とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」668 芦川いづみ BGM フォー・コインズ 可愛いひと

2020-02-23 01:26:25 | 日記
泣きたくなると、この姿を見たくなります。

芦川いづみ BGM フォー・コインズ 可愛いひと



芦川 いづみ(あしかわ いづみ、1935年10月6日 - )は日本の元女優。本名:伊藤 幸子(旧姓:芦川)。松竹歌劇団時代に付いた愛称は「おムギ」(有馬稲子に顔立ちが似ており、彼女よりもたくましいということから「稲」ではなく「麦」だというシャレからついた愛称)。日活の黄金期を代表する女優として知られる。

来歴

東京市滝野川区田端町(現・北区田端)に生まれる。1952年法政大学潤光女子高校(現・法政大学国際高等学校)を中退し、松竹歌劇団付属松竹音楽舞踊学校に入学する。同期に野添ひとみ、姫ゆり子、山鳩くるみ(小林夕岐子の母とは別人)らがいた。このとき、芸名を「芦川いづみ」とする。1953年、ファッション・ショーに出演中、偶然いあわせた松竹の川島雄三監督に認められ、川島監督の『東京マダムと大阪夫人』に、月丘夢路の妹役でデビューする。その後、1955年、日活に移った川島監督の推薦で松竹歌劇団を退団し日活に入社する。

その後、『幕末太陽傳』などの川島監督の作品をはじめ、様々な役に挑戦し、松竹から移ってきていた北原三枝とともに日活の中心的な存在となった。

また、1956年には、田坂具隆監督の『乳母車』で石原裕次郎と初共演する。裕次郎はこの作品の演技で、新しい魅力を遺憾なく発揮し代表作の一つとしたが、芦川もさわやかな演技で人気を不動のものとした。以降、北原三枝とともに裕次郎の相手役として欠かせない存在となる。若い浅丘ルリ子にその座を譲ってからも日活を代表するトップ女優として活躍した。
1968年に藤竜也と結婚して引退。家庭の人となった。

2007年11月17日、新宿の京王プラザホテルで開催された日活出身の俳優で構成する「俳優倶楽部」とスタッフらで構成する「旧友会」の合同パーティーに、渡哲也・浅丘ルリ子・宍戸錠・川地民夫・沢本忠雄・鈴木清順監督・井上梅次監督・齋藤武市監督・舛田利雄監督らと共に出席。久々に公の場に姿を見せ、話題になった。

2009年には石原裕次郎の二十三回忌、南田洋子の死去に際して、スポーツ新聞にコメントを寄せている。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」667 子門真人 およげ たいやきくん

2020-02-11 00:54:43 | 日記
子供向けの唄が大大ヒット。驚いたことに他にも数えきれないほどの唄を発表しています。サラリーマンの哀感を唄っているとも受け取られ、私も当時口遊んでいました。すると、何かしらジンときて、涙が出てきました。


子門真人 およげ たいやきくん



子門 真人(しもん まさと、1944年1月4日 - )は、日本の元歌手、元音楽プロデューサー。東京都目黒区出身。血液型はA型。玉川大学文学部英米文学科卒業。
本名は藤川 正治(ふじかわ しょうじ)で、旧芸名・別名義は藤 浩一(ふじ こういち)、谷 あきら(たに あきら)など多数。
代表曲に「およげ!たいやきくん」「レッツゴー!! ライダーキック」など子供番組・アニメ番組で多くのヒット曲を持つことから、水木一郎やささきいさおと並んでアニメソング御三家と称された。 (「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」(番外)シシド・カフカ / 絶体絶命/カヴァー

2020-02-05 11:55:57 | 日記
シシド・カフカ。名前からしてグッとくる。この迫力はドラマでも同じ。強烈な個性で突っ走ってほしい。

シシド・カフカ / 絶体絶命/カヴァー



シシド・カフカ(1985年6月23日 - )は、日本の歌手、ドラマー、女優、モデル。公称身長175cm。東京工芸大学芸術学部写真学科卒。
avex trax「cutting edge」所属。デビュー時の所属レーベルは、テイチクエンタテインメントJ-POPレーベルであるインペリアルレコード。


経歴

メキシコで生まれ、小学校時代まで日本で過ごす。
5歳からピアノやヴァイオリンを習うが、いずれも長くは続かなかった。
12歳の時、父の仕事の関係でアルゼンチンに移住し、中学時代を過ごす。しかし言葉がまったく理解できず、学校では辛い思いを経験した。

14歳の時に、両親からサイレントドラムをプレゼントされたことがきっかけでドラムを始める。両親がドラムのトレーナーとして呼んだのは、バンドネオン奏者アストル・ピアソラの孫であり、自身も人気ジャズ・バンドのプロドラマーであるダニエル・ピピ・ピアソラだった。週に1回、ピアソラがドラムを教えに来てくれるようになり、スティックの握り方を始め一から伝授された。アルゼンチン人らしく、最初に教えられたのはタンゴだったという。

アルゼンチンからは2年で帰国。
高校時代からバンド活動を始め、大学時代には最高8バンドを掛け持ちしていた時期もある。
19歳の時にTHE NEWSに3代目ドラマーとして加入し、プロドラマーとして活動を開始する。THE NEWSでは4年間ドラマーとして活動した。その後、青木裕子、パンタ、ダイアモンド☆ユカイなどのサポートドラマーを経験する。同時に、生まれ持った長身と抜群のルックスを活かしてモデル活動も開始する。

20歳(2005年)の時に大島賢治(ドラマー)、平出悟(音楽プロデューサー)と出会い、「一緒に音楽をやらないか」と誘われる。きっかけは、2人の開いたロック・ボーカリストのオーディションに、友達の付き添いで来ていた本人が勢いで参加したことであった。2人のプロデュースの下、ドラマーではなくボーカリストとして、デビューを目指して精力的にライブを行うようになった。しかし、なかなかデビューは決まらず、飲食店でアルバイトをしながらデビューを目指す生活を5年間ほど続けた。当初は、ドラムを叩かずにハンドマイクで歌っていた。

2011年、「ドラムを叩きながら歌ってみれば?」というアドバイスを受け、実際に試したところしっくりきたため、「これで私は大丈夫だ。いける」と実感し、現在の歌いながらドラムを叩くスタイルとなった。このスタイルが評判を呼び、業界の目に留まりデビューが決まった。 (「Wikipedia」より)