

「中山七里」を題する作品

戯曲

長谷川伸の時代物の戯曲。1929年(昭和4年)10月『舞台戯曲』十月号に発表された。絵に描いたような江戸っ子の木場の政吉は、恋仲のおさんと死に別れると、あてもない旅烏となって諸国を放浪する。それから3年。ある日ひょんなことから助けた娘お仲は、元恋人の生き写しだった。お仲のために命を賭ける政吉を恋と喧嘩と旅で綴った「股旅物」の傑作。幾度も舞台化、映画化、テレビドラマ化された。  (「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」710【北の国から ラーメン屋】名シーン

2021-04-06 17:02:20 | 日記
何にも言えません。頭の中をいろんな思い出が駆け巡って。ただ、ただ、・・・。「北の国から」は特によかった。

【北の国から ラーメン屋】名シーン



田中 邦衛(たなか くにえ、1932年11月23日 - 2021年3月24日)は、日本の俳優。

映画・若大将シリーズで青大将、テレビドラマ『北の国から』で黒板五郎を演じ、国民的俳優となった。他にも『居酒屋兆治』『タスマニア物語』など多数の映画やドラマに出演。『学校』の演技で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、『子連れ狼 その小さき手に』の演技でブルーリボン賞の助演男優賞受賞。旭日小綬章受章。


1957年、今井正が監督した映画『純愛物語』に初出演した。そのアクの強い風貌から、アクション映画でチンピラや殺し屋役を演じるが、1961年の東宝映画『大学の若大将』では、若大将のライバル・青大将役で出演した。敵役・悪役だがコミカルで憎めないキャラクターを好演し、「若大将シリーズ」のレギュラーとなる。以来、映画・テレビドラマで幅広く活躍している。岡本喜八にも気に入られ、監督別では最多の11本に出演している。

1965年に出演したフジテレビのドラマ『若者たち』は映画化され、第22回毎日映画コンクール男優主演賞を受賞。

ヤクザ映画では、同年からスタートした「網走番外地シリーズ」で高倉健演じる主人公を慕う舎弟をコミカルに演じ、1973年から始まった「仁義なき戦いシリーズ」では、それまでのイメージを一新するずる賢いヤクザ・槙原政吉を演じた。以降、東映作品のバイプレイヤーとして活躍する。

1973年、井川らと俳優座を退座する。安部公房と行動を共にした後フリーとなる。

1980年代以降は映画への出演は減るが、1981年からの『北の国から』シリーズでの葛藤を持ちつつも2人の子を温かく見守る父親・黒板五郎役が全国的に知られることになる。

1993年、『学校』にて苦労しながら夜間中学に通う労働者役を演じ、第17回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。

1988年から1995年まで出演した大正製薬「大正漢方胃腸薬」の年末のテレビCMでは歌って踊るエンターテイナーぶりを披露。コラムニストのナンシー関から絶賛を受け、作家の小林信彦からも高く評価された。

2010年公開の映画『最後の忠臣蔵』へ出演、以降俳優としては表舞台から遠ざかる。

2012年6月29日、『北の国から』『岡っ引どぶ』など多くの作品で共演した地井武男が死去。8月6日に青山葬儀所で営まれた「お別れの会」では発起人の一人として名を連ねた。参列者代表7人による「お礼の言葉」では、吉岡秀隆の介添えで最後に祭壇の前に立ち「おいらまだ信じられない」「会いたいよ!地井にい(兄)、会いたいよ!」と悲痛な思いを地井の遺影に語りかけた。この時の姿が公の前に立った最後の姿となった。

2013年11月19日発売の『週刊女性』(2013年12月3日号)に「田中邦衛(80)ほうき片手の隠居生活『俳優引退』を直撃撮!」との記事が掲載され、「長ゼリフが入らない」ことを理由に仕事の依頼を断っていることが伝えられた。同日放送されたフジテレビの情報番組『ノンストップ!』では妻が電話取材に応え「体力的に厳しいと思います」と述べ、田中が休業状態であることを明かす一方で「演技をする夢は夫婦2人でずっと持って生活しています。引退も何も、田中邦衛の人生そのものが役者ですから」と、田中の心情を思い「引退」との明言は避けている。2015年、『週刊ポスト』(2015年10月30日号)にて施設に入居しリハビリ生活を送っていることが報じられた。

2017年10月時点では、施設から自宅に戻り、元気にはなってきているが、車椅子生活が続き俳優としての復帰に関しては解らないと、妻が取材に対して答えた。2019年9月現在はまた施設に入居したのではないかと近隣住民から推測されているが、妻は『週刊現代』からの取材に断りを入れていた。倉本聰は「(田中は介護)施設に入っていた」と語った。

2021年3月24日午前11時24分、老衰のため死去。享年90(88歳没)。

2021年4月3日、フジテレビでは当初の番組予定(映画「ジオストーム」)を変更し、田中の代表作として知られる「北の国から'87初恋」を『土曜プレミアム』の枠で特別追悼番組として放送、番組冒頭で追悼テロップを表示した。
                                            (「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」(番外) E-girls /「Love ☆ Queen」「Show Time」「Making Life! 」(a-nation 2018)

2021-04-01 17:23:45 | 日記
今改めてこの女性グループの曲・パフォーマンスを視聴していると、ほんとにすごいと実感します。今、このグループに匹敵するものはいないのではないのか。いや、失礼な言い方をしたかも知れません。お許しください。でも、でも、やはりすごい。私は、一人で興奮しています。

E-girls /「Love ☆ Queen」「Show Time」「Making Life! 」(a-nation 2018)



E-girls(イー・ガールズ)は、日本の女性ダンス&ボーカルグループ。LDH JAPAN所属。レーベルはrhythm zone。

略歴

2011年

4月24日、イベント『E-Girls SHOW』を開催[3][4]。LDHに所属する3つの女性グループDream、Happiness、Flowerを中心に構成されるプロジェクトとして始動。
12月28日、シングル『Celebration!』でデビュー。
2017年

6月5日、E.G.familyを発表し、メンバーを再構成。
7月15日 - 7月16日、『E-girls LIVE 2017 〜E.G. EVOLUTION〜』をもってDreamが解散したため、3つのグループを中心としたプロジェクトを終了し、11人組の1つのグループとして始動。
2019年

12月22日、2020年末をもってのグループ解散を発表。
2020年

12月28日、配信ライブ『LIVE×ONLINE BEYOND THE BORDER E-girls LAST LIVE』をもって解散した。(「Wikipedia」より)



写真「Wikipedia」より