とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 26 化身

2016-06-30 00:55:27 | 日記
 デボラのイメージ


 

デボラ(Deborah)は、『旧約聖書』に登場する第4の士師。ラピドトの妻であり、「デボラのなつめやしの木」と呼ばれる木の下で裁きを行った(「士師記」第4章第4節以下)。
この時代には、イスラエルの民が悪を行っていた背景がある。彼らはカナンの王ヤビンに売り渡され、20年間もの間押さえつけられていた。そこで民が主に助けを求め、デボラが裁きを行うようになった。このことは「士師記」4章に詳述されている。
「士師記」5章はデボラとバラクの歌である。カナン人との戦いに参戦した部族もそうでない部族も名前が記されており、部族が完全には統一されていなかったことが窺える。ヘブライ語で最古のものの1つと言われ、散文と詩歌の繰り返しという記録方法もその古さを示唆している。(Wikiより)

 Aの心の中には常にデボラが住み着いていて、裁きを行うのです。魅力的ですが、とても厳しいし容赦ない裁断をします。反面、助けてください、というとどんなときにも素晴らしい決断をしてくれます。母の化身だといつもAは思っています。苦しみぬいて死んだ母。母は心の中にデボラとなって生きています。
「おい、お前んとこのおかか(母親)子どもができたらしいの」
 Aが地元の自転車屋でパンクを修理して貰っていると、店の従業員が突然にやにやしながらそう言いました。
 兄弟が出来ることを喜んでいると、世間は盲目の父の子どもを母親が宿したことに変な興味を感じているようでした。産まれた弟を見ると、子どもごころながら不憫に思えました、そのあと十年してから妹が生まれました。・・・ああ、私たち兄妹はこういう運命を背負って生きていくのかと思うと切なくなりました。
母親はリュウマチが高じて全身が言うことを利かなくなりました。母は目が見えない父の代わりにバイクを走らせて米や新聞の配達をして一家を支えてくれました。過剰なストレスから父親はときどき酔狂が出てきました。そういうときはAを抱えて物置の隅で震えていました。Aは抱きかかえられながら母親の不幸を肌で感じていました。
 ですから、入院して危篤状態になったときに生命維持装置を付けることをAは家族を説得する形で同意を取り付けて拒否しました。死ぬときだけは楽に死なせたいと思ったからでした。救命救急医が駆け込んできて、私たちに意見しました。しかし、誰も人工呼吸器などを付けることを認めませんでした。だから自然の成り行きで血圧が急激に下がり出しました。喘ぎ喘ぎ死んでいきました。
 「お前のお母さんは立派だった」親戚の者たちがそう言ってくれたのが唯一の救いでした。ですからAが死の床に就いたときは一切の手術、生命維持の機械は拒否したいと思っています。

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あちこち「SYOWA」 25 双子の歌手

2016-06-25 04:15:51 | 日記
 テレビを父が買ってくれて、毎日が楽しくなりました。特に双子姉妹の歌い手には目を輝かせて見入っていました。

こまどり姉妹 恋に拍手を 1965


1938年(昭和13年)2月16日、北海道厚岸郡厚岸町で炭鉱労働者をしている父親の双子として生まれた。家族は、その後樺太へ渡り、敗戦まで樺太で育つ。

太平洋戦争後は、極貧生活の中、帯広市や釧路市の炭坑町を転々とし、銭函でついに家賃が払えなくなり夜逃げ。大楽毛に移り住み、ここで姉妹は日銭を稼ぐために門付を始めた。

1951年(昭和26年)上京。東京都山谷の木賃宿に住み、父親に連れられ、三味線を片手に台東区浅草の飲食街を流すようになる。その頃スカウトを受け、1959年(昭和34年)、コロムビアに入社し「浅草姉妹」でデビュー。デビュー曲は当初「三味線姉妹」であったが、浅草を流していたという経歴から「浅草姉妹」へ変更となった。またデビュー当時の芸名は「並木栄子 並木葉子」だったがまもなく新たな芸名を一般公募、2人の意思で「こまどり姉妹」という名が選ばれた。

愛称は「演歌版ザ・ピーナッツ」。同じ双子のザ・ピーナッツとの交流は歌謡ジャンルが違っていたものの公私共に盛んであった。1960年(昭和35年)には、ザ・ピーナッツが「こまどりジョッキー」という番組の構成、出演を行っている。ただし、こまどり姉妹の方がザ・ピーナッツより3歳上である。

1961年(昭和36年)、NHK紅白歌合戦に初出場。ザ・ピーナッツに次いで紅白史上2組目の兄弟・姉妹での出場となった。紅白歌合戦にはこの年から7年連続で出場している。(Wikiより)

ザ・ピーナッツ「情熱の花」


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あちこち「SYOWA」 24 女の哀しさ

2016-06-22 01:24:39 | 日記



2007年。だから「SYOWA」ではありませんが、この年に大変な発見がありました。


 美人画で知られる江戸後期の浮世絵師・喜多川歌麿が描きながら、所在が分かっていなかった作品とみられる肉筆画が、栃木県栃木市で見つかった。歌麿の肉筆画は30点ほどしか確認されておらず、画風がどう形成されたかを知る上でも、貴重な発見といえそうだ。
見つかったのは、赤いだるまの装束を身につけた女性を描いた「女達磨(だるま)図」。縦36.5センチ、横56.5センチ。栃木市内の女性が所有していた。現在は栃木市立とちぎ蔵の街美術館が預かっている。
 「女達磨図」は、昭和初期の資料に存在が記されていたが、詳しい所在は分からず、写真なども残っていなかった。


 新聞などでこのように報じられていました。Aは、この事実に驚くとともに、ある感慨・・・、いやはっきり言うと哀しみを感じました。
達磨というと、この絵の画賛にも記してあるように、中国の少林寺で壁に向かって9年間座禅し、悟りを開いたという故事があります。女達磨図から感じたAの哀感は、勤め10年の遊女の苦行を対比させ、遊女勤めの過酷さを描いた歌麿のテーマらしきものから直感的に感じた気持ちでした。いや、Aの母と祖母は遊女ではありません。しかし、じっと見つめていると、自ずと滲み出てくる哀感。・・・ああ、私の母も祖母も苦行の日々を・・・。そう感じたのでした、南無阿弥陀仏。南無釋迦牟尼仏。

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あちこち「SYOWA」 23 Nausicaä of the Valley of the Wind (風の谷のナウシカ)

2016-06-19 00:49:27 | 日記
Aはこのアニメの世界観からたくさんのことを学びました。それに、この作品の主人公が演じるヒロイズムはけた外れに出来すぎている。しかもかわいい。Aは生涯の中でこれ以上のアニメには出会わないだろうと思いました。

 『風の谷のナウシカ』は、宮崎駿による日本の漫画作品。アニメーション監督・演出家でもある同氏が、徳間書店のアニメ情報誌『アニメージュ』誌上にて発表したSF・ファンタジー作品。科学文明の崩壊後、異形の生態系に覆われた終末世界を舞台に、人と自然の歩むべき道を求める少女ナウシカの姿を描く。1984年には宮崎自身の監督による劇場版アニメ『風の谷のナウシカ』が公開された。

『アニメージュ』1982年2月号にて連載を開始し、映画制作などのため4度の中断期間を挟み、1994年3月号にて完結した。1994年に第23回日本漫画家協会賞大賞、1995年、第26回星雲賞コミック部門を受賞。単行本の発行部数は累計1,200万部。海外でも8か国語で翻訳・出版されている。(「Wiki」より)


Nausicaä of the Valley of the Wind - Official Trailer



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あちこち「SYOWA」 22 ありの実

2016-06-16 00:49:36 | 日記
十二月を迎えると、来し方一年を振り返りたくなってくる。と同時に「あゝ おまへはなにをして来たのだと……/吹き来る風が私に云ふ」という詩人中原中也の「帰郷」の詩句の韻律が心の奥底に流れてくる。そして、中原家四男思郎氏の奥さん中原美枝子氏をすぐに思い出す。夫君が亡くなられた後、山口市湯田温泉の中原家を守ってこられたお方である。
 昭和五十八年の夏に高校の文芸部の生徒たちと文学散歩と称してアポなしで中原家を訪ねた。しかし、美枝子夫人は嫌な顔をせずに私たちを温かく迎えてくださった。母屋が焼けたため広い敷地の隅の平屋の小さい家に住んでおられた。そこの一室に我々を通し、「それではここにある物を全部お見せしますからね」と言って皮製の旅行鞄を持ち出し、惜し気もなく全部見せてくださった。詩作ノート、所持品、そして写真で見たことのある洋服等が所狭しと並べられた。まことに圧巻であった。
特に印象に残っているのは、ノートに書かれた文字が女文字のように小さく丁寧で几帳面な感じがしたことだった。自由奔放に生きた中也の意外な一面を覗き見たような気がした。続いて、近くの高田公園にある「帰郷」の詩碑を見に行った。小林秀雄が書いたという黒御影石に刻まれた文字に一陣のさやかな風が吹いてきた……。
 島根に帰ってから、美枝子夫人に二十世紀梨をお礼に送ったところ、毛筆で書かれた丁重なお礼状をいただいた。「有の実は仏前に供えさすが名産と美味しく戴きました……」と書いてあった。「梨」とは書かれていなかった。私はさすがと思って美枝子夫人への尊敬の念を深めた。しかし、近年不帰の人となられ、あの敷地内には立派な中原中也記念館が建っている。
                              (2004年投稿)
中原中也「サーカス」


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