とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」719 和田弘とマヒナスターズ ヒットメドレー 1991.3放送

2021-05-23 01:06:49 | 日記
この頃、ターク・ダックスも同時に活躍し、競演という形となった。マヒナは女性歌手も共演し、色合いを増してきました。ムード歌謡が当時流行していました。今、改めて聴いていて、当時の身辺の様々なことが蘇ってきて、しばし恍惚とした気分になりました。

和田弘とマヒナスターズ 好きだった、愛して愛して愛しちゃったのよ、北上夜曲、誰よりも君を愛す、お百度こいさん 1991.3放送



和田弘とマヒナスターズ(わだひろしとマヒナスターズ、英: Hiroshi Wada & Mahina Stars もしくは Wada Hiroshi & His Mahina Stars)とは、スチールギター奏者の和田弘をリーダーとする音楽グループ。ハワイアン、ムード歌謡の第一人者として知られる。マヒナはハワイ語で「月」を意味する。

来歴

山口銀次、和田弘、三島敏夫らが、「バッキー白片とアロハハワイアンズ」を退団後、1953年にハワイアンバンド「山口銀次とマヒナスターズ」を結成。翌1954年、リーダーの山口銀次が脱退しアロハハワインズに復帰したため、和田弘がリーダーとなり「和田弘とマヒナスターズ」に改名する。

ハワイアンのメロディ、作曲家吉田正のコーラスを手本にして新しい歌謡曲の要素を作り出した第一人者でもある。

吉田正の門下として、1957年にムード歌謡としてデビュー。第一弾は「東京の人(三浦洸一のカバー)/哀愁の街に霧が降る(山田真二のカバー)」で、第二弾は「好きだった」(鶴田浩二のカバー)を吹き込む。共に吉田正作品のカバー曲であった。翌1958年8月にオリジナル曲の「泣かないで」で事実上のデビューを果たす。

1959年、ビクターの歌謡曲(流行歌)部門のレコード売上で「夜霧の空の終着港(エアーターミナル)」が年間2位を獲得したほか、トップ10内に4作がランクインした。

1960年代には、松尾和子らの女性歌手を迎えるスタイルをとり、第2回日本レコード大賞を受賞した「誰よりも君を愛す」や当時としては驚異的な300万枚の売上を記録した「お座敷小唄」をはじめ、「寒い朝」「島のブルース」「愛して愛して愛しちゃったのよ」「北上夜曲」など多数のヒット曲を残した。1967年にビクターから東芝に移籍。

その後メンバーの変動があったが、1989年に全盛期のメンバーが再集結し、同年の「第40回NHK紅白歌合戦」に紅組から22年ぶりの再出場も果たした。

しかし2002年頃に再び内紛が起き、和田以外のメンバーは全員離脱し事実上の和田弘とマヒナスターズの解散となった。

その後、松平・佐々木・三原は新たに別グループを結成。和田側も新たにメンバーを入れ、新生マヒナスターズとして再始動。また、「マヒナスターズ」という名称を商標登録した。このことで旧メンバーと対立し訴訟問題に発展していた。その商標登録問題解決も間近と見られていた2004年1月5日に和田が急死した。

現在は松平が中心となって活動を行っている。

2006年9月30日には、長年マヒナのボーカルとして活躍した三原も亡くなった。2003年7月に脳梗塞で倒れて以降、リハビリを続けていたが復帰は叶わなかった。

樋屋製薬の「樋屋奇應丸」のCMソングを歌ったことでも知られている。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」718 かもめが翔んだ日 渡辺真知子

2021-05-18 17:29:08 | 日記
こういう時期、こういう唄を聴くと、いわれもなく元気になります。ありがとう。

かもめが翔んだ日 渡辺真知子



渡辺 真知子(わたなべ まちこ、1956年10月23日- )は、日本のシンガーソングライター、タレント、女優。本名:渡邉 真知子(読み同じ)。神奈川県横須賀市出身。緑ヶ丘女子高等学校、洗足学園短期大学音楽科卒業。



経歴

1977年にCBSソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)からデビュー。1970年代後半のニューミュージックブームの中で、松任谷由実や中島みゆきなどの次世代の女性シンガーソングライターとして活躍する。声楽科出身の豊かな声量でデビュー直後から数々のヒット曲を生み出した。伸びのあるパワフルな歌唱と、明るい中にも哀愁を漂わせた曲調を持ち味とする。

フォークソング全盛時代には「シンガーソングライターはテレビに出て歌わない」という風潮があったが、それ以前の世代(1960年代から1970年代)のフォーク・ニューミュージック系のアーティストとは異なり、従来は歌謡曲中心だったテレビやラジオの音楽番組に積極的に出演し、デビュー当時はアイドル歌手に近いような扱いを受けることもあった。

天真爛漫な人柄で知られ、テレビ・ラジオ出演時の軽快なトークで人気を集めた。芸術家肌のアーティストが多かった当時のシンガーソングライターには珍しくマルチタレントとして活躍し、女優として映画やテレビドラマに出演したり、ラジオパーソナリティとしても活動している。

編曲は、初期は船山基紀が一手に引き受けた。歌謡曲的な要素もふんだんに取り入れたシングルは、ニューミュージックの歴史の中でも代表的な作品群であり、同時に船山にとっての代表作ともなっている。また、デビュー時のバックバンドのバンドマスターは羽田健太郎であった。

歌詞やアルバムタイトルには、出身地の横須賀や海と港町の風景をテーマとしたものが多い。第20回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した『かもめが翔んだ日』は渡辺の代表曲として知られ、個人事務所やオフィシャルウェブサイト、公式ファンクラブの名称にも、シンボルとして「かもめ」の名が用いられている。(「Wikipedia」より)





あちこち「SYOWA」717 おニャン子クラブ Super Best メドレー❣️

2021-05-12 11:51:04 | 日記
今のグループと比べています。違う。どこが違う ??? いや、違う。

おニャン子クラブ Super Best メドレー❣️



おニャン子クラブ(おニャンこクラブ)は、1985年にフジテレビのテレビ番組『夕やけニャンニャン』から誕生した女性アイドルグループ。

概要

1985年4月1日、フジテレビのバラエティ番組『夕やけニャンニャン』開始とともに番組内のアシスタントとして同時に芸能界デビューし、3ヶ月後の1985年7月5日に発表したデビューシングル「セーラー服を脱がさないで」がヒットしてブレイク。以降、おニャン子クラブとしてのグループ名義、メンバーのソロ名義、グループ内で作ったユニット名義などで、シングル、アルバム、ビデオソフト、写真集を絶え間なくリリースし続けてヒットさせ、1980年代(元号では昭和60年代。男女雇用機会均等法が成立してバブル世代の女性が社会進出した時期)のアイドルシーンを席捲していった。

1987年8月31日の『夕やけニャンニャン』の番組終了に伴い、翌9月に解散コンサートを行ない、わずか2年半の期間でその活動が閉じられた。

2年半の間にメンバーの加入と脱退が頻繁に行われていたので、メンバーの顔ぶれは常に流動的であった。

結成時は11人で、解散時は19人が在籍していた。

おニャン子クラブのメンバーには会員番号が与えられ、『夕やけニャンニャン』内であろうと他局の番組であろうとも、自己紹介の際には必ず名前の前に「おニャン子クラブ会員番号××番」を付けて名乗っていた。

そのため、解散後も芸能界に残るなどした著名なメンバーは名前とともに会員番号もセットにして覚えられている。

会員番号の振り分けは、結成時の11人はくじ引き順で、それ以後は加入順(加入が同時の場合はエントリーNo.順)。

脱退した者の番号については欠番とした。解散時、会員番号は52番まで行っていた。

おニャン子クラブのメンバーは生放送である『夕やけニャンニャン』の出演に際して、大半は高校生や大学生などの学生であったことから各々の定期試験中は番組出演を控え欠席した。また、番組側が斡旋した仕事(ドラマ撮影など)で欠席もあった。

そのため、『夕やけニャンニャン』を含めて、おニャン子クラブ名義の活動は必ずメンバー全員が揃っていたわけではなかった。
                                        (「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」716 町田義人 『戦士の休息』 1978年

2021-05-07 02:56:34 | 日記
町田義人 『戦士の休息』 1978年


唄もキャストともに素晴らしい。


町田 義人(まちだ よしと、1946年9月21日 - )は、日本のグループ・サウンズ出身の歌手である。


人物・来歴

高知県土佐市出身。「キャッスル&ゲイツ」を経て、成城大学在学中の1968年に「ズー・ニー・ヴー」を結成、ボーカルを務める。「ズー・ニー・ヴー」はR&B路線の強いバンドだったが、「白いサンゴ礁」のヒットで注目を集める。

1970年にズー・ニー・ヴーを脱退し、ソロに転向。テレビCM曲を7〜8年間で400〜500本歌う。1978年公開の映画『キタキツネ物語』において、同作品の音楽担当だったタケカワユキヒデに指名される形で、主題歌「赤い狩人」を歌う。同年、ニット帽にサングラスというスタイルで角川映画『野性の証明』の主題歌「戦士の休息」を歌い、オリコン最高位6位、累計売上29.5万枚を記録した。累計売上85万枚とする報道もある。

その後も地道に歌手活動を続けTV主題歌やアニメソングなどでも知られているが、変わったところでは『オレたちひょうきん族』のタケちゃんマンロボのテーマ「愛より強く」、CMソング・ロッテ「小梅ちゃん」などがある。歌手のみならず、ミュージカルの役者として、ナレーションなどで声優としても仕事をしており、活動の幅は広い。

現在では、歌手活動を休業し、メルボルンで彫刻家として活動している。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」715 優しい悪魔 キャンディーズ 歌詞 /フル バージョン

2021-05-04 01:22:52 | 日記
当時としては衝撃的なデビューだったと思います。今、改めて視てもなかなか刺激的ですね。3人がプラスされて一つの形になるというより、3人がそれぞれ素晴らしい独立した世界を持っていて、しかも、それがより大きな世界を作り出す、掛け算の世界を現出させるという感じの、今までにないスケールの大きいグループでした。

優しい悪魔 キャンディーズ 歌詞 /フル バージョン


キャンディーズ(Candies)は、1970年代に活躍した日本の女性3人組のアイドルグループである。所属事務所は渡辺プロダクション。多くの楽曲は、当時渡辺音楽出版の社員だった松崎澄夫(元・アミューズソフトエンタテインメント代表取締役社長)のプロデュースによるものであった。


略歴

デビュー当時

キャンディーズのメンバーは、3人とも東京音楽学院のスクールメイツ出身。最終選抜で3人が選ばれたが、当時のスクールメイツには3人以外に太田裕美やザ・ヴィーナスのボーカルであったコニーもいた。

1972年(昭和47年)4月に、NHKの新番組『歌謡グランドショー』のマスコットガールとして3人揃って抜擢され、番組プロデューサーから「食べてしまいたいほどかわいい女の子たち」を意味して「キャンディーズ」と名付けられた。

3人ともスクールメイツの中でも特に目立つ存在ではなく、『歌謡グランドショー』でもマスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)に過ぎず、歌手デビューの予定はなかった。しかし、『歌謡グランドショー』に出てしばらくたった頃、東京音楽学院をたまたま訪れた松崎澄夫が、教室に入ってきたキャンディーズの3人を見て「かわいい子がいる」と目を留めた。松崎が担当者にレコードデビューの有無を聞くと、「まだです」との返事が返ってきたので、松崎はそのままキャンディーズの歌手デビューを決定した。

1973年(昭和48年)に「あなたに夢中」で歌手デビュー。またデビュー前から人気バラエティ番組『8時だョ!全員集合』にもレギュラー出演していたが、デビュー後しばらくはヒット曲に恵まれなかった。デビュー当時のメインボーカルは、3人の内で最年少ながら、当時最も歌唱力が高かった田中が起用された。

人気歌手へ

だが当時のマネージャーである諸岡義明が、3人の中で伊藤だけファン層が異なる(お姉さん的)ことを発見、諸岡の提案により、1975年(昭和50年)に発売した5枚目のシングル「年下の男の子」で方針を転換。「お姉さん」的キャラクターの伊藤をセンター・メインボーカルに据えて前面に出したところ、これが当たって初ヒットとなり、又オリコンでも初のベストテン入りを果たした。

翌1976年(昭和51年)発売の「春一番」は、オリコンで当時最高の週間3位を獲得。その後1977年(昭和52年)にも「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」など、シングル曲を立て続けにヒットを飛ばす。それ以降のシングルでは、「わな」が藤村のセンターである以外、全て伊藤がセンターを務めた。その個性の違う3人という組み合わせや、『8時だョ!全員集合』や、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』などのバラエティ番組でコントまでこなす積極的なテレビ出演と、愛らしい振り付けを交えた数々のヒット曲により、幅広い人気を獲得した。

キャンディーズのデビューから遅れること3年、1976年のデビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を博したピンク・レディーとは同じ女性アイドルグループとして比較されることが多かった。それ故、一部では両者をライバルとして見る向きもあったが、当人たちはライバルというより同じ時代を生きる戦友のようなイメージをもっていたようで、田中と増田恵子などはとても仲がよかった。

セールスの勢いは7枚連続1位、5枚連続ミリオンセラーなどで、怪物とまで呼ばれたピンクレディーには及ばなかったものの、大手プロダクション所属の強みもあって、バラエティへの対応力など、活動の柔軟性、多彩さではリード、中高生や大学生を中心とするファン層の熱心さもあって、両グループは対照的な形で70年代末のアイドルシーンを牽引した。

人気絶頂時の解散

しかし1977年(昭和52年)の夏、人気絶頂となりつつあったキャンディーズは、突如解散を発表する。同年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートのエンディングで、3人は涙を流しながら、伊藤が「私たち、皆さんに、謝らなければならない事があります」、藤村が「ごめんなさい」、田中が「許してください」と、それぞれファンに対して謝罪。それから「私たち、今度の9月で解散します」と突然の解散宣言。そのとき伊藤が泣き叫びながら発言した「普通の女の子に戻りたい!」は非常に有名になり、当時流行語にもなっている。

翌日の7月18日午後、キャンディーズは銀座メイツにおいて緊急記者会見を行い、また同日夜にはフジテレビ系列『夜のヒットスタジオ』へ生出演の際、改めて陳謝する。当初3人は、2か月後の同年9月末限りで解散する意思を固めていたものの、事前に渡辺プロの正式な了承を得ずに発表したこともあり、渡辺プロからの説得と話し合いの末、解散はその後約半年間先送りされることになった。

この電撃的な解散発表からキャンディーズの人気は沸騰し、ラストシングルの「微笑がえし」では、最初で最後のオリコン1位を獲得する。それまでのシングルが1位を獲得したことが無かったため、ファンをはじめ関係者が解散までには1位を獲得させたいとする支援の後押しがあった。キャンディーズは解散によって、さらに人気を盛り上げたと言える。

1978年(昭和53年)4月4日、後楽園球場に当時空前であった5万5千人を集め、マスコミが「歌謡界史上最大のショー」と呼び、日本でも『ザ・ピーナッツ さよなら公演』以来2例目となるお別れコンサート(『ファイナルカーニバル』)が行われ、4年半の活動に終止符を打った。 センター寄りの観客席からはセカンドベース後方に設置された舞台の様子が見えず、26インチ程の街頭テレビが幾台か設置され、観客はそれを見つつ公演を堪能した。 なお、後楽園球場でコンサートを開いたのは女性歌手(グループ)において、キャンディーズがはじめてである。

この模様は収録され、3日後の4月7日にTBSテレビ系列により全国に録画でテレビ放送され、平均視聴率32.3%(関東地区)という、単独アーティストによる音楽番組としては歴代1位の高視聴率を獲得している。最後に述べた「本当に私たちは、幸せでした!!」の口上も有名。コンサートの最後に歌われた「つばさ」は先に解散を知った全国キャンディーズ連盟の有志が作った「3つのキャンディー」という歌への返歌として伊藤が作詞したものである。歌う前に伊藤が「やはりこの歌を歌いたい」と言ったのはそのためである。

なお、解散直後もTBSテレビ『ザ・ベストテン』内では「微笑がえし」が引き続きランクインしたため、慰労会を兼ねたスタッフとの日本国外でのバカンス中に、電話ではあるがテレビ出演をしたことがある。(「Wikipedia」より)