とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SHOWA」634 シャネルズ ハリケーン

2019-05-26 23:46:59 | 日記
歌のベストテン。こういう番組が復活して欲しいですね。シャネルズの登場は衝撃的でした。

シャネルズ ハリケーン



ラッツ&スター(RATS & STAR)は、日本の音楽バンド。かつてはシャネルズ(CHANELS、後にSHANELSに変更)のバンド名で活動していた。4人のボーカルが顔を黒く塗り、ドゥーワップを歌っていた。22年に亘り活動を休止しているが、正式な解散はしていない。


レコードデビュー

1980年2月にメンバー10人でレコードデビュー。デビュー曲「ランナウェイ」がミリオンセラーを記録する大ヒット。
顔を黒塗りすることで、ブラックミュージックの雰囲気を出したことが話題となり、お茶の間でも一躍人気グループとなる。また、「『ドゥ・ワップ』ってなんだろう?」と音楽雑誌でも取り上げられるなど、日本にドゥーワップ・ブームを巻き起こす。黒塗りメイクにはデビュー当時まで白髪染めを、以後は濃い色のファンデーションを塗っている(当時は靴墨を塗っているという説が一般的であったが、靴墨はファンがやっていたため自分たちも靴墨と言っただけで、靴墨は臭くてとても塗れないでしょうという趣旨のコメントを後に桑野が述べている)。なお、デビュー後もしばらくの間は、メンバー全員がそれまでの仕事を続けていた。同年、ロサンゼルスの名門ライブハウス「WHISKEY A GO GO」に出演を果たした。

1982年1月、一旦それまでの活動を休止し、全員が昼間は旋盤工などの仕事をして、夜に集まって練習をするという生活に戻った。2ヶ月後に復帰し、この時に「CHANELS」のスペルを「SHANELS」と変えている。フランスの高級ブランド・シャネル(CHANEL)からの物言いがあったと言われているが、鈴木はスペルを改めた理由として「CHANELS」だと海外ではチャネルズと読まれてしまうためと述べている。以後、シャネルズ時代の音源などが発売された時は、ジャケットなどの「CHANELS」の表記は全て「SHANELS」と変えられている。

ラッツ&スターに改名

1983年、『サヨナラ・シャネルズ・フェアー』開催に伴いシャネルズとしての活動を終了させ、ラッツ&スターに改名。ラッツ&スターとしてのデビュー曲「め組のひと」が80万枚を売り上げる。
バンド名を変更した理由はあまり明言されることがなく、ドゥーワップにとらわれないグループを目指すためと説明されることもあるが、スペル改名後もシャネルからのクレームが続いたためと言われることが多く、同業である化粧品会社(資生堂)のCMソングを担当することになったためという説もある。

バンド名の「RATS & STAR」は「ドブネズミ達と星」を意味し、逆から読んでも「RATS & STAR」となる。下町育ちのドブネズミ達がDoo-Wapを歌うとRATSがひっくり返りSTARになったというのが本義。シャネルズ時代の1981年には『ラッツ&スター』というタイトルの本を刊行している。

また、この年の7月24日には『ALL NIGHT NIPPON SUPER FES. '83』に出演し、大瀧詠一、サザンオールスターズと競演する。最後は『蛍の光』、『上を向いて歩こう』をセッション。
その後、ピアノの山崎とベースの高橋が脱退して8人体制になる。1984年3月、フジテレビ系で週4回放送の5分間バラエティ帯番組『マンガチョップ'84』に大森笑劇研究会の名義でレギュラー出演し、コントを披露した。同年11月からは文化放送のラジオ番組『RATS ENTERTAINMENT'85』がスタートした。 (「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」(番外)日本三大船神事・ホーランエンヤ渡御祭(令和元年5月18日)

2019-05-19 16:38:18 | 日記
今年も始まりました。島根の松江大橋川が最初の舞台です。この動画に感謝申し上げます。

日本三大船神事・ホーランエンヤ渡御祭(令和元年5月18日)



この神事の公式HPは下記です。ぜひご参照ください。

https://www.ho-ran2019matsue.jp/index.html


ホーランエンヤとは島根県松江市で10年に1度開催される城山稲荷神社式年神幸祭(式年祭)の祭事。漢字では「宝来遠弥」あるいは「豊来栄弥」の字をあてる。城山稲荷神社の御神体を載せた船団が大橋川から意宇川を通って阿太加夜神社に渡る渡御祭、阿太加夜神社において櫂伝馬奉納などが行われる中日祭、再び御神体を載せた船団が城山稲荷神社に還る還御祭の三つの祭礼から構成される。櫂伝馬船での「櫂伝馬踊り」は松江市指定無形民俗文化財に指定されている。大阪天満宮(大阪市)の天神祭、厳島神社(広島県廿日市市)の管絃祭とともに日本三大船神事のひとつとされる。
次回は、令和元年(2019年)5月18日に渡御祭、22日に中日祭、26日に還御祭が開催される

歴史

慶安元年(1648年)出雲国で大規模な凶作となったことを受けて、当時の松江藩主の松平直政が城山稲荷神社の御神体を船に載せて阿太加夜神社まで運び、五穀豊穣を祈願する祭礼を行ったのが起源とされる。当初は10年周期で行われ、途中で12年周期(ただし、数えで12年の為、正しくは11年毎)に変わったが、周期通りに執り行われないことも多く、正確な回数は不明である。
2007年から2011年にかけ松江市では「松江開府400年祭」が開催されていたが、2009年に行われたホーランエンヤはそのメインイベントの一つとなっていた。
2010年に関係者が協議し、開催周期を当初の10年周期に戻すことを決定した。次回開催は2019年。
2012年10月28日、松江ホーランエンヤ伝承館が開館。

日程

開催年の5月中旬頃から9日間で執り行われる。期間中には「渡御祭」、「中日祭」、「還御祭」の3つの祭礼が行われる。

渡御祭(とぎょさい)

城山稲荷神社で宮出しが行われ、御神体が神輿船に載せられた後に船の一団が出航し、大橋川を下降して阿太加夜神社へ向かう。豪華絢爛に飾られた櫂伝馬船の上では派手な衣装とメイクの踊り手が櫂伝馬踊りを披露する。

中日祭(ちゅうにちさい)

御神体が到着した翌日から7日間の祈祷が行われるが、その中日に阿太加夜神社の境内で櫂伝馬踊りが奉納される。

還御祭(かんぎょさい)

7日間の祈祷が終了した翌日に、渡御祭とは逆の経路で城山稲荷神社まで御神体が運ばれ、到着後に櫂伝馬踊りが奉納されたて祭礼の幕が下りる。

船団の構成

ホーランエンヤの櫂伝馬船には地区ごとに一番船から五番船までがある(これは船行列の順序とは異なる。御輿船に近い順番である)。
一番船(馬潟地区)
二番船(矢田地区)
三番船(大井地区)
四番船(福富地区)
五番船(大海崎地区)
このほかに神輿船をはじめ、複数の神器船・神能船・神楽船などが、100隻以上の船が船団を構成する。
先頭から、大海崎-福富-大井-矢田-馬潟の順となっている。五番船の大海崎地区は「先頭船」の幟を掲げている。(「Wikipedia」より)



あちこち「SYOWA」633「京マチ子映画祭」予告編

2019-05-15 16:52:30 | 日記
若尾文子、山本富士子と共に大映の看板女優として大活躍した極め付きの大女優。下記の通り主演作が次々と受賞し「グランプリ女優」と呼ばれた。このフラッシュのような過去の映像を改めて拝見し、その偉大さ再認識致しました。特に『羅生門』はリバイバル館で視てその体当たりの演技に感動しました。昭和にはこういうスケールの大きな俳優さんがいました。・・・でも・・・亡くなったんですね。悲しいです。銀幕の星の一つがまた消えました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

「京マチ子映画祭」予告編



京 マチ子(きょう マチこ、1924年(大正13年)3月25日は、日本の女優である。本名、矢野 元子(やの もとこ)。大阪府大阪市出身。


来歴・人物

1936年(昭和11年)、大阪松竹少女歌劇団(OSK)に入団。娘役スターとして活躍。1949年(昭和24年)に大映に入社、女優デビューした。後輩の若尾文子、山本富士子と共に大映の看板女優として大活躍した。160cmと当時としては大柄であり、官能的な肉体美を武器に数々の名作に出演した。

溝口健二監督作品『雨月物語』(1953年)、黒澤明監督作品『羅生門』(1950年)、衣笠貞之助監督作品『地獄門』(1953年)など、海外の映画祭で主演作が次々と受賞し「グランプリ女優」と呼ばれる。1971年(昭和46年)の大映倒産以降はテレビドラマと舞台に活動の場を移し、『犬神家の一族』などで活躍の幅を広げた。80歳を過ぎても2006年頃まで舞台などで活動を続けていた。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の3位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」では第7位になった。

役柄

『雨月物語』など官能美を前面に出した演技が当時話題となった。月丘夢路とは映画『華麗なる一族』、ドラマ『犬神家の一族』などで共演し、共に家庭内の壮絶な抗争に執念を燃やす中年女性の狂気を熱演した。
1976年12月公開の『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』でマドンナ柳生綾を演じ、マドンナの中では唯一渥美清より年上である。

私生活

(1952年)
一人っ子として出生したものの、5歳のときに父が蒸発により生別、母と祖母の手で成長した経緯を持つ。
大映社長永田雅一との恋愛関係が憶測された時期もあったが、デビュー以来今日まで独身を通す。1965年(昭和40年)には、日本で初めての「億ション」、コープオリンピア(東京・表参道)を購入して話題となった。

晩年は女優業は半引退状態であった。2014年1月には池畑慎之介のブログに登場した他、2017年6月にも仲代達矢が近況について「元気です」と伝えていた。

受賞・受章歴

1950年(昭和25年):第5回毎日映画コンクール・主演女優賞 『羅生門』、『偽れる盛装』
1957年(昭和32年):第14回Jussi賞(フィンランド)・主演女優賞 『地獄門』
1964年(昭和39年):第38回キネマ旬報賞・主演女優賞 『甘い汗』
1964年(昭和39年):第19回毎日映画コンクール・主演女優賞 『甘い汗』
1987年(昭和62年):菊田一夫演劇賞大賞
1987年(昭和62年):紫綬褒章
1994年(平成6年):勲四等宝冠章
1995年(平成7年):第5回日本映画批評家大賞・ゴールデン・グローリー賞
1995年(平成7年):第18回日本アカデミー賞・会長特別賞
2017年(平成29年):第40回日本アカデミー賞・会長功労賞

ノミネート

1957年(昭和32年):アメリカ 第14回ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)ノミネート 『八月十五夜の茶屋』


2019年(令和元年)5月12日、入院していた都内の病院で心不全のため95歳で逝去。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」632 忘れていいの 大地真央 谷村新司 桃井産業 東海工場

2019-05-08 17:06:59 | 日記
この方も昭和 !??? いや、確かに昭和です。宝塚歌劇団月組トップスターとして活躍して・・・。いや、私はどちらかと言うと、歌手とかテレビタレント(?)としての大地真央が好きです。舞台を見ていないからかもしれません。谷村新司は今まで取り上げたかも(?)ということでここでは失礼ながら略歴を引用しませんでした。悪しからずご容赦ください。


忘れていいの 大地真央 谷村新司 桃井産業 東海工場




大地 真央(だいち まお、1956年2月5日- )は、日本の女優。元宝塚歌劇団月組トップスター。
戸籍名: 森田 真裕美(もりた まゆみ)、旧姓: 多田(ただ)。兵庫県洲本市出身。身長166センチ、血液型B型。愛称は真央、マミ。


来歴・人物

外国航路船長職・陸軍軍人などの経験をもつ父と横浜市出身の母のもと、三人姉妹の末子として出生。4歳から日本舞踊を始める。
洲本市立洲本第二小学校を卒業、洲本市立洲浜中学校に進学。同校在学中に、ひょんなことから舞台に立ち、その面白さから芸能活動を希望するようになり、父に相談するも猛反対されてしまう。しかし、「宝塚歌劇団なら軍隊なみに規律が厳しいから、ためになるのではないか」との父の軍隊時代の友人の進言があり、受験を許された。また、いとこにはコマ・スタジアムの社長だった白川公一がおり、毎年「宝塚カレンダー」が送られてきていた。

数か月の受験レッスンを受け、49人中42番目の成績で一発合格。中学卒業後1971年、宝塚音楽学校に入学。
1973年、59期生として宝塚歌劇団に入団。芸名の「真央」は幼い頃から考えていたもので、「大地」は長姉の提案だったという[2]。星組公演『花かげろう/ラ・ラ・ファンタシーク』で初舞台を踏む。宝塚入団時の成績は49人中25番。同期に平みち・姿晴香・四季乃花恵(笹本玲奈の母)・山城はるか・未沙のえる・湖条千秋らがいる。現役では専科所属の一樹千尋がいる。
翌年4月、月組に配属。新進男役スターとして早くから注目される。

1973年、ラジオ番組『MBSヤングタウン』(毎日放送制作)土曜日公開放送(司会: 桂三枝〈現・六代目桂文枝〉)のアシスタントを務める。
1975年、サンミュージックプロダクションのマネージメント協力のもと、アイドルとして『悲しみのアイドル』(日本コロムビア)のレコードリリース・テレビ・CM出演など活動(劇団内のオーディションで決まった約1年半の期限付き活動)を行ってきた。

この時のキャッチフレーズは「まぶしいアイドル 太陽の19歳」。活動当初はあまり注目も集まらなかったために、レコードセールスなどは芳しくなかった。その後歌手としての活動は自然消滅している。
舞台では、1976年、『ベルサイユのばらIII』の小公子(役代わり公演ではフェルゼン役)など目立つ役どころを務めるようになる。また新人公演の主役を多数務める

1980年、当時の月組トップ兼副組長の榛名由梨のもと二番手男役になる。
1981年の本公演『新源氏物語』では日程中数日間主役・榛名にかわり光源氏を演じた。

1982年、『あしびきの山の雫に』で大津皇子を演じる。同公演では入団1年目の黒木瞳が相手役の石川郎女役に大抜擢され、併演のショーでも大地と組んだ。榛名の専科異動に伴い、『愛限りなく/情熱のバルセロナ』で月組トップスターの座に就く。トップ娘役には黒木が就任したが、『愛限りなく』(『春琴抄』)では若手娘役:春風ひとみが相手役となり、『情熱のバルセロナ』ではベテラン女役スターの条はるきも黒木と並び別格スターとして大地の相手役をつとめた。

1984年、自ら劇団に企画を提案し『ガイズ&ドールズ』日本初演でスカイ役を演じた。1985年9月1日に『二都物語/ヒートウェイブ』で黒木と共に退団。以後は女優としてミュージカルなど舞台を中心に活躍をしている。特に『風と共に去りぬ』のスカーレット役・『マイ・フェア・レディ』のイライザ役が当たり役として知られる。イライザ役については、2010年の博多座、中日劇場、東京公演にて卒業。

2010年の『マイ・フェア・レディ』博多座公演初日では、東宝ミュージカル主演2300回を達成し、10月29日には『マイ・フェア・レディ』の主演600回を達成した。
私生活では舞台『風と共に去りぬ』他で共演が多かった松平健と1990年に神前結婚したものの、2004年に離婚。

2007年、インテリアデザイナー森田恭通とは再婚。3月14日、ファンクラブの公式ホームページにて婚約を発表。大地よりも12歳年下でインテリアデザイナーとして、東京・大阪・他ニューヨークや香港などにあるレストランやバーの店内のデザインをあまた手がける森田との婚約は多方面から祝福され7月25日、フランス・シャンパーニュ地方の教会で挙式。日本に帰国後=都内某所にて、関係者を招待した結婚披露パーティーを開催。その中には、大地を芸能界のママと慕う神田沙也加も出席した。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 631 森田 公一とトップギャラン - 青春時代

2019-05-03 00:20:02 | 日記
・・・♪ 青春時代の真ん中は胸に刺さすことばかり。この部分まことに真実で、そこから迫力が生まれています。森田 公一は作曲家として数々の名曲を提供しています。

森田 公一とトップギャラン - 青春時代



森田公一とトップギャラン(もりた こういち と トップギャラン)は、森田公一が率いる音楽バンド。

概要

1969年に結成され、エキスプレス/東芝音工(現・ユニバーサルミュージック)よりデビュー。その後CBSソニーレコードに移籍。「青春時代」などのヒット曲を出す。1977年の第28回NHK紅白歌合戦に出場。1981年解散。

その後、1990年に森田公一自身の作曲家30周年を記念して森田公一とトップギャランⅡとして再結成された。元Sugarのミキこと笠松美樹がキーボード担当として一時期加わっていた。

メンバー

森田公一 - ボーカル、キーボード、リーダー
渡部玲子 - ボーカル
1948年2月7日生。東京都出身。大和田覚門下。日劇ダンシングチーム出身。1967年ソロ歌手万里れい子としてデビュー。その後、森田に師事。1990年代にソロ作品がサイケデリック歌謡として再評価された。
原田正美 - ギター
元荒木一郎&マグマックス・ファイブ、元ポニーズ。
岩田康男 - ギター
元スケルトンズ、元レモンルーツ。
小原重彦 - ベース
元マグマックス・ファイブ。CM音楽制作「音楽屋ラルゴ」主宰。童謡作曲家[2]。
北村勝彦 - ドラムス
元スケルトンズ、元レモンルーツ。(「Wikipedia」より)