大樹
「家には、見上げーやな樹が一本なけにゃの―」。子どもの頃、父の知り合いの人がしみじみとそう仰ったことをときどき思い出す。私は家を二回変わったが、三番目の今の家にもそういう大樹がない。それを寂しく思っている。
炎天にそよぎをる彼の一樹かな 虚子
最近の炎天下、ふとそういう句を思うときがある。その樹は私に生きる志を指し示すだろうし、憩いの木陰を作ってくれもするだろう。どこかの民家で亭々とそびえている老樹を見つけると、しばらく見上げて溜息をついている。
しかし、今、家には伊豆から届いた「大樹」がある。カレンダーの絵である。描いたお方は村松仁氏。五月、六月の暦の上に、新緑をいただいた楡(にれ)か欅(けやき)と思われる大樹がどっしりと描いてある。私は、この絵にたくさんのことを教えられている。
村松氏は、交通事故で体の自由が利かなくなった。だから、口で絵筆をくわえて描く。しかも、描く風景は記憶の底から湧きあがるイメージの山河や植物である。私はあの星野富弘氏の絵と比較して見ている。星野氏の絵は写実的で描線が驚くほどしっかりしている。それとは対照的に、村松氏の絵はコンテで描いたような柔らかい色調で微妙な味わいがある。どちらも好きだが、今は私の部屋の壁の大樹に心奪われている。心の奥底の風景をほとばしるように力強く描き、無言のうちに生きるとはこういうことだと私に教えてくれた。太い幹は意志。細い枝は情緒のたゆたい。新緑は朗らかさ……。
知人から聞き知り、中伊豆リハビリテーションセンターでの労作を送っていただいた私は、村松氏の強靭(きょうじん)な精神力を感じ、ひ弱な心に鞭打たれた気がしたのである。(2005年投稿)
参考資料
村松さんに関するブログ
「家には、見上げーやな樹が一本なけにゃの―」。子どもの頃、父の知り合いの人がしみじみとそう仰ったことをときどき思い出す。私は家を二回変わったが、三番目の今の家にもそういう大樹がない。それを寂しく思っている。
炎天にそよぎをる彼の一樹かな 虚子
最近の炎天下、ふとそういう句を思うときがある。その樹は私に生きる志を指し示すだろうし、憩いの木陰を作ってくれもするだろう。どこかの民家で亭々とそびえている老樹を見つけると、しばらく見上げて溜息をついている。
しかし、今、家には伊豆から届いた「大樹」がある。カレンダーの絵である。描いたお方は村松仁氏。五月、六月の暦の上に、新緑をいただいた楡(にれ)か欅(けやき)と思われる大樹がどっしりと描いてある。私は、この絵にたくさんのことを教えられている。
村松氏は、交通事故で体の自由が利かなくなった。だから、口で絵筆をくわえて描く。しかも、描く風景は記憶の底から湧きあがるイメージの山河や植物である。私はあの星野富弘氏の絵と比較して見ている。星野氏の絵は写実的で描線が驚くほどしっかりしている。それとは対照的に、村松氏の絵はコンテで描いたような柔らかい色調で微妙な味わいがある。どちらも好きだが、今は私の部屋の壁の大樹に心奪われている。心の奥底の風景をほとばしるように力強く描き、無言のうちに生きるとはこういうことだと私に教えてくれた。太い幹は意志。細い枝は情緒のたゆたい。新緑は朗らかさ……。
知人から聞き知り、中伊豆リハビリテーションセンターでの労作を送っていただいた私は、村松氏の強靭(きょうじん)な精神力を感じ、ひ弱な心に鞭打たれた気がしたのである。(2005年投稿)
参考資料
村松さんに関するブログ