とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 294 札幌オリンピック ジャンプ 笠谷・・・

2018-01-31 16:56:35 | 日記
笠谷幸生、金野昭次、青地清二。この映像を見ていて改めて当時の興奮が蘇りました。感動をありがとう !!!


札幌オリンピック ジャンプ 笠谷・・・


日の丸飛行隊(ひのまるひこうたい)とは冬季オリンピック、スキージャンプ・ワールドカップなどスキージャンプ競技の国際大会に於ける日本代表選手陣の愛称である。

歴史

きっかけは、札幌オリンピック(1972年)の70m級(現在のノーマルヒル)ジャンプにてより日本のジャンプ陣(笠谷幸生、金野昭次、青地清二)がメダルを独占した事に始まる。後に、冬季オリンピックやワールドカップ等で日本のジャンプ陣を日の丸飛行隊と呼ぶようになった。

札幌オリンピック後は1970年代後半から80年代前半にかけて八木弘和と秋元正博が活躍。その後は低迷が続いたが、カルガリーオリンピック(1988年)直後からナショナルチーム入りした原田雅彦、岡部孝信、東輝、葛西紀明らの登場で成績が再び上昇し、1992-93シーズンに葛西がW杯で日本人初の総合3位入賞を達成、1998年の長野オリンピックではラージヒル団体で金メダル(原田、岡部、船木和喜、斉藤浩哉)、ラージヒル個人で船木が金メダル、原田が銅メダル、ノーマルヒル個人で船木が銀メダルを獲得する大活躍を演じた。ワールドカップでも1997-98シーズンに船木が日本人最高の総合2位に入る。

翌年の1999年ノルディックスキー世界選手権でも団体で銀メダル、個人ノーマルヒルでは船木、宮平秀治、原田の3人で表彰台を独占、ワールドカップで葛西が総合3位に入るなど強さを見せた。しかし、翌シーズンからは長野五輪後に行われたルール変更への外国勢の対応、さらにその後のルール変更に対する日本の対応のまずさもあって、成績は徐々に下降線を辿るようになる。2002年のソルトレイクシティオリンピックでは団体5位、個人では船木のラージヒル7位が最高という成績に終わった。2003年ノルディックスキー世界選手権では葛西の復活があり、3種目でメダルを獲得。

2006年、日本のジャンプについて当時、日本ナショナルチームヘッドコーチだったカリ・ユリアンティラは「フィンランドやオーストリアなどのジャンプ強国と比べて踏み切りの技術が未熟でレベルが低い。日本の技術は1990年代後半までは良かったがその後のルール変更による対応が全くできていない。しかも若い選手が全く成長していない上に主力が世界の強豪国と比べてあまりにも高齢だ。私の目標はトリノオリンピックでのメダル獲得ではない。2007年に札幌で行われるノルディックスキー世界選手権に向けて有望な若い選手を見つけることだ」と話した。トリノオリンピックでのメダル獲得が困難であることが明白であるにもかかわらず若い選手が育っていないため、岡部・葛西らの出場は早々に内定し、最終的には原田も選考された

。そのため、フィンランド、オーストリアなどのジャンプ強国のマスコミの一部からは日の丸飛行隊が「高齢者集団」であることを皮肉って「ロートルジャパン」と呼ばれた。20歳の伊東大貴、16歳の伊藤謙司郎ら若手も代表に選ばれたものの、団体6位、個人では岡部のラージヒル8位入賞が最高で、メダルの獲得はならなかった。

2006年3月、長らく日本のジャンプ界を牽引してきた原田が引退。2007年世界ノルディック選手権、2009年世界ノルディック選手権では2大会連続で団体銅メダルを獲得。2007年大会は上位陣の失敗があったが、2009年大会は「今回は実力」と選手が語ったように、ユリアンティラの指導が浸透するとともに技術力の向上が見られ、団体ではメダルを狙える位置につけた。しかし、2010年のバンクーバーオリンピックでもメダルは獲得できず、日本勢の最高はノーマルヒルで伊東の15位、ラージヒルで葛西の8位、団体は5位に終わった。ユリアンティラは2010年3月31日をもって、日本ナショナルチームのヘッドコーチを辞任した。

2011年世界ノルディック選手権では女子選手の参加が初めて実現。2013年世界ノルディック選手権では男女混合団体で金メダルを獲得した。ワールドカップでは2012-13シーズンに高梨沙羅が男女通じて初の個人総合優勝を達成。

2013-14シーズンは葛西がワールドカップで史上最年長優勝を達成、好調のまま2014年2月のソチオリンピックを迎え、ラージヒルで長野大会以来4大会ぶりとなる銀メダルを獲得。団体でも同じく4大会ぶりとなる銅メダルを獲得した。女子はオリンピックではメダルの獲得はならなかったが、高梨がワールドカップで7連勝を含むシーズン15勝、全戦表彰台の記録を作るなど圧倒的な強さで総合2連覇を達成。伊藤有希も総合3位に入った。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 293 大相撲 大鵬 柏戸 柏鵬時代 北の富士 玉の海 佐田の海 豊山

2018-01-30 16:54:12 | 日記
昔の相撲を振り返ると、時代背景の違いもあるが、それに増して取り口・技が今と違っていることに気が付きます。ぶつかり合って前に出たり押されたり回り込んだりでハラハラドキドキする場面が多かったような感じがするが、これは私の見方の甘さからそういうことに受け取ってしまったのだろうか。柏鵬時代とか若貴時代とか呼ばれた時代は・・・、何というか、とにかく懐かしいです。私は栃錦関が好きでした。祖母は大鵬関の大フアンでした。

大相撲 大鵬 柏戸 柏鵬時代 北の富士 玉の海 佐田の海 豊山


大鵬 幸喜(たいほう こうき、1940年(昭和15年)5月29日 - 2013年(平成25年)1月19日)は、北海道川上郡弟子屈町川湯温泉(出生地は樺太敷香郡敷香町)出身の元大相撲力士。第48代横綱。本名は納谷 幸喜(なや こうき)であるが、一時期は母親の再婚によって住吉 幸喜(すみよし こうき)と名乗っていたこともあった。

横綱時代

新入幕で初めて敗れた柏戸と競い合い、終戦直後の復興から高度経済成長期の相撲黄金時代を支え、1961年(昭和36年)に揃って横綱に推挙、「柏鵬(はくほう)時代」と言われる黄金時代を築いた。

後に第69代横綱となった白鵬翔の四股名は、この両横綱に由来する。新横綱の場所である1961年(昭和36年)11月場所、1962年(昭和37年)1月場所と連続優勝を果たすと、同年7月場所から1963年(昭和38年)5月場所まで最初の6連覇を達成した。ところが、「型のある相撲」と評されていた柏戸が休場を繰り返していたことで、「型のない相撲」の大鵬が一人勝ちしている状況から観客が減少気味となり、大鵬の全盛期は相撲の人気低迷期と一致した。

NET(現在のテレビ朝日)は1964年5月限りで、日本テレビとTBSは1965年1月限りで大相撲中継から撤退しており、大相撲中継の勢いが落ちたのも大鵬の常勝による土俵のマンネリ化が原因であるとされている。この連覇直後から神風正一などから「(大鵬の相撲には)型がない」と盛んに批判されたが、二所ノ関は「型がないのが大鵬の型」と反論していた。大鵬自身は当時の時津風理事長が言った「『これは大鵬しかできるものがいなかった』という相撲の内容を示せばいい。後世に至ってもどの力士も真似のできないもの、それが大鵬の型である」という言葉で自分の相撲に確信を持てるようになったという。

その柏戸が再起をかけた同年9月場所では千秋楽で14勝同士の相星決戦が組まれたが、柏戸に敗れた。1964年3月場所でも同じ14勝同士による相星決戦が組まれたが、こちらは大鵬が勝利している。


柏戸 剛(かしわど つよし、1938年11月29日 - 1996年12月8日)は、山形県東田川郡山添村(現・鶴岡市)出身の元大相撲力士。第47代横綱。本名は富樫 剛(とがし つよし)。

三役~横綱昇進

1960年1月場所は東小結で迎え、12日目にはこの場所が新入幕で初日から11連勝中の大鵬幸喜との対戦が組まれた。前日の取り組みの後、支度部屋で記者から「明日は全勝の新入幕・大鵬ですが自信は?」と聞かれると、「番付を見ろ、オレは小結だぞ」と一蹴した。当時から強気な性格で有名だった柏戸だったが、本当は負けるのではないかと考えていた。それでも本当に大鵬を下手出し投げで倒すと、9勝6敗と勝ち越して同年3月場所には関脇に昇進した。

柏戸の快進撃は止まらず、同年9月場所で大関に昇進すると、1961年1月場所では13勝2敗で幕内初優勝を遂げた。優勝力士の副賞としてエールフランスからヨーロッパ旅行に招待されたが、テヘラン空港で髷を見た人から同行した春日野の妻と勘違いされた。
同年9月場所では12勝3敗で優勝決定戦に進むが、明武谷力伸は倒したものの大鵬幸喜に敗れて優勝を逃し、星数も直前3場所で33勝と力不足だったものの、場所後に大鵬幸喜と共に横綱昇進が決まった。柏戸が横綱に昇進した背景には柏鵬ムードで盛り上がった世論の動向があった。歴代の「柏戸」には大関まで昇進した力士がいるものの、横綱に昇進したのは初だった。さらに22歳9ヶ月での昇進で、照國萬藏の持つ最年少記録を大鵬幸喜と共に更新した(現在は歴代5位)。

けれん味のない正攻法の相撲ということもあって、平幕時代には横綱戦5戦全敗と通用せず、金星獲得はない。それでも関脇にあがった頃から地力も増し、栃錦には5連敗のまま引退されてしまったものの、若乃花に4連勝、朝潮には5連勝するなど彼らを圧倒しはじめる。通算では朝潮には6勝4敗と勝ち越し、若乃花には6勝6敗と五分の星を残した。

「柏鵬時代」到来

入門当初に伊勢ノ海から「未来の横綱だぞ」と言われた通りに横綱へ昇進し、その後も安定して二桁勝利を挙げていたが、1962年頃から期待されていたほどの相撲ぶりを見せることができなくなり、とりわけ相撲の守りの薄さが指摘されるようになった。神風正一からは「あれだけの体をしているんだから、何も慌てて立つことはないんじゃいんですか。むしろ立ち遅れたときのほうが、いい相撲になっていますよ。立ち合いをもっと研究せんと、いかんじゃないですか」と注文を付けられ、東富士からも「柏戸の稽古は、ただ攻めるだけのものだったが、やはり、受け身の場合の稽古も必要なんじゃないかと思います」と話した。

1963年1月場所で右手首関節捻挫・肝機能障害・蓄膿症により初の休場に追い込まれると、その後はケガや病気によって休場することが相次ぐ。1963年5月から7月まで塩原温泉郷でリハビリしていたころは、毎日午前と午後に1回ずつ通院し、稽古ができない中で現地の中学生たちと球技を行って体を鍛えていた。また、東京の知人と一緒にそこへ訪れたマッサージとヨガを研究する女性から、有色野菜やカルシウムを多く摂取することやよく噛んで食べることを心がけるよう食事指導された。4場所連続休場から再起をかけた1963年9月場所には、玉ノ海梅吉の「柏戸に勝たせたいねぇ」の声が聞こえたかのように、大鵬との千秋楽全勝対決を制して全勝優勝を果たした。

柏戸はこの場所を10勝でもできればという心構えで臨んでいたとされており、千秋楽の朝にも優勝できるとは思っていなかった。「一番うれしかったことは?」という記者の質問に対して「何といっても、塩原の生活から解放されて、晴れて巡業に出られるというときは、それこそ十枚目に上がる時とか、大関、横綱になったときよりもうれしく感じられました」とコメント。優勝旗手は豊山が務め、オープンカーで北葉山が賜杯を持った。

これ以上はない復活劇に日本中が感動し、柏戸本人も支度部屋で号泣するほどだったが、この取組を見た石原慎太郎から八百長疑惑を新聞に投稿された。大鵬自身はビデオ映像を見て自分の驕りだったと感じたものの激怒し、時津風の問いに対して「絶対に(八百長は)やってない」と断言した。これを受けて協会は石原を告訴する準備をしたが、石原側から謝罪を受けて和解した。この騒動を二人で解決に持ち込んだことで、大鵬と柏戸の仲は改善された。このことから「柏鵬時代」と呼ばれ、高度経済成長期の相撲黄金時代を支えた。

横綱土俵入りは同門の先輩横綱である鏡里の型を継承したが横綱時代初期においては大鵬と同様に柏手を打つ際に首を振る癖があり、1963年3月場所後に二子山の談話でその点を指摘された上に「力を入れようと思うんだろうが、自然のほうがいいですね」と分析された。横綱時代全般において力み故にせり上がりが不安定であり、終盤期にはバランスの悪さが顕著化した。

1964年3月場所では再び大鵬と千秋楽全勝対決が組まれたが、今回は大鵬が勝利した。その後も病魔によって好不調の波が激しく、休場回数も徐々に増えたため優勝回数が伸びず連覇は無かった。しかも同い年(学年は柏戸が1つ下)の栃ノ海晃嘉・佐田の山晋松が先に引退してしまい、自分が引退すれば横綱が大鵬一人になる事情から引退できず、肝臓・腎臓も悪化させて成績不振も多かった。見かねた時津風が「柏戸の身体は瀬戸物で出来ているみたいだ」と嘆いたこともある。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 292 ダンシングヒーロー。

2018-01-29 16:47:21 | 日記
唄の運命は不思議なものである。この唄に合わせたダンスも登場したりして、再び注目されるようになりました。今改めて試聴してもなるほどと思わせます。

ダンシングヒーロー。


「ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)」」(- イート・ユー・アップ)は、1985年11月にリリースされた荻野目洋子の7枚目のシングル。

解説

アンジー・ゴールドの1985年の自作曲「Eat You Up」(邦題「素敵なハイエナジー・ボーイ」)のカバー。当時の王道のディスコ・サウンドであり、アンジーの唯一のヒット曲である。曲名の候補にはサビの歌詞から「シンデレラ・ボーイ」などがあったが、荻野目の所属するライジングプロダクション社長・平哲夫の鶴の一声で「ダンシング・ヒーロー」に決まった。

荻野目は、この曲で第12回日本テレビ音楽祭にて日本テレビアイドル賞、第12回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭にて最優秀アイドル賞、第19回日本有線大賞にて有線音楽賞を受賞している。また、第37回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。

テレビ番組『とんねるずのみなさんのおかげです』のコント「貧乏家の人々」で本楽曲が使われており(荻野目本人も出演)、石橋が冒頭を歌い木梨が暴力的なツッコミで止めるのが毎回のお約束となっていた。なお2014年に発売されたミュージックビデオでは、とんねるずの許可を得た上でこの時の振り付けが収録されている。

2016年12月21日にビクターエンタテインメントに販売を委託し日本伝統文化振興財団より発売された2代目鈴木正夫・藤みち子・須藤圭子・武花千草のシングル「踊る十二月」(CD:VZCG-10566、カセット:VZSG-10646)のカップリング曲に収録された。
2017年10月に放送された『めちゃ×2イケてるッ!』のスペシャルではこの曲がタイトルの一部となった。荻野目本人や出演したDA PUMPと三浦大知と振付師のカーニバル三浦と先述した貧乏家コントの再現を行っている。

1990年代後半から愛知県(尾張北部:江南市、岩倉市など)や岐阜県(美濃加茂市周辺)のイベント会場で盆踊りの曲として使用され始め、徐々に首都圏(東京都中央区や清瀬市など)の盆踊り大会で採用されるようになるにつれ、2000年代後半から育児のため芸能活動をセーブしていた荻野目も再ブレイクするようになっている(盆踊り振付者は二代目島田豊年)。お笑い芸人の平野ノラが、この曲を出囃子(登場曲)にして登場することがある。平野本人も、この曲が好きという所がある。

チャート成績[編集]

荻野目も、歌手デビュー以来初めてのオリコン週間チャートトップ10入りを果たす。また翌年1986年の年間チャート12位にランクされ、シングル売上も唯一30万枚を突破(累計32万枚)、荻野目自身最大のヒット曲となった。累計売上は70万枚(公称)。

TBS系『ザ・ベストテン』では1985年12月に“今週のスポットライト”で初登場、翌1986年に入ってから初のベスト10入りを果たす(1986年1月9日、9位で初登場)。最高位は2位まで上昇(1986年2月6日)、通算9週間ランクインした。

バブリー・ダンスとして再びリバイバルヒット

Billboard Japan Hot 100総合シングルチャートでは、2017年9月25日付けのチャートに46位で初登場。その後、大阪府立登美丘高等学校ダンス部による当楽曲を使用した「バブリーダンス」のPVが、荻野目や平野ノラによる絶賛のコメントも後押しして一気に火が点き再生数が急伸。この楽曲を使用した動画の合計再生回数が8,705,160回を記録し、動画2位のDAOKO×米津玄師による「打上花火」にダブル・スコア以上の差をつける結果となった。

このポイントが牽引して、10月2日付けで「打上花火」に次ぐ総合2位にジャンプ・アップした。また、同年11月6日には配信限定シングル「ダンシング・ヒーロー -ALL EAT YOU UP-」が、翌月にはシングル「ダンシング・ヒーロー ジ・アーカイブス」が発売された。なお、当楽曲がヒットした1985年末から1986年前半にかけては、プラザ合意による円高不況への懸念が強まっていた時期であり、バブル景気ではない。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 291 座頭市 勝新太郎 殺陣「居合」

2018-01-28 23:53:52 | 日記
私の父も全盲であった。だから、素直にこの映画のストーリイに入っていけなかった。しかし、見ているうちにヒロイズムの底に権威主義への反抗、そして身障者としてのある意味での哀しさを感じて、勝新の世界を理解できるようになっていった。綾瀬はるかの「市」も見た。これはこれで参ってしまったのである。

座頭市 勝新太郎 殺陣「居合」 Zatoichi Shintaro Katsu



『座頭市』(ざとういち)は、兇状持ちで盲目の侠客である座頭の市が、諸国を旅しながら驚異的な抜刀術で悪人と対峙する、アクション時代劇。
1962年に勝新太郎主演で大映によって映画化されて以来、26作品というシリーズが公開されている。1974年には、同じく勝主演でテレビドラマ・シリーズが勝プロダクションによって製作された。
主演の勝新太郎は、映画版、テレビシリーズともに監督業も兼任するようになり、役者としてだけではなく作品の製作に深く携わった。座頭市は勝のライフワークとも言うべき作品になった。

概要

原作の座頭市

子母澤寛が1948年に雑誌「小説と読物」へ連載した掌編連作『ふところ手帖』の1篇『座頭市物語』が原作である。 江戸時代に活躍した房総地方の侠客である飯岡助五郎について取材するため千葉県佐原市へ訪れた際に土地の古老から飯岡にまつわる話の一つとして、盲目の侠客座頭の市の話を聞き、僅かに語り継がれていた話を基に記したと、後年、子母澤は語っている。

ところが、1973年に出版されたキネマ旬報社の『日本映画作品全集』において、項目執筆者の真淵哲が、(『座頭市物語』は)原作の『ふところ手帖』に1、2行だけ記されたものであったと誤記する。その結果、この誤りが検証されることなく、様々な文献で引用されて、広く信じられるようになった。

『座頭市物語』が収録されている、子母澤寛の随筆集『ふところ手帖』は1961年に中央公論社から発売。1963年に同社から発売された子母澤寛全集へも収録、1975年には中公文庫 (ISBN 4122002435)、講談社から発売された子母澤寛全集へ収録されているなど、単行本の発売以来一貫して原作の閲覧・入手は容易である。

なお、映画化の際に原作を基に、三隅研次や犬塚稔といった映画人によって新たな人物像が構築され、さらに勝新太郎によってそれが脚色・肉付けされている。そのため、今日知られる座頭市像と、原作では大幅な開きがあり、原作の一部プロットを借りた、ほぼ別物である。

映画・座頭市シリーズ

現在巷間に伝えられる座頭市の人となりは、大部分が勝新太郎主演で座頭市の物語が製作された時に作られたものである。また、原作の長ドスを仕込み杖としたのも勝である。

平手造酒との甘えのない男同士の友情を底流とする1作目『座頭市物語』は三隅監督の作品となっているが、5作目以降は宿命を負わずニヒリズムも拒否した、ある種の「諦観」が勝の味となっている。

勝の主演での劇場版最大のヒット作は1970年の『座頭市と用心棒』。それまで大スターの共演はなかった座頭市シリーズだが、この作品には三船敏郎と若尾文子が出演している。黒澤明の『用心棒』『椿三十郎』に出演した三船演じる用心棒と、勝の座頭市とが、敵味方に対峙して出演。当初、三船は友情出演程度のオファーであったと思っており、本当に対決するとは思わず、タイトルに「用心棒」と入っていた事に大変驚いたという。

当時は「時代劇ビッグスター・頂上対決」として、大きな話題となった。三船を立てるためもあって、その盟友である岡本喜八を初の社外監督として招いての大作仕立てであったが、絵コンテを切って全構図とカッティングを自分が決めるスタイルの岡本は、大映の主ともいえる宮川一夫カメラマンの口出しを一切許さず、撮影はかなり険悪な雰囲気で行われたといわれる。時間に厳格な東宝撮影所で育った岡本と三船の二人だけが定時前に出勤し、なかなか出てこない大映スタッフに苛立つ場面も見られた。キャストにもいわゆる喜八ファミリーと呼ばれる岡本作品の常連俳優が数多く並んだが、その一人岸田森はこの後、勝とも親密な関係となった。

1960年代の映画シリーズの音楽の殆どは伊福部昭が担当した。
1989年には勝新太郎の監督による『座頭市』が公開された。しかし、立ち回りの撮影中に勝の長男である鴈龍太郎(奥村雄大)の真剣が出演者の頸部に刺さり、頸動脈切断で死亡する事故が起きたり、公開翌年には勝新太郎がコカイン所持で逮捕されるなどして、映画(および勝)の周辺にはトラブルが絶えなかった。『座頭市2』の企画がしばしば話題に出ることがあったものの、勝の逮捕が影響してか新作企画はいずれも頓挫したようであり、本作が勝新太郎による最後の製作映画となった。

大映の座頭市シリーズの人気により、他社から亜流ともいえる作品が生み出された。東映は、1963年に東千代之介主演の『めくら狼』を製作・配給、松竹は、松山容子主演の京都映画『めくらのお市』シリーズ3作を1969年に配給した。(Wikiより)


あちこち「SYOWA」 290 『緋牡丹博徒』 山下耕作監督 藤純子、高倉健

2018-01-27 00:30:45 | 日記
藤純子が大きく転身して女博徒となる。これはすごいことになったと思いました。「柳生武芸帳 剣豪乱れ雲」で素晴らしい殺陣を演じていましたので、女剣客としてのイメージがありましたが、ここまでやるとは予想外でした。最近あさドラでもお目にかかりました。今後のご活躍をお祈り申し上げます。


『緋牡丹博徒』 山下耕作監督 藤純子、高倉健、若山富三郎、Japanese Yakuza Movie



『緋牡丹博徒』シリーズ(ひぼたんばくとシリーズ)は、藤純子(富司純子)主演で、東映によって制作されたヤクザ映画シリーズ。全8作。東映京都撮影所製作。
藤純子の代表的シリーズとして知られる。シリーズはつながっており、"緋牡丹のお竜"こと女侠客・矢野竜子が闇討ちで殺された父の仇を求めて賭場を流れ歩き第一作で仇を討ち、二作目以降は、渡世修行するために、諸国まわって義理と人情を踏みにじる不正な悪党と戦っていくという内容。



概要

鶴田浩二、高倉健と並ぶ女任侠スターである藤純子(富司純子、以下、藤)の人気を不動のものにした任侠シリーズで、全国の仁侠映画ファンから喝采で迎えられて大ヒットした。1968年の第一作『緋牡丹博徒』から藤の結婚引退直前の1972年『緋牡丹博徒 仁義通します』まで全八作が製作された。緋牡丹の刺青を背負った女ヤクザ"緋牡丹のお竜"が、女ながら義理と人情のしがらみの中に生き、不正には身を持って立ち向かっていくというのがパターン。

毎回手を変え品を変えて、あるいは仁侠映画づくりの秘術を尽くして、お竜・藤純子の魅力を咲き乱させる。第一作製作時22歳だった藤のきりっとした中にも女らしさを秘めた物腰が魅力。義兄弟の絆で結ばれた若山富三郎扮する熊虎親分が毎回コメディ・リリーフとして登場し、鶴田浩二・高倉健・菅原文太らのスターが交互に出演して主人公を盛り立てる。

シリーズ全八作はいずれも高い水準を保っているが、加藤泰監督による第三作『緋牡丹博徒 花札勝負』、第六作『緋牡丹博徒 お竜参上』、第七作『緋牡丹博徒 お命戴きます』が特に評価が高い。第六作『緋牡丹博徒 お竜参上』での、故郷に帰る流れ者・菅原文太にお竜がミカンを渡す雪の今戸橋のシーンは屈指の名場面とされる。本シリーズが大ヒットした1968年から1969年にかけて"東映任侠映画"は頂点に達した。

富司 純子(ふじ すみこ、1945年12月1日- )は、日本の女優・司会者。血液型O型。和歌山県御坊市出身。旧芸名は藤 純子(ふじ じゅんこ)。本名は寺島 純子(てらしま じゅんこ)、旧姓は俊藤(しゅんどう)。2007年(平成19年)に紫綬褒章受章。2016年(平成28年)春の叙勲で旭日小綬章を受章。

来歴

5歳の時に大阪市へ移り、7歳から日本舞踊を習う。大阪市立本庄中学校卒業。中学のときに宝塚歌劇のファンになり、中学卒業時に宝塚音楽学校を受験しようと考えて、宝塚コドモアテネに通っていたこともあった。しかしながら、父の反対があり受験を断念。
1962年(昭和37年)、京都女子高等学校2年生のときによみうりテレビの歌謡番組『ハイハイ、マヒナです』のカバーガールとして姉・允子と共に出演。その当時は大阪の芸能プロダクションに所属していた。

1963年(昭和38年)、当時共演をしていた名和宏の勧めで、父・俊藤浩滋の勤務先である東映京都撮影所へカメラテストに行った際にマキノ雅弘にスカウトされる[3]。藤 純子の芸名をもらい、同年の映画『八州遊侠伝 男の盃』で千葉真一の恋人役でデビューした[1]。この年はABCテレビのコメディー『スチャラカ社員』の若い女給役で出演している。

1967年(昭和42年)、『尼寺(秘)物語』で初主演。1968年(昭和43年)、『緋牡丹博徒』で本格的な主演で主題歌も歌い、ヒット。主人公・緋牡丹のお竜(矢野竜子役)でシリーズ化され、若山富三郎・菅原文太と共演した1970年(昭和45年)の第6作目『緋牡丹博徒 お竜参上』はシリーズの代表作となった。『緋牡丹博徒シリーズ』の他に『日本女侠伝シリーズ』、『女渡世人シリーズ』もヒットし、東映スターの仲間入りをした。背に彫った緋牡丹の刺青を見せる『緋牡丹博徒』については、当初は肌を見せることに抵抗があり、出演を拒んでいたが、俊藤に説得されて渋々応諾したという経緯がある。しかし『緋牡丹博徒』の人気を直に感じて「父の凄さを初めて理解した」と回想している。

この頃出演した1969年(昭和44年)の『日本暗殺秘録』と1970年(昭和45年)の『日本侠客伝 昇り龍』を、二作品とも富司の主演ではない映画だが、富司は好きな作品として挙げている。
1972年(昭和47年)、NHKの大河ドラマ『源義経』で共演した歌舞伎俳優の四代目尾上菊之助(現・七代目尾上菊五郎)と結婚し、『関東緋桜一家』を最後に引退を表明。

1974年(昭和49年)、寺島 純子(てらじま じゅんこ)の本名でフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会に就任し、「司会者」として芸能界に復帰。1977年(昭和52年)より3年間、出産・育児のため番組を一時降板したが、1980年(昭和55年)より復帰。歴代司会者では森光子に次いで2番目の長寿司会在任期間(10年11か月)となった。1983年(昭和58年)には、NHK『勇者は語らず いま、日米自動車戦争は』で女優としても復帰。

1989年(平成元年)には、ファンのアンコールもあって高倉健との『あ・うん』で映画への出演を再開。この際「白紙の新人女優としてスタートしたい」、「寺島は夫の名字」との意思から芸名を富司 純子(ふじ すみこ)に改めた。
1998年(平成10年)『おもちゃ』で26年ぶりに映画に出演、各助演女優賞に輝く。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の10位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優3位となっている。
2006年(平成18年)、映画『フラガール』で日刊スポーツ映画大賞助演女優賞を受賞。同賞の主演・助演賞の2冠は渡哲也、真田広之、鈴木京香に続き4人目。
2010年(平成22年)、連続テレビ小説『てっぱん』で主人公の祖母役を演じ、ギャラクシー賞2011年度2月月間賞を獲得した。

柳生武芸帳 剣豪乱れ雲

1963年8月7日公開

監督:内出好吉
脚本:高田宏治

出演

柳生十兵衛:近衛十四郎
飛鳥井大納言時光:松方弘樹
松平伊豆守:北龍二
板倉重宗:徳大寺伸
柳生但馬守:永田靖
登世:藤純子
山田浮月斎:山形勲
東福門院:風見章子
柳生兵庫:和崎俊哉
鬼塚喜八郎:尾形伸之介
海野総四郎:楠本健二
河原彦三郎:加藤浩
一色隼人:河村満和
佐々木左門:佐々木孝丸
田宮平八郎:戸上城太郎
花左衛門:阿波地大輔
篠原小藤次:佐藤洋
多兵衛:五里兵太郎
轟小源太:船越正雄
榊原刑部:矢奈木邦二郎
猿楽桐之助:戸塚新八
高倉少将:坂本京三郎
海野貢:南方英二
内藤主税:近江雄二郎
水木右近:小山田良樹
竹林林仲:岩尾正隆

(Wikiより)