とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 587ブルーライトヨコハマ 2017  いしだあゆみ

2018-12-30 00:21:36 | 日記
歌手としてだけではなく、演技派女優としても高く評価されています。芸能人としての名声をほしいままにしました。しかし、何でも出発点はやはり新鮮です。新人は新しい花束を持って登場するのですね。

ブルーライトヨコハマ 2017  いしだあゆみ



いしだ あゆみ(1948年3月26日 - )は、日本のアイドル、歌手、女優。本名は石田 良子(いしだ よしこ)。イザワオフィス所属。
長崎県佐世保市生まれ、大阪府池田市育ち。上野学園高等学校卒業。
実姉はフィギュアスケートグルノーブルオリンピック代表の石田治子、実妹は歌手の石田ゆり、石田ゆりの夫にあたる義弟は小説家・作詞家のなかにし礼。


来歴

4人姉妹の次女。生後2か月で肺炎にかかり、瀕死のところ佐世保の米軍基地の病院でペニシリンによって助けられた。フィギュアスケート選手を経て芸能界にスカウトされ、1960年に梅田コマ劇場で初舞台を踏む。児童劇団ともだち劇場で泉田行夫の指導を受けた。

1962年に上京し、いずみたくに師事。1962年4月20日、ソノブックス社よりソノシートで『夢みる恋(原題:Walkin' Back To Happiness)』を本名の「石田良子」名義で発表。1964年『ネェ、聞いてよママ』で「いしだ・あゆみ」名義でレコードデビューを果たし、テレビドラマ『七人の孫』にも出演する。1968年6月、イメージチェンジと歌手活動に専念のためレコード会社を日本コロムビアへ移籍。同年12月に発売された『ブルー・ライト・ヨコハマ』が1969年初頭から大ヒットし、150万枚の売り上げを記録。NHK紅白歌合戦に1969年から1977年まで9年連続出場、1993年には16年ぶりに復帰し通算10回出場した。

1979年、所属していた渡辺プロダクションから分社化したイザワオフィスへザ・ドリフターズなどと共に移籍し、その後は次第に女優業へ主軸を移す。

1977年、『青春の門 自立編』での演技で報知映画賞助演女優賞を受賞。
1982年の『野獣刑事』ではヌードにもなり、細身の身体と裏腹に豊満な乳房を披露し、当時の芸能マスコミはこぞって取り上げた(『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』との両作品で第6回日本アカデミー賞主演女優賞を獲得)。

1986年の『火宅の人』では、報知映画賞、ブルーリボン賞、第10回日本アカデミー賞主演女優賞など受賞。 同年の映画『時計 Adieu l'Hiver』ではフィギュアスケートのコーチを演じている。

テレビドラマでは『北の国から』や『金曜日の妻たちへ』に出演して当たり役となる。
1989年上半期の『青春家族』のヒロインを清水美砂とともに務め、放送時点41歳で当時としてはヒロイン史上最年長だった。2003年下半期に放送された連続テレビ小説『てるてる家族』で上原多香子が演じた岩田夏子はいしだがモデルで、自らもクラブの歌手で出演した。
渡哲也とのデュエット「わかれ道」では1986年12月11日放送の「ザ・ベストテン」のスポットライトのコーナーに出演した。

長く新曲の発表がなかったが、2008年1月に『ラジオ深夜便』のコーナー「深夜便のうた」の1曲として久々の新曲「オアシス」を作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童で発表。同番組で同年3月まで流された。「オアシス」はNHKサービスセンターが刊行している『ラジオ深夜便年鑑2008』の付属CDと「深夜便のうた」のオムニバスCDで聞くことができるのみである。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 586 中村晃子・虹色の湖

2018-12-28 23:56:36 | 日記
『虹色の湖』。ああ、この唄、ミリタリー・ルックが似合う中村晃子のヒット曲でした。ルックスがいいので映画でも活躍していました。キリっとした面立ちは当時の男心をくすぐりました。曲調も風貌にマッチしています。何度聞いてもうっとりします


虹色の湖 中村晃子


中村 晃子(なかむら あきこ、1948年1月3日 - )は、日本の歌手、女優、声優。千葉県習志野市出身。本名同じ。愛称はアッコ。血液型はO型。身長163cm、B85・W60・H88。趣味はゴルフ・テニス・卓球。ベルグコーポレーション所属。昭和学院高等学校卒業。


来歴

1963年、高校在学中に第2回ミス・エールフランスコンテストの準ミスに入選したことがきっかけで、松竹へ入社して銀幕デビューを果たす。多数の映画に出演し、1965年〜1966年は田村正和とコンビで売り出すも、互いに芽が出ずパッとしない存在だったが、その後同年『望郷と掟』続く『炎と掟』では安藤昇の相手役に抜擢されラブシーンを演じた。当時はカーマニアでオペルやプリンス、フォルクスワーゲン・カルマンギアなどを乗り継いだ。

1965年に『青い落葉』にてレコードデビュー。1967年に『虹色の湖』をリリース。グループ・サウンズ全盛の時期にあって、女性ソロ・シンガーとして80万枚を売り上げた。この曲は彼女の最大のヒットで、チャート3位まで上昇した。当時はミニスカートやミリタリー・ルックのファッションだった。続く1968年の『砂の十字架』もヒットを記録した。

1968年、『虹色の湖』で第19回NHK紅白歌合戦に初出場した。なお、へそ出しルックで歌っていたために、NHKにはなかなか出演できなかったという。また、アメリカドラマ『かわいい魔女ジニー』の声優も担当した。1971年にはテレビドラマ『美しきチャレンジャー』の主題歌を担当。1973年にはカバー曲『あまい囁き』がヒットした。1974年には『薔薇の囁き』を発表したが、歌う時のスタイルは、お尻が半分見えそうな黒のドレスだったと本人が述懐している。

このスタイルは中村がフランスの女優ミレーユ・ダルクに憧れ、彼女の雰囲気に近づくためだったという。20代には最初のヌードも発表した。1980年『恋の綱わたり』(TBS系ドラマ『離婚ともだち』挿入歌)も4位を記録、30万枚を超える久々のヒットとなった。さらにTBS系歌謡番組『ザ・ベストテン』にも同曲でランクインを果たした。また声優として『チャーリーズ・エンジェル』1,4で、ファラ・フォーセットの声の吹き替えを担当した。後年には『天使にラブ・ソングを…』のウーピー・ゴールドバーグの吹き替えも行っている。


弟一家と共に千葉県習志野市に在住。豪邸を構える。2002年にはTBS系生活情報番組「ジャスト」の『ミスターちんの珍邸豪邸お宅訪問』コーナーで紹介され、自家用エレベーターを導入した話などを愉快に語った。
2011年11月3日には『木曜8時のコンサート〜名曲!にっぽんの歌〜』(テレビ東京)に出演するなど、引き続き歌手活動も行っている。
(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 585 渡辺美里 My Revolution

2018-12-26 04:35:56 | 日記
「My Revolution」 !!! このタイトルに驚きました。溌溂としていて底抜けに明るい。度胸がある。マナーもいい。こんな前向きの歌手は珍しい。・・・そういう印象をデビュー当時抱きました。


渡辺美里 My Revolution



渡辺 美里(わたなべ みさと、1966年7月12日 - )は、日本の歌手である。本名同じ。東京都出身。出生地は京都府相楽郡精華町。身長は158cm(公称)。所属事務所はHeartland(1983年 - 1995年) → アンティノスマネージメント(1995年 - 2004年3月) → ブルーワンミュージック(2004年5月 - 2006年3月) → ニューカム(2006年4月 - 2007年5月14日) → ララマハロ(2007年5月15日 - 、自身の個人事務所)。


人物

東京都立松原高等学校卒業。血液型はO型。高校時代はラグビー部のマネージャー。高校の先輩に清水信之、EPO、佐橋佳幸らがいる。
1985年、EPIC・ソニー(現エピックレコードジャパン)よりデビュー。渡辺が初期に所属していた芸能事務所Heartlandの先輩でもある白井貴子の成功を受け“第二の白井貴子”としての側面もあったが、1986年のシングル「My Revolution」のヒットにより一躍人気ソロシンガーとしての地位を築く。デビュー翌年から西武ライオンズ球場、大阪スタヂアム、ナゴヤ球場などで大規模なコンサートを行い、スタジアムでの物怖じしないパフォーマンスが当時のリスナーに支持を得た。

また、ラジオパーソナリティーとしても知られており、TBSラジオ「スーパーギャング」など多数のレギュラー番組を担当。一時期は週に4本ものレギュラーラジオ番組を持ち、アイドルとは違った形のガールズポップの先駆者的シンガーとして活躍。また、1980年代後半から1990年代前半頃は佐野元春、大江千里、岡村靖幸、TM NETWORK、大沢誉志幸、小比類巻かほる等と共にエピックの稼ぎ頭的なアーティストとしても知られていた。

オリコンによれば、シングルランキング1位獲得は2作品にとどまっている一方(2位は8作品)、アルバムランキングは9作品が1位を獲得しており、このことからしばしばアルバム・アーティストなどと形容されることがある。また、アルバム連続1位獲得年数ランキングでは、松田聖子、中森明菜、B'zらと並び、歴代5位(タイ記録)の8年連続1位獲得という記録を持つ。

渡辺の楽曲の提供やプロデュースを担当している主なミュージシャンやプロデューサーに小室哲哉、岡村靖幸、木根尚登、伊秩弘将、石井妥師、大江千里、後藤次利、小林武史や渡辺と同じ高校の先輩である清水や佐橋等が居り、彼らは渡辺への楽曲提供やプロデュースで人気に火が付いた。

デビュー以来レーベル移籍は一度も行われておらず、一貫してエピックに所属している。因みにデビュー以来エピックに於ける同一のレーベル且つ長年に亘り所属している歌手は他に鈴木雅之等が居る。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 584 北島三郎 「風雪ながれ旅」

2018-12-22 00:30:09 | 日記
この唄、正確には平成だが、敢えて昭和としました。私はこの唄が歌詞と言い、節回しと言い、竹山の苦悩が感じられて一番痺れます。亡父のこともダブってきます。「なみだ船」を聴いたときは、すごい大型の演歌歌手が出てきたと驚きました。引退とかなんとか言わないで続けて唄ってください。


北島三郎 「風雪ながれ旅」



北島 三郎(きたじま さぶろう、1936年(昭和11年)10月4日 - )は、日本の演歌歌手、俳優、作詞家、作曲家、馬主。
『函館の女』に始まる「女」シリーズ、『兄弟仁義』などの「任侠」シリーズなど、数多くのヒット曲がある。
一般にはサブちゃんという愛称で呼ばれているが、原 譲二(はら じょうじ)のペンネームでも知られ、自身の楽曲の作詞・作曲ばかりでなく自身の舞台のシナリオ・演出や、北島ファミリーはじめ、他の演歌歌手への楽曲提供等、マルチな活動を精力的に行っている。
作曲家・船村徹門下出身で、門下生で作る「船村徹同門会」(会長・鳥羽一郎)では名誉相談役を務める

デビュー

1962年、新栄プロの先輩歌手、村田英雄の「王将」のヒット記念パーティーで歌手としての初舞台を踏む。この年の3月には"呼びやすさ・親しみやすさ先行"で「北海道(北の島)生まれの三郎」という由来のもとに北島三郎と命名、デビューが決定する。ただ、当時の芸能界で、「既婚の新人歌手」は有り得なかった為、プロフィール上は独身とした。

同年6月5日、日本コロムビアから「ブンガチャ節」(作詞・星野哲郎、作曲・船村徹)でデビューしたがこの第一弾は不発に終わった。北島はレコーディングを済ませていた『なみだ船』を予想していたが、その予想は完全に覆された。「ブンガチャ節」は渋谷等の繁華街で流しが歌っていた春歌(猥歌)の歌詞を変えて売り出したもので、発売から1週間で放送禁止となった(歌詞の中の"キュッキュキュ〜"との合いの手が「ベッドが軋む音」を連想させ卑猥だからという俗説もある)。

北島自身は「テレビに3回出たら、放送禁止になっちゃった。」と語っている。しかし1963年の千葉真一主演映画『やくざの歌』に出演した際に、ギターの弾き語りで「ブンガチャ節」を披露している。8月20日に急遽発売となったセカンド・シングル「なみだ船」がヒット(公称でミリオンセラー)し、出世作となる。
1963年の秋、日本クラウンの設立と同時に同社へ移籍。クラウンレコード第一回新譜に、美空ひばりらと共に名を連ねる。また、この年紅白歌合戦に初出場。この年、長男が誕生。これを週刊誌にスクープされた事と、事務所社長・西川の勧めもあり、妻子の存在を公表する。

人気確立

1965年、この年の4月に「兄弟仁義」と「帰ろかな」、そして11月に「函館の女」と、この年リリースしたうちの3曲が大ヒットし、演歌歌手としての人気を確立。『兄弟仁義』は東映で映画化され自らも出演。これも大ヒットし、シリーズ化され、主演映画スターとしても活躍するようになる。

1972年10月9日、デビューから10年間所属した新栄プロダクションから独立し、北島音楽事務所を設立。
1978年、「与作」(NHK『あなたのメロディー』で公募)は千昌夫(ミノルフォンレコード)との競作となったが、親しみやすい歌詞とゆったりした曲調でヒットし、ファン層を拡大する事に成功。
1980年代以降、『腹が丈夫』であった事をシャレにして自ら名づけたペンネーム・原譲二を用いて自ら作詞や作曲、演出を手がけた事が多くなってゆく。

1985年8月、飛行機に特設ステージを設け、機内コンサートを開催。尚、飛行機内での本格的コンサートは世界初。
1986年12月、広域暴力団稲川会の新年会に出席していたことが静岡県警の捜査で明らかになり、決定していた第37回NHK紅白歌合戦への出場を辞退する。初出場から勇退までの半世紀で、不出場となったのはこの年のみ。

高橋竹山

初代・高橋 竹山(たかはし ちくざん、1910年6月18日 - 1998年2月5日)は津軽三味線の名人。本名高橋定蔵。一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者である。演歌歌手北島三郎が歌った『風雪ながれ旅』のモデル。

人物・生涯

青森県東津軽郡中平内村(現在の平内町)小湊生まれ。
3歳の時に麻疹をこじらせて半失明する。その後近所のボサマ(盲目の門付芸人)であった戸田重次郎から三味線と唄を習い、17歳頃から東北北部・北海道を門付けしたという。

1933年3月2日に三味線引きの仕事で三陸海岸にある玉川の旅館に宿泊中、夜半過ぎに強い地震に遭った。これが昭和三陸地震と呼ばれる地震で宿泊していた宿は津波に襲われて全壊。高橋は地震が収まったあと宿から避難し津波の来る直前に命からがら宿の裏にある山へ避難することができた。

1938年、イタコをしていたナヨと結婚。
太平洋戦争の激化で三味線では生活が支えることが難しくなり、1944年、鍼灸師とマッサージ師の資格取得のため県立八戸盲唖学校に入学。一時芸の世界から身を引くが、1950年から津軽民謡の神様とも呼ばれた成田雲竹の伴奏者として各地を興行。その際に雲竹より竹山の芸名を受ける。1954年から雲竹とともにラジオ青森の民謡番組に出演した。

成田雲竹は高橋竹山に対して、伴奏のみならず他の津軽民謡に三味線伴奏を付けるよう依頼、以後雲竹の作詞作曲した『りんご節』など、雲竹・竹山のコンビで多くの津軽民謡を発掘・制作し発表した。
1963年、キングレコードより史上初の津軽三味線独奏LPレコード『源流・高橋竹山の世界~津軽三味線』を発売。これによって竹山の名は津軽三味線奏者としての名声を得る。

1964年、雲竹の引退・隠居により雲竹・竹山のコンビを解消。
1971年、青森放送で竹山を取り上げたドキュメンタリー『寒撥』が放送。一般にその名を知られるきっかけとなる。番組は同年度の文化庁芸術祭で優秀賞に選出された。

1973年、小劇場渋谷ジァン・ジァンに初出演。その後も定期的に開催したライブで多くの若者の心を捉え津軽三味線ブームのさきがけとなった。
1975年、自伝『津軽三味線ひとり旅』を出版。
1977年、新藤兼人脚本・監督により映画『竹山ひとり旅』が製作され、モスクワ国際映画祭に日本代表作品として出品される。竹山役は林隆三が演じた。

1986年、アメリカ公演をし、これが世界に津軽三味線の名を知らしめるもととなった。ニューヨーク、ワシントンD.C.、ボルチモア、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ホノルルなど7都市で10回の演奏会。厳しい論評で知られるニューヨーク・タイムズは「まるで魂の探知器でもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と最高の賛辞を贈った。
1993年、妻ナヨ死去。

1998年2月5日、喉頭癌により平内町立中央病院にて死去。享年87。戒名「風雪院調絃竹山居士」。
晩年は衰えを自覚しながらも現役を退かなかったが、内弟子として師事し最後まで演奏活動を共にした竹与に二代目高橋竹山の名を譲った。他にも弟子はいたが、竹与だけが教授活動を一切せず演奏活動だけで生活していたことを認め、その行く先を心配してのことであった。
(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 583 井沢八郎 「あゝ上野駅」

2018-12-20 17:56:24 | 日記
集団就職。東京へ、東京へと若者は仕事を求めて集まった時代。その時代性を象徴する唄として永遠に唄われる名曲です。私の従姉も田舎から出て行きました。それを寂しいとか可哀そうとか思いませんでした。当たり前のことと受け取っていました。東京への一極集中は現代も変わりません。ただ、今の若い世代にもこの唄の時代背景を是非知って貰いたいと思っています。井沢八郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。

ああ上野駅 井沢八郎





井沢 八郎(いざわ はちろう、本名:工藤 金一(くどう きんいち)、1937年3月18日 - 2007年1月17日)は、日本の演歌歌手。


来歴・人物

青森県弘前市出身。女優の工藤夕貴と元俳優でクラブDJの工藤正貴は実子。二番目の妻は声優の青羽美代子。
弘前のひとかどの名士宅に出生、同地では中学生の頃から歌唱力は評判であった。

中学卒業後、歌手を目指して上京。1963年に「男船」(作詞・松井由利夫、作曲・大沢浄二)で東芝音楽工業よりレコードデビューを果たし、同曲は30万枚を売り上げる。デビュー第三弾の「あゝ上野駅」は井沢八郎の代表曲であると同時に、第二次世界大戦後の日本の世相を反映する代表曲となった。他に「男傘」「北海の満月」などのヒット曲がある。作曲家・大沢浄二が恩師である。

伸びやかでハイトーンを特徴とする歌声で、晩年もショーやテレビ番組などで活躍していた。私生活では料亭経営者の令嬢と結婚、長年連れ添い一男一女(夕貴・正貴)を授かった。

しかし、1983年にスキャンダルのため、一時、芸能活動ができなくなったうえ、夫人と不和となりこの婚姻関係は1989年に破綻。その後、縁があり交際を続けてきた青羽と1994年再婚し、死ぬまで連れ添った。

2005年秋頃、体調不良を訴え検査の結果食道がんが見つかり手術を受けるが、翌年5月にはがんがリンパ節に転移。同年秋に再入院し、治療に努めた。

2007年1月17日午後11時18分、食道癌のため自身の転機の地でもある上野の永寿総合病院にて死去。69歳没。
井沢八郎が亡くなった1月17日は、奇しくも娘・工藤夕貴の誕生日であり、晩年和解を果たした夕貴は実父の死に人目を憚らず悲嘆した。


あゝ上野駅

東北地方からの集団就職者の愛唱歌としても知られるこの「あゝ上野駅」は1964年にリリースされ、爆発的なヒットとなった。戦後日本の歴史に残る名曲として位置付けられており、2003年には上野駅の駅前に「あゝ上野駅」の歌碑が完成した。また2013年7月28日には、上野駅の開業130周年を記念して、13番ホームの発車ベルに採用されたが、2016年11月1日からは16・17番線の発車メロディーに使用されている。

集団就職経験者を始め、昭和30年代から昭和40年代にかけての高度経済成長時代を生きた、多くの団塊世代と呼ばれる人々の想いと共に、永くこの歌が刻まれることになった。

2007年の「第39回思い出のメロディー」(NHK)では、演歌歌手・氷川きよしが井沢の追悼として歌唱した。
また、井沢の死後の記者会見では、愛娘・工藤夕貴が「『あゝ上野駅』は、パパの残してくれた大事な宝物。私がきっと、歌い継いでみせます」と涙ながらに語っていた。(「Wikipedia」より)