とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 371 柳ジョージ&レイニーウッド - 雨に泣いてる…

2018-06-30 01:19:50 | 日記
地味で渋くて・・・そしてはにかみ屋。しかし、その歌声は当時私の心を虜にしました。「雨に泣いてる…」の画像が出ていなかった・・・いや、も一度探してみます。これには痺れました。・・・あっ、ありました。画像が乱れていますが。

雨に泣いてる・・・    柳ジョージ&レイニーウッド


柳 ジョージ(やなぎ ジョージ、、1948年1月30日 - 2011年10月10日)は、日本のミュージシャン。本名、柳 譲治(やなぎ じょうじ)。神奈川県横浜市南区出身。横浜市立蒔田中学校、日本大学藤沢高等学校、日本大学法学部卒業。妻は元女優の浅野真弓。



略歴

親は元陸軍軍人で、両親は戦時中広島市内で被爆。終戦後父親は日清製粉に勤めるサラリーマンになった。柳いわく「典型的な中流階級」の家に生まれ育つ。中学時代、ザ・ベンチャーズに影響されギターを始めた。

日大在学中は全共闘による学生運動が最も激しかった頃。中でも日大闘争は最も荒れて学園封鎖などで行くにも行けなかったが、柳自身「自分はノンポリでした」と話しており、これらの紛争には参加していない。この頃クリームなどニューロックに影響され、在学中の1969年、ブルースロックバンドパワーハウスを陳信輝らと結成した。解散後一旦大学で勉学に励み半年遅れで卒業。卒業直後の1970年9月、ザ・ゴールデン・カップスの後期メンバー(ベーシスト)として加入。しかし同年、アイ高野、デイヴ平尾、ミッキー吉野らと大麻取締法違反で逮捕された。

カップス解散後、一旦会社員に転ずるも、友人の成毛滋に誘われて渡英し、現地のミュージシャンに接し、再び音楽活動の再開を決意。
帰国後の1975年、広島でバンド活動をしていた上綱克彦、石井清登、宮田和昭、四ツ田ヨシヒロらと知り合い、「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成(のちに宮田に代わりミッキー山本、サックスの鈴木明男が加入)。バンド名の「レイニーウッド」は、柳がロンドンのハイドパークで見た霧に煙る森から名付けた。

1978年、「柳ジョージ & レイニーウッド」がアルバム『TIME IN CHANGES』でデビュー。R&Bをベースにした音楽性は、当時としては異端であったが、1979年に萩原健一主演のテレビドラマ『死人狩り』のテーマ曲に使われた「雨に泣いてる…」が大ヒット。その後も「さらばミシシッピー」「青い瞳のステラ 1962年夏…」等のヒットを飛ばした。

1979年の4thアルバム『RAINY WOOD AVENUE』はオリコンアルバムチャートで初登場1位を獲得するなど高い人気を得た。ここからシングルカットされた「微笑の法則」が資生堂のCMソングになり大ヒット。

1980年12月、日本武道館で初のコンサート。

1981年末に日本武道館にて柳ジョージ&レイニーウッドを解散。以後はソロアーティストとして活動を継続。

1982年12月、全国5か所でレイ・チャールズとジョイント・コンサートを行う。

1984年7月、東京・NYフレンドシップのイベント「ハーレム少年聖歌隊 With 柳ジョージ」を全国5大都市にてコンサートを開催。同年に女優の浅野真弓と結婚。

2005年4月、「24年目の祭り」と題して、「柳ジョージ&レイニーウッド」を再結成。
2008年7月、「柳ジョージ&レイニーウッド」としてフジロックフェスティバルに出演。

2011年10月10日、腎不全のため横浜市内の病院で死去63歳没。(「Wikipedia」より)



あちこち「SYOWA」 370 三原順子♪  ド・ラ・ム

2018-06-27 04:35:20 | 日記
人の一生は分からない。そういうことをこの映像を視て感じています。・・・ほんとに強い女性です。挫けない。諦めない。学ぶところがあります。

三原順子♪  ド・ラ・ム



三原 じゅん子(みはら じゅんこ、本名:中根 順子、旧姓三原、1964年〈昭和39年〉9月13日 - )は、日本の政治家、元女優・歌手、元介護施設経営者、元カーレーサー。以前は出生名の三原 順子で活動。血液型はB型。
自由民主党所属の参議院議員(2期)、自民党女性局長(2013-2015年)、参議院厚生労働委員長(2016年)。東京都板橋区出身。


生い立ち〜女優


1964年(昭和39年)9月13日、東京都に生まれる。1971年(昭和46年)4月、私立淑徳小学校入学。翌1972年(昭和47年)、東京宝映テレビ・劇団フジに入団。入団まもなく、劇団フジ定期公演「青い鳥」等に出演。
1975年(昭和50年)、第29回定期公演で「強制収容所の少女」の主役シズエを演じる(大場久美子とのダブルキャスト。1977年(昭和52年)4月、私立十文字学園中学入学。1979年(昭和54年)、テレビ朝日系ドラマ『燃えろアタック』(主演は歌手の荒木由美子)へ出演。本格的なドラマデビューとなる。学校が芸能活動を許可していなかったため、2年2学期に自主退学し、板橋区立志村第一中学校に転校する。

1979年(昭和54年)、『3年B組金八先生』に「山田麗子」役で出演。役柄の「ツッパリ(=不良、非行生徒)」イメージで、人気が急上昇した。中でも同級生へのリンチシーンで仲間を仕切りながら発した、「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを」のセリフは、三原を表す代名詞になった。

1980年(昭和55年)、明治大学付属中野高等学校定時制へ入学し、2日ほどで退学。同年に歌手デビューや宮脇健との熱愛報道。以降、1986年(昭和61年)までコンスタントにシングルを発表した。長戸大幸が作曲したデビューシングル「セクシー・ナイト」は売り上げ30万枚を超えた。

1982年(昭和57年)には、「だって・フォーリンラブ・突然」のロングヒットで、第33回NHK紅白歌合戦(歌唱曲名は「ホンキでLove me Good!!」)に出場した。
1984年(昭和59年)、20歳の誕生日を機に本名の「三原順子」から「三原じゅん子」へ改名。また、「JUNKO」というアーティスト名でハードロックのバンドを組み、ライブ活動をしていた時期もある。「山田麗子」の名で作詞も手掛けている。

1987年(昭和62年)から1999年(平成11年)にかけては、カーレーサーとしても活動し、国際B級ライセンスを持つ。グループA、スーパー耐久、JGTCなどツーリングカーレースに参加した。レース中の事故による骨折も7回経験しているという[7]。2005年(平成17年)から、二輪レースチーム「weave×MIHARA PROJECT」のオーナー。
1990年(平成2年)、レーサーの松永雅博と結婚(1999年5月離婚)。

1999年(平成11年)11月、お笑い芸人のコアラと再婚(2007年離婚)。

介護問題への取り組みから政界進出

2008年(平成20年)、子宮頸癌を患い子宮を摘出したが、リハビリを経由して復帰した。この経験もあり、医療や介護問題への関心を強め、がん撲滅等の啓発活動を行うようになった。同年1月、心機一転を図る目的でテレビ番組の企画で「公開整形手術」に臨み、レーザーによるリフトアップ、シミとり、目じりのシワ対策のボトックス注射など、約30分のプチ整形施術を行った。
2010年(平成22年)3月には自ら介護施設の経営に乗り出す。

2010年(平成22年)4月8日、第22回参議院議員通常選挙に自由民主党から比例区で出馬すると記者会見で発表。この立候補は党からのスカウトでなく自ら名乗り出たことを明らかにした。また、「二足のわらじを履けるほど国会議員の仕事を甘くは考えていない」として、当選した場合は女優を引退すると表明した。

同年7月11日の第22回参議院議員通常選挙は自民党にとっては野党の立場として初の大型国政選挙であった。出馬会見では、前述のがん克服体験について語ると共に、なぜ自民党から出馬したのかという質問に対し、今忘れられている日本人の良さ、伝統的な社会の価値観を大切に思っていることを理由として挙げた 。 約17万票を個人名で獲得し、党内5位で初当選。当選後は女優業をしていないが、例外として2011年(平成23年)3月に放送されたテレビドラマシリーズ「3年B組金八先生」の最終回で過去の出演者達が卒業生として勢揃いで集合する場面では卒業生の一人として特別出演した。なお、国会議員としての映像への出演は行っている。2013年(平成25年)、自民党女性局長(10月8日に総務会指名就任)、自民党オートバイ議員連盟事務局長を務める。2016年1月、参議院厚生労働委員長に就任。

2016年10月26日、自身のブログにおいて、政治家を志し、議員秘書を務める男性との結婚を明らかにした。

がん患者としての経験

2008年(平成20年)、子宮頸癌を患い子宮を摘出したが、リハビリを経由して復帰した。この自身の闘病経験もあり、医療や介護問題への関心を強め、がん撲滅等の啓発活動を行うようになった。がんが発覚した当時三原は、30歳以降は約3年に一度のペースで人間ドックを受けていたという。40歳以降は子宮頸がん、子宮体がんについても検査をしていたところ、2007年に突然、高度異形成(がん以前の細胞の変異)が発見された。三原のがんは早期で発見され円錐切除を行ったにも関わらず、進行が異常に早いものであった。このため最終的には腺がんの診断が下され、子宮全摘手術を行った。その際の心の支えが同じ患者仲間の励ましであったことを語り、この点が後の政界進出へのきっかけとなったと語っている。また、同様に母親ががん治療中であることにも触れている。

神奈川県選挙区に転出

2015年(平成27年)9月、自民党神奈川県連は第24回参議院議員通常選挙において三原を比例区から転出させ、神奈川県選挙区の候補に擁立することを決め、自民党本部に公認を申請した[26]。自民党本部は改選4議席以上の選挙区に2名の公認候補を擁立する方針を立てており、同年6月、神奈川県連には神奈川県選挙区選出の現職小泉昭男と三原の2名が公認を申請していた。一方で公明党が神奈川県選挙区に公認候補者を擁立する方針を決めたため、自民党神奈川県連では公認候補は1名に絞って参院選を戦うべきであるとの意見が大勢を占めるに至り、党本部が求める公認候補の複数擁立については対応が困難となった。

こうした中、県連内部の混乱発生を危惧した小泉が同年8月に公認辞退・議員引退の意向を示した。小泉の引退表明を受け神奈川県連は三原のみの公認申請を決めたが、自民党本部は神奈川県連に対しなおも2人目の候補者擁立を指示し、三原の公認を保留した。党勢拡大を狙う党本部と共倒れを避けたい県連との間で意見の相違が生じ、他の都道府県や比例区の公認候補が出揃う一方で現職である三原の公認が決まらず出遅れが懸念される中、2016年(平成28年)1月、自民党本部は三原の公認とともに、みんなの党解党後無所属で活動していた神奈川県選挙区選出の現職中西健治・旧みんなの党政調会長に党本部推薦を出し、候補者を2名確保することを決めた。

党本部は中西を推薦した理由について「政策が近い」と説明したが、神奈川県連は中西が過去に自民・公明と袂を分かってみんなの党に参加したことを問題視しており、「党本部推薦であっても中西を県連が組織的に応援することはできない」と反発。三原のみの支援に注力するとの姿勢を示した。同年3月、自民党本部は公明党の新人候補三浦信祐にも推薦を出したが、神奈川県連は自民党系の候補者が3人になるためこれにも反対。県連は三原支援に専念するとの姿勢を改めて示した。同年7月の投開票の結果、三原は得票率24.5%でトップ当選した。(「Wikipedia」より)




あちこち「SYOWA」 369 特別攻撃機【桜花】11型

2018-06-26 11:44:48 | 日記
あまり知られていない兵器です。私の地元出雲市にも終戦間際に配備されました。このことを知らせたくてこの映像を引用させていただきました。

特別攻撃機【桜花】11型



桜花(おうか)は、日本海軍が太平洋戦争中に開発した特殊滑空機。特攻兵器として開発され、実戦に投入された。


「桜花」は機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。一一型では母機からの切り離し後に固体燃料ロケットを作動させて加速、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に体当たりを行うよう設計されていたが、航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならないため犠牲が大きく、二二型以降ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。日本海軍では本土決戦への有力な兵器と見なし、陸上基地からカタパルトで発進させることができる四三乙型などの大量配備を図ろうとしていた。

秘匿のため航空機に自然名を付けるという発想から航空本部伊東裕満中佐によって「桜花」と命名された[3]。初戦果を報じた1945年5月28日の新聞では、ロケット機「神雷」と呼称された。開発段階では発案者の名前を取り「○大(マルダイ)部品」(○の中に「大」の文字)とも呼ばれた。連合国側からは、自殺(攻撃)を行う「愚か者」の機体との意味合いで、日本語の「馬鹿」にちなんだBaka Bomb(単にBakaとも)というコードネームで呼ばれていた。

終戦までに11型が製造され755機生産された。桜花で55名が特攻して戦死した。専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一の存在と言われる。

桜花を搭載した一式陸上攻撃機(一式陸攻)は桜花の重量により速度が低速となり運動性も大きく損なわれる為、第1回目の桜花攻撃では、アメリカ艦隊の遥か手前で、アメリカ軍戦闘機に母機の一式陸攻が全滅させられ、桜花を射出することもできなかった。その後、沖縄にて桜花を鹵獲し徹底して調査したアメリカ軍は、桜花が射出されるとその高速の為に迎撃が困難であると分析し大きな脅威と認識した為、射出前の母機となる航空機を最優先攻撃目標として攻撃するように全軍に徹底した。

その為、母機の一式陸攻の多くが撃墜され未帰還率が高くなった。アメリカ軍の警戒が厳重な中で、桜花は射程距離が限られており、母機が十分な護衛機無しで投下地点となる目標の近距離まで到達する必要がある為に、多数のアメリカの迎撃戦闘機を鈍重な爆撃機で突破しなければならない状況では、桜花を使用した攻撃が成功する確率は低かった。その為、桜花母機が最初に接触する敵機動部隊の外周に配置されたピケットラインの駆逐艦に対し攻撃するケースが多くなり、戦果は駆逐艦に集中する事となった。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 (番外) 【沖縄の願い】平和の詩 「生きる」慰霊の日 2018

2018-06-25 17:50:41 | 日記
沖縄全戦没者追悼式に「平和の詩」(沖縄県浦添市立港川中学校3年 相良倫子さんの詩)が朗読されました(2018.6.23)

私は、この中学生、相良倫子さんという、・・・そんなことはどうでもいい。聴いていて、どかんと、爆弾のような衝撃を受けました。そして、得体のしれないもろもろの感情が噴き出してきて、自然に、泣けてきて・・・いや、そんな単純なものじゃない、ぼろぼろに私が砕かれていくような・・・そんな状態を体感しました。


【沖縄の願い】平和の詩 「生きる」慰霊の日 2018



平和の詩「生きる」全文

沖縄県浦添市立港川中学校 3年 相良倫子


私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
 
私は今、生きている。
 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 
私はこの瞬間を、生きている。
 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ

私の生きる、この今よ。
 
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 
今を一緒に、生きているのだ。
 
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。