とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 51 アラン・ドロンの「地下室のメロディ」

2016-10-31 16:25:39 | 日記
Michel Magne 映画「地下室のメロディ」 Palm Beach from '' Melodie En Sous-Sol ''


『地下室のメロディー』(原題:Mélodie en sous-sol)は、1963年製作のフランス映画。アラン・ドロンとジャン・ギャバンというフランス映画界の2大スターが共演した犯罪映画。
1963年のゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞している。

老獪なギャングのシャルル(ジャン・ギャバン)は、生涯最後の仕事として、カンヌのカジノの地下金庫から10億フランを強奪する綿密な計画を立て、チンピラの青年フランシス(アラン・ドロン)と、その義兄のルイを仲間に引き入れた。
金持ちの青年を装い、カンヌのホテルに滞在するフランシス。カジノの踊り子と親しくなることで、フランシスは一般客が立ち入れないカジノの舞台裏に出入りする口実を設けた。
カジノのオーナーが売上金を運び出す日を狙って、地下金庫を襲撃するシャルルたち。10億フランの札束をバッグに詰め、何食わぬ顔でホテルに戻るが、予想外の事態からフランシスの正体が露見する危険性が高まった。
計画の急な変更を余儀なくされ、隠し場所からバッグを持ち出すフランシス。そこへ更なる不運が重なり、盗んだ金が人々の目に触れる事態となった。騒ぎだす人々の中でフランシスとシャルルは、もはや為す術もなく10億の札を見つめていた。(Wikiより)

『太陽がいっぱい』も映画、音楽ともになかなかでしたが、Aはこの作品の方がもっとすかっとした印象を持っています。

フランシスがカジノの換気口を伝って金庫へのエレベーターの天井に乗っかり下りていく場面、そして、最後の札束がプールの全面に浮かび上がる場面。そしてテーマ曲。すべて満点の映画でした。
アラン・ドロンという俳優はすさまじいほどの過酷な過去を持っています。

1935年11月8日パリ郊外のオー=ド=セーヌ県ソーで生まれる。父は小さな映画館を経営、母は後に結婚するナタリーと雰囲気の似た美人で、薬剤師の資格を持っていた。
4歳で両親が離婚し[1]母方に預けられるも、再婚したシャルキュトリ(ハムやソーセージなど豚肉加工品専門の食品店)の義父と合わなかったこと、そして母親が新たに生れた娘(エディット)だけを可愛がった為にアランは除け者とされる。更に追い討ちをかけるが如く実父も再婚、息子ジャン=フランソワ(後にアランの映画の製作に参加)が生まれていた。それら家庭不和に因る愛情不足が所以で女生徒と度々問題を起こし寄宿学校を転々とし、最終的には手に負えない問題児として感化院に入れられ、一時的に鉄格子生活をも経験する羽目となった。その後14歳より前述の食品店で働き始めた。
自分の居場所を求めていたアランは苦肉の策としてフランス外人部隊へ志願、未成年者は保護者の承諾が必要だったが、母は義父の言うがままに承諾した。この一件で、母への憎しみが根深く残る事となり、次第に女性不信という形で表れていった。こうして17歳で入隊し、マルセイユより貨物船に乗せられ、カービン銃の扱いだけを教わって落下傘部隊へ配属され第一次インドシナ戦争へ従軍する事となった。1955年休戦条約によって20歳で無事除隊後はアメリカとメキシコを放浪、1956年に帰国後はパリのモンマルトルなど方々を転々とし、サン=ジェルマン=デ=プレに落ち着いた。(同上より引用)

「感化院」とか「鉄格子生活」という言葉も出てきます。家庭不和、戦争体験。荒廃しきった心を持て余しながら放浪していました。
まさに映画に救われた男です。そして、ルネ・クレマンという名監督との出会いが彼を世界的なスターにさせたのです。



あちこち「SYOWA」 50 若い歌声  橋 幸夫 吉永小百合

2016-10-29 00:25:47 | 日記
若い歌声  橋 幸夫 吉永小百合


 Aは純粋のサユリストではありませんでした。しかしこういう映像を見ていると、心のずっと奥の方からじわじわと甘美な時間が蘇ってくるのを感じました。青春というのは、いや、若いということは素晴らしいし眩しすぎるのです。
 過ぎ去った取り戻せない日々。そんなことを考えていると、いつしか涙が零れて・・・。いや、もういけませんね。
 それにしても浜田光夫という俳優はいつもコンビで出ていますが、嫌みがないですね。不思議な俳優です。昔からそう思っていました。ぎらぎらしたところが少しもない。それがいいのでしょう。

あちこち「SYOWA」 49 あさま山荘事件・友の死

2016-10-25 04:56:46 | 日記
あさま山荘事件 30年目の真相


 連合赤軍というと、Aは一人の友人の死を思い出します。アジトから助け出されたRという女の子の父親、山本の死です。総括されました。

1971年12月31日以降、連合赤軍は、山岳ベース事件とあさま山荘事件の二つの重大事件を起こす。これらは連合赤軍事件と呼ばれる。
山岳ベース事件は、あさま山荘事件などで逮捕された者らの自供により明らかになった大量殺人事件である。これは、警察の捜査網から逃れるため山中に山岳ベースと呼ばれる山小屋を建設して潜伏中に、「総括」(詳細は後述)と称して連合赤軍内部で粛清が行われたもので、集団リンチを加えて12名を殺害した。また、革命左派は、連合赤軍結成以前に組織を脱走した20歳男性と21歳女性の2名を殺害している(印旛沼事件)。
あさま山荘事件は、山岳ベースから逃亡した連合赤軍メンバーが、某企業の保有する宿泊施設を占拠して起こした人質篭城事件で、銃器で武装した若者らは9日間にわたり警察とにらみ合った。この模様はテレビで中継され、社会に強い衝撃を与えた。
連合赤軍メンバーは、クアラルンプール事件の際に超法規的措置で釈放・国外逃亡し、現在も国際指名手配されている坂東國男と、東京拘置所で自殺した最高指導者の森恒夫を除き、15人のメンバーに判決が確定した。(Wikiより)

◆山岳ベースで死亡したメンバーと死亡日

▽1971年12月31日  尾崎充男   (22歳・革命左派)
▽1972年1月1日    進藤隆三郎  (21歳・赤軍派)
▽1972年1月1日   小嶋和子   (22歳・革命左派)
▽1972年1月4日   加藤能敬   (22歳・革命左派) 
▽1972年1月7日   遠山美枝子  (25歳・赤軍派)
▽1972年1月9日   行方正時    (25歳・赤軍派)
▽1972年1月17日  寺岡恒一   (24歳・革命左派)
▽1972年1月19日  山崎順     (21歳・赤軍派)  
▽1972年1月30日  山本順一   (28歳・革命左派)
▽1972年1月30日  大槻節子   (23歳・革命左派)
▽1972年2月4日   金子みちよ   (24歳・革命左派) 
▽1972年2月12日  山田孝     (27歳・赤軍派)

凍てつく土の中から続々と11人のメンバーの遺体が掘り起こされた。遺体には凄惨な暴力や衰弱の跡があり、男女の区別がつかないほどだった。金子みちよ(24歳)にいたっては妊娠8ヶ月で、胎児をかばうようにお腹をおさえて死んでいた。死因は凍死、胃の中は空っぽだった。

◆山本順一
 1943年愛知県岡崎市生まれ。大学卒業後は名古屋市の日中友好商社に勤務した。保子と結婚。12月28日に親子3人で榛名山入りした。事件当時、生後2ヶ月だった長女は、愛知県の父親が引き取り育てた。(享年28)。

◆山本保子
 中京安保共闘。殺害された山本順一の妻。2月初めに脱走し、3月に自首した。娘を奪われ、すでに殺害されたものと思っていたが、無事保護されたと知って泣き出した。(以上「連合赤軍リンチ事件」より引用。http://yabusaka.moo.jp/sekigunjiken.htm)

大学在学中の山本君はすでに左翼思想に傾倒していたようでした。Aは友達が「沖縄研究同好会」を作ったので興味本位で毎回参加していました。岩波新書の「沖縄の文化」(書名の記憶は定かではありません)をテキストにして話し合いなどをしていました。すると山本はふらっと部屋に入ってきて、じっと立ったまま話を聞いていました。友達が入会を勧めると迷っているような素振りを見せ、やがて黙ったまま外に出ていきました。そういうことが何度もありましたので、Aは山本に話しかけて勧誘しようと思っていました。しかし、その機会はありませんでした。
大学卒業後、連合赤軍事件について新聞は連日のように報じていました。ある日の新聞に山本が裸のままアジトの柱に縛られて凍死したという記事が出ていました。私は目を疑いました。あの大人しい山本がメンバーに加わっていたことが信じられませんでした。・・・子どもが救出された !! ああ、よかった。Aはその子どもの将来を考えながら、山本がそういう道に進んでいった動機をいろいろ調べました。しかし、確たる根拠を示す資料には出会いませんでした。同時に大きな社会不安を抱え込んで悩んでいました。




あちこち「SYOWA」 48 East of Eden(エデンの東)-James Dean

2016-10-22 07:52:12 | 日記
East of Eden(エデンの東)-James Dean


素晴らしき銀幕全盛時代。主題歌とともに溢れ出す数々の思い出。Aはとてつもなく深い懐旧の耽美に浸る時間を持ちました。

『エデンの東』(エデンのひがし、East of Eden)は、1955年公開のアメリカ映画。監督はエリア・カザン。原作はジョン・スタインベックの同名小説。

主演は、映画初出演のジェームズ・ディーンで、この作品で名実ともに一躍スターの地位を不動のものとした。共演がジュリー・ハリス、レイモンド・マッセイ、ジョー・ヴァン・フリート、リチャード・ダヴァロス、バール・アイヴス。原作の後半部分をポール・オズボーンが脚色した。音楽はレナード・ローゼンマン。
第28回アカデミー賞で監督賞、主演男優賞、助演女優賞、脚色賞にノミネートされて、ジョー・ヴァン・フリートがアカデミー助演女優賞を受賞した。また第13回ゴールデングローブ賞作品賞(ドラマ部門)、第8回カンヌ国際映画祭劇映画賞も受賞している。(Wikiより)

粗暴で孤独な主人公ケイレブ(キャル)・トラスク。アロンの恋人で、キャルやアダムへも気配りを忘れない優しい娘アブラ。ある日、キャルは「父から愛されていないのではないか」という自分の悩みを兄アロンの恋人アブラに打ち明ける。すると、彼女も同じ悩みを抱えていたことがあったことを語り、二人の心が近づいていきます・・・。まさにこの映画の山場です。

二人が菜の花 ? の畑を背景に親しく話をする場面は思わずはっとするような美しい情景でした。ストーリーは入り組んでいてAはよくつかめなかったのですが、とにかくこの場面は記憶の底に焼き付いています。ジェームズ・ディーンは早逝しますが、そういう目で見ると、何だか暗い影を背負っているような感じがします。

あちこち「SYOWA」 47 Twiggy - 新しい女性美

2016-10-19 23:47:45 | 日記
Twiggy - The Face of the 60's


ツイッギーは、ロンドン郊外のニースデンで、レズリー・ホーンビー(Lesley Hornby)という名で生まれた。彼女は16歳で当時のボーイフレンドかつマネージャーであるジュスタン・デ・ヴィルヌーヴの影響の下で有名になった。
間もなく1960年代のスウィンギング・ロンドンにおける「顔」と見なされ、その華奢な体型から「ツイッギー」(小枝)の愛称を得て、世界的な知名度と人気を得た。
彼女は成熟と共にデ・ヴィルヌーヴの元を去り、1971年のケン・ラッセル監督作品『ボーイ・フレンド』に出演し、女優および歌手としてその活動の幅を広げた。この作品でゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞。その後彼女は映画や演劇で様々な役柄を演じた。(Wikiより)

痩せたい願望。女性の美は新しい局面を迎えました。ミニスカもここから流行っていきます。
Aは、このモデルに女性としての魅力は感じなかったのですが、所謂かっこいい女性だと思い、今でも時々思い出します。






1967年10月18日、東レ・トヨタ・森永製菓の3社合同招待により来日したツイッギーは「森永・チョコフレーク」や「トヨタ・コロナ」などのCMに出演。更に週刊誌「女性自身」がモデルとして契約、表紙を飾った。これによりツイッギー旋風が起こった日本では、世代を超えてミニスカートが大ブームとなり、美空ひばりが「真赤な太陽」をミニスカート姿で歌っていたり、当時の首相が訪米した際、同行した夫人が62歳の年齢でミニスカートを着用したことも話題となった。(「団塊世代の想い出」のHPよりhttp://www.geocities.jp/return_youth/index.html)