とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

サンサン

2010-08-23 17:01:30 | 日記
サンサン



「伊勢湾台風!」。きんさんとぎんさんは口を合わせてそう言った。テレビのインタビュー番組で、「今まででいちばん怖かったことは……?」という質問への答えだった。今でもその言葉が耳の底で響いている。
 「あんたは、台風がくーと元気になーね」。先日、台風十三号が近づいてきたときに妻がそう言った。事実、私はきんさん、ぎんさんと同じように平成三年の台風十九号の吹き戻しの怖さが身に染みていた。夜凄まじい音をたてて強風が吹き荒れた。朝起きて見ると、電信柱がたくさん倒れていた。わが家の車庫のシャッターがぐにゃっと曲がっていた。確か瞬間最大風速五十六メートルだったと思う。だから十七日の昼過ぎになると玄関先に置いている鉢物をせっせと中にしまったり、テレビやパソコンで予想進路を確認したり、おまけに夜はラジオにかじりついていたのである。そんな私の姿を見ていて、妻はこっけいに思ったに違いない。
 それはともかく、私は各種のメディアの台風情報提供のあり方について考えていたのである。予想進路についての情報はインターネットの「ウェザーニュース」が正確だった。九州に近づくにつれて少しずつ北よりに進路を変えていく様が手に取るように分かった。テレビは通過地点のライブで強みを感じた。また、床に就いたらイヤホンでラジオを聴くに限る。しかし、私は視聴していて何か不満や疑念が湧くのを感じた。
 それは、被害を少なくする具体的な方策については漠然とした情報しか報じられていないことである。また、死者が出るような自然現象なのにかわいい名前を付けるのもどうかと思った。サンサン。これは香港で名付けられた。少女の名前だそうだ。 (2006投稿)

桜桃

2010-08-23 16:57:22 | 日記
桜桃


 サクランボが店頭に並ぶ季節を迎えた。私は艶やかで甘いその赤い実を食べると、複雑な思いが込み上げるのである。
 戦後の物のない時代に育った私は、サクランボと言えば、ソメイヨシノの黒く熟した小さい実のことだと思っていた。だから、友だちと木に登り、むしり取ってたくさん食べた。固い種が主で果肉はごくわずかだった。もっと実の大きいのがほんとのサクランボだと知ったのは、ずっと後のことである。
 それから、若い頃太宰治の「桜桃」を読んだ。「私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃(おうとう)など、見た事も無いかもしれない。(中略)しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べて(中略)そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事」。これは作品の末尾の部分である。書かれたのは昭和二十三年。私が四歳の頃である。私はこの作品を、最初に発表した雑誌『世界』(岩波書店)で読んだ。職場のある先輩からいただいた本だった。読後、この父親の気持ちが理解できなくてむしろ反発していた。しかし、歳を取るにつれて、なんだか分かるような気持ちになったのである。
 そして強い衝撃を受けたのは野原一夫氏の『太宰治と聖書』という本を読んだときだった。「桜桃」の冒頭の「われ、山にむかひて、目を挙ぐ」(詩篇)という聖書からの引用には重大な気持ちが隠されていたという。太宰は山の向こうにキリストの姿を見ていたというのである。
 かくして、サクランボという果物が、私とって特殊な存在に思えるようになったのである。(2006年投稿)

ゴミの行方

2010-08-23 16:51:58 | 日記
ゴミの行方




 人間が生きていくかぎりゴミ処理の問題がつきまとう。ゴミは処分しなければ身の回りがゴミだらけになってしまう。早く処分したい。だれしもそう思う。次の話は私のゴミにまつわる恥さらしの話である。
 古い電気器具を処分したいと思った私は家の近くを通りかかった廃品回収業者を呼び止めて幾つかの品物を渡した。
 「そうだね。パソコンがあるから引き取り料はまけときます」。これは数年前にある業者から聞いた言葉である。ところが、ごく最近また呼び止めて渡そうとすると「○千円いただきます」という返事が返ってきた。「えっ、そんなに取るの」と私は不満げに言った。するとその業者は名刺と産業廃棄物処理業者の許可証の写しを差し出して、その費用の根拠をるる説明し出した。ポイントは、家電リサイクル法のこと、国際情勢の微妙な変化のことであった。そこで私は自分の不勉強を恥じてその業者にお詫びをし、差し出した品物は引っ込めた。
 最近ある新聞にゴミの不法投棄の現場をパトロールしたレポート記事が載っていた。山林の道路脇のがけに自転車やテレビなどの粗大ゴミがたくさん捨ててあったそうである。私はふと以前渡した電気器具のことを思い出した。もしかして、その中のいくつかも捨てられたのではないのか? そういう不安と後悔の思いが私を捉えて胸苦しくさせた。
 ゴミにもいろいろ種類がある。始末に困るのは不燃ゴミや粗大ゴミである。目の前から消えればいい。そういう単純な利己主義から、安易な処分法に頼ると大変なことになると猛省した次第である。(2006年投稿)

この重さは何か?

2010-08-23 11:28:40 | 日記
この重さは何か?



 この前の日曜日、雪が降る気配だったので、車用品の専門店にタイヤ交換に出かけた。待合のコーナーの椅子に腰掛けて雑誌架を見ると、若者向きのファッション誌の新年号が置いてあった。(ああ、そういう時季だったなあ)と来し方この一年を思い出しながら手を伸ばして持ち上げようとした。重い! 部厚い写真集なので漫画雑誌とは違って、ずしりと手に「重量」を感じたのである。表紙のあでやかな写真を見つめながら(この重さは何だ?)と一瞬考えた。
そういえば、こんなこともあった。生徒たちが農業実習で作ったプレスハムを十本くらい袋に詰めて階段を上ったことがあった。そのときも同じことを考えた。その前の勤務校では、四階の小職員室まで両手に荷物を提げて毎朝上っていた。荷物の中味は仕事のネタばかり。上りながらまったく同じことを考えていた。
まだある。子どもの頃米の販売店をしていたので、運搬用自転車で紙袋に入った三十キロの米を配達していた。そのときは(もっと軽かったら)と思いながら、同じことを考えていた気がする。
手にした新年号の写真雑誌が重いのは、厚手の紙が使ってあるからである。当たり前のことである。しかし、私はその重さを全身で受け止めて、その中に詰まっている見えないものを見ようと、心がその方向に傾斜する。すると「ああっ!」と叫びたいような気持ちに襲われる。
そのときのえもいわれぬ気持ちは何だか「命」とか、「生きる」こととかに深く関わっているような気がする。「重量」の中にすごいものがこもっていると考えるのである。
(2006年投稿)