とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

中国語

2010-08-16 22:59:50 | 日記
中国語




 先日、中国で卓球の修業をしている福原愛さんが流暢な中国語でインタビューに応じているテレビ放送を観て、こりゃすごい! と私は思った。そして、大学で中国語を専攻しているにも拘わらず、実社会で一度も役立てることもなく四十年を過ごしてきた私は、内心複雑な気持ちになってきたのである。
 私が大学に入学したのは昭和三十七年である。中国語を学ぼうと思ったのは、いずれ日中国交正常化が実現し、将来中国語が脚光を浴びると予想していたからである。
しかし、昭和四十一年の卒業の時を迎えても国交正常化は実現しなかった。だから中国語を生かせる求人は皆無だった。因みに国交が正常化するのは昭和四十七年である。従って私は大幅に進路変更をした。以後中国語に関しては四十年もの空白ができた。何時だったか、生徒が中国から来た手紙を持ってきて、訳してくれと言った。私は辞典と首っ引きで脂汗を流しながら何とか一通り訳したが、語学力の衰えをいやというほど実感させられた。
 しかし、漢文の授業では役に立った。これから読むのは現代の発音だけど、と前置きして漢詩を中国音で読んでみせると、生徒が急に興味を示してきた。特に押韻の指導には役に立った。
もし、高校で中国語の授業体験をしていたら私はもっと上達していたかも知れない。
最近の国際情勢からすると、外国語の授業に隣国の言語である中国語や韓国語を選択必修で取り入れねばならない時代がもう来ていると私は考えている。思い切った学習指導要領の改訂をと私は叫びたい気持ちでいる。(2005年投稿)

大阪万博

2010-08-16 22:55:53 | 日記
大阪万博




 「自然の叡智」をテーマに掲げた「愛・地球博」がいよいよ開催される。振り返ると、一九七〇年の大阪万博は、「人類の進歩と調和」がメインテーマだった。この二つのテーマを比較すると、対照的な時代背景を感じる。現代における人類最大の課題は地球上の生命の存続をかけた環境保護である。そのことが人間主体ではなく、自然を主体として考える今回のテーマを生んだ。ところが、一九七〇年の日本は高度経済成長の真っ只中。科学技術を中心とした人類の「進歩」を謳いあげる土壌が整っていた。そして、世界平和、人類共存の基(もとい)である「調和」も理念的にはベストだったと思われる。
 私はある高校から修学旅行という名目で、生徒たちと草木もなびく大阪府吹田市千里の万博会場を目指して出かけた。
 会場に入って記念撮影を済ませ、公式地図を頼りに歩き出したが、人込みと熱さでへとへとになった。しかし、各パビリオンを巡りながら、何と日本はこんな世紀の一大イベントを主催できるほどの力をつけてきたのかと感激したものである。人気の中心は、アメリカ館のアポロ宇宙船が持ち帰った「月の石」、ソ連館の宇宙船ソユーズなどだった。人類の「進歩」と言っても、その中味は両超大国の宇宙開発の成果を競うものでもあった。そして、当時の先端技術であるコンピューターを利用したゲームも出展された。大型スクリーンの映像を駆使した展示も特色付けていた。
 薄暗くなってから、周囲を巡回するモノレールに乗って、会場全体を眺めた。何と! 夜の方がすばらしい! 私はライトアップされた色とりどりのパビリオンを高い位置から眺めながら、大小の建造物全体が美しく「調和」していることに気づいた。そして世界の国々がこうして永遠に平和の光に包まれていたらいいのに……と思った。今から三十五年前のことである。(2005年投稿)

続・鳥たち

2010-08-16 16:19:18 | 日記
続・鳥たち


 アオキの実をヒヨドリたちがどうして食べ残すか。このことについて、前回、鳥たちが嫌う成分が含まれているからではないか、と私は一応書いておいた。
 実はある著名な大学の先生にそのことをお尋ねしていたのである。その先生は各方面の専門家に同じ質問を転送された。すると次々に詳細な返事が届いた。
 樹木の実の成分に詳しいお方からは、鳥が嫌うイリドイド配糖体の一種アウクビンという漢方薬に用いる成分が含まれているという回答を、また、樹木の研究家のお方からは、海外では実のなる観葉植物として珍重されているという回答を、そして、鳥の研究家のお方からは、ヒヨドリはアオキの実が好物だが、実自体に熟さないうちは鳥が好まない味を含んでいて、それはアオキの「種」を継承する「戦略」ではないかという回答を、それぞれメール送信していただいた。
 インターネットのありがたさ、いや、それ以上に門外漢の素朴な質問にも丁寧に答えていただいたご厚意をしみじみと感じたこの十日間であった。
 今まだ枝先に残っている六十一個の実。そう言えばまだ熟しきっていない。そしてすでに食べ尽くされた千両、万両の実。これらの実と鳥たちの関わりから見えてきたものは、鳥と植物の神秘的とも言える見事な共生である。それぞれの子孫を後の世に残すために受け継がれた知恵に私は改めて敬服した。
 そういう中で、人は他の生きものとどう関わっているか。いくら考えても旨く共生しているとは言えない。これは哀しい真実である。(2005年投稿)

鳥たち

2010-08-16 16:13:46 | 日記
鳥たち



 立春、雨水を経て暦の上では季節は確かに春の入り口に立っている。しかし二月下旬は時折粉雪が舞う日もあった。冬はしぶとく居座っている。
 今年の冬は鳥たちにとって厳しい食糧難だったようである。小庭の木の実がヒヨドリなどの鳥にほとんど食べられてしまった。百両の白い実、千両、万両の赤い実は全部なくなった。ところが、よく見るとアオキの少し大ぶりで赤い美味しそうな実は、少しつついた跡が残っているだけでまだ枝の先に全部残っている。私は不思議に思ってしばらくの間様子を見ていた。だが、庭の訪問者たちは一向に食べようとしないのである。そこで、何か鳥たちがとても嫌がる成分が含まれているからだろうと私は勝手に考えた。
 毎年各地の桜の名所では冬になると花芽を食い荒らすウソを追い払うさまざまな試みがなされる。コーン、コーンと竹筒を打ち鳴らす所もあると聞く。何時だったか木次土手の桜の芽がウソに食害されて花の数が少なかったときがあった。春に花の数が少ないのは人間にとっては寂しいが、ウソにとって桜の花芽は冬を生き延びる糧なのである。
自然は一方にしか恵みをもたらさないようにできているようだ。
 寒さの中を私は厚着をして散歩した。カラスの大群が田んぼが黒くなるほど舞い降りてきて、何かをついばみ始めた。空を見上げると、名も知らぬ大きな鳥が群をなして飛んでいた。ああ、あの鳥たちもこの寒空を餌を求めて飛び回っているのだなあと思うと、何かしら哀しい気持ちが込み上げてきた。(2005年投稿)