とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

(番外)TACYON 2017 斐川だんだんよさこい祭 大賞演舞 出雲いりすの丘メイン会場

2017-07-29 15:59:54 | 日記
今年も視ることができました。ああ、生きていてよかった。正直そう思いました。出雲市斐川町も頑張っています。

TACYON 2017 斐川だんだんよさこい祭 大賞演舞 出雲いりすの丘メイン会場



あちこち「SYOWA」 202 『異国の丘』 ~異国の丘~

2017-07-26 23:27:42 | 日記
吉田正。この大作曲家の原点を振り返りたいと思います。

『異国の丘』 ~異国の丘~



吉田 正(よしだ ただし、1921年1月20日 - 1998年6月10日)は、茨城県日立市出身の国民歌謡作曲家。死後の1998年7月に国民栄誉賞受賞。
生涯作曲数は2400曲を越える。都会的で哀愁漂うメロディーは都会調歌謡と称され、ムード歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広く手掛けた。また、鶴田浩二、三浦洸一、フランク永井、松尾和子、橋幸夫、和田弘とマヒナスターズなど多くの歌手を育て上げ、日本歌謡史の黎明期を支えたひとりである。

略歴

1921年(大正10年)1月20日、茨城県多賀郡高鈴村(現在の日立市)に生まれる。
1939年(昭和14年)3月、日立工業専修学校卒業。
1939年(昭和14年)4月、増成動力工業株式会社に入社。
1942年(昭和17年)1月、満州国黒河省漱江に展開していた陸軍水戸歩兵第二連隊に入隊。
1944年(昭和19年)急性盲腸炎のためペリリューの戦いに参戦せず満州に残る。
1945年(昭和20年)10月、敗戦と同時に、ソビエト連邦シベリア地区に抑留される(シベリア抑留)。従軍中に作曲した『大興安嶺突破演習の歌』に、抑留兵の一人が『昨日も今日も』と言う詩を付け、よみ人しらずで抑留地に広まり歌われる。(後の『異国の丘』)
1948年(昭和23年)8月、NHKラジオの素人のど自慢でシベリア復員兵の中村耕造が、よみ人しらず「俘虜の歌える」と題して歌い話題となる。
1948年(昭和23年)8月、ラジオ放送直後、舞鶴港に復員。半月の静養の後、話題も知らず入隊前の会社に復帰。
1948年(昭和23年)9月、佐伯孝夫が補作詞し、『異国の丘』としてビクターレコードより発売。
1949年(昭和24年)4月、日本ビクターに専属作曲家として入社。
1960年(昭和35年)12月、『誰よりも君を愛す』で第2回日本レコード大賞を受賞。
1962年(昭和37年)12月、『いつでも夢を』で第4回日本レコード大賞を受賞。同賞では後にその功績をたたえ『吉田正賞』を制定した。
1968年(昭和43年)12月、第10回日本レコード大賞特別賞受賞。
1969年(昭和44年)4月、芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1982年(昭和57年)11月、紫綬褒章を受章。
1989年(平成元年)日本音楽著作権協会会長に就任。
1990年(平成2年)12月、第32回日本レコード大賞功労賞受賞。
1992年(平成4年)4月、勲三等旭日中綬章を受章。
1993年(平成5年)3月、日本放送協会放送文化賞受賞。
1993年、日本作曲家協会会長に就任。
1997年(平成9年)日本作曲家協会名誉会長に就任。
1998年(平成10年)6月10日、肺炎のため死去。享年77。叙・従四位。作曲家としては3人目となる国民栄誉賞を受賞。日立市名誉市民として顕彰された。
2004年(平成16年)生誕の地である茨城県日立市のかみね公園に『吉田正音楽記念館』開設。
2005年(平成17年)日立市内の常磐線の駅(大甕駅-十王駅)の発車メロディに吉田作曲のメロディーが採用される。

代表作

歌謡曲

異国の丘(1948年/竹山逸郎・中村耕造)
東京の星空(1951年/吉岡妙子)
雨の夜のスーベニール(1951年/吉岡妙子)
落葉しぐれ(1953年/三浦洸一)
街のサンドイッチマン(1953年/鶴田浩二)
赤と黒のブルース(1955年/鶴田浩二)
おばこマドロス(1955年/野村雪子)
東京の人(1956年/三浦洸一)
好きだった(1956年/鶴田浩二、和田弘とマヒナスターズ) - 1959年にはマヒナがハワイアン風にカバー。
哀愁の街に霧が降る(1956年/山田真二)
有楽町で逢いましょう(1957年/フランク永井)
夜霧の第二国道(1957年/フランク永井)
東京午前三時(1957年/フランク永井)
夢みる乙女(1957年/藤本二三代)
泣かないで(1958年/和田弘とマヒナスターズ) - マヒナのオリジナル曲第1弾である。
好きな人(1958年/藤本二三代)
グッド・ナイト(1959年/松尾和子&和田弘とマヒナスターズ)- 松尾和子のデビュー曲。
東京ナイト・クラブ(1959年/松尾和子&フランク永井) - 松尾和子のデビュー曲。
誰よりも君を愛す(1959年/松尾和子&和田弘とマヒナスターズ) ○第2回日本レコード大賞
僕の東京地図(1959年/曽根史朗)
潮来笠(1960年/橋幸夫) - 橋幸夫のデビュー曲。○第2回日本レコード大賞(新人賞)
再会(1960年/松尾和子)
おけさ唄えば(1960年/橋幸夫)
喧嘩富士(1960年/橋幸夫)
夜がわるい(1960年/松尾和子)
花の大理石(マーブル)通り(1960年/藤本二三代)
木曽ぶし三度笠((1960年/橋幸夫)
磯ぶし源太(1961年/橋幸夫) ○第3回日本レコード大賞(作詞賞受賞曲)
南海の美少年(天草四郎の唄)(1961年/橋幸夫)
沓掛時次郎(1961年/橋幸夫)
江梨子(1962年/橋幸夫)
悲恋の若武者(1962年/橋幸夫)
慕情のワルツ(1962年/橋幸夫)
寒い朝(1962年/吉永小百合)
若いやつ(1962年/橋幸夫)
あした逢う人(1962年/橋幸夫)
いつでも夢を(1962年/橋幸夫&吉永小百合) ○第4回日本レコード大賞
花の折鶴笠(1962年/橋幸夫)
中山七里(1962年/橋幸夫)
伊豆の踊子(1963年/吉永小百合)
美しい十代(1963年/三田明)
二人の星をさがそうよ(1963年/田辺靖雄)
後追い三味線(1963年/榎本美佐江)
若い東京の屋根の下(1963年/橋幸夫&吉永小百合)
光る海(1963年/吉永小百合)
嫁ぐ日まで(1963年/吉永小百合)
舞妓はん(1963年/橋幸夫)
白い制服(1963年/橋幸夫)
通天閣の灯(1963年/橋幸夫)
若い歌声(1963年/橋幸夫&吉永小百合)
雨の中に消えて(1963年/吉永小百合)
お嬢吉三(1963年/橋幸夫)
赤いブラウス(1964年/橋幸夫)
そこは青い空だった(1964年/橋幸夫&吉永小百合)
青いセーター(1964年/橋幸夫)
霧の中の少女(1964年/久保浩)
恋をするなら(1964年/橋幸夫) ○第7回日本レコード大賞(企画賞受賞曲)
ごめんねチコちゃん(1964年/三田明)
ゼッケンNO.1スタートだ(1964年/橋幸夫) ○第7回日本レコード大賞(企画賞受賞曲)
若い二人の心斎橋(1964年/三田明&吉永小百合)
チェッ・チェッ・チェッ -涙にさよならを-(1964年/橋幸夫) ○第7回日本レコード大賞(企画賞受賞曲)
あの娘と僕〜スイム・スイム・スイム(1965年/橋幸夫) ○第7回日本レコード大賞(企画賞受賞曲)
キューポラのある街(1965年/吉永小百合)
若い翼(1965年/三田明)
明日は咲こう花咲こう(1965年/三田明&吉永小百合)
おまえに(1966年/フランク永井)
恋人ジュリー(1966年/三田明)
夢みる港(1966年/橋幸夫&吉永小百合)
勇気あるもの(1966年/吉永小百合&トニーズ)
恋と涙の太陽(アメリアッチ)(1966年/橋幸夫)
海に泣いている (1966年/トニーズ)
シンガポールの夜は更けて(1966年/橋幸夫)
殺陣師一代(1967年/橋幸夫)
愛の世界 (1967年/吉永小百合&トニーズ)
恋人たち (1967年/吉永小百合&トニーズ)
娘たちはいま(1967年/吉永小百合)
恋のメキシカン・ロック(1967年/橋幸夫)
佐久の鯉太郎(1967年/橋幸夫)
花太郎笠(1968年/橋幸夫)
和歌山ブルース(1968年/古都清乃)
加茂川ブルース(1968年/フランク永井)
夜明けの二人(1968年/橋幸夫)
赤い夕陽の三度笠(1968年/橋幸夫)
乙女川(1968年/橋幸夫)
鯉名の銀平(1969年/橋幸夫)
傷だらけの人生(1970年/鶴田浩二) ○第13回日本レコード大賞(大衆賞)
子連れ狼(1971年/橋幸夫) ○第14回日本レコード大賞(大衆賞)
未練の女(1971年/日吉ミミ)
京ごよみ -沖田総司-(1974年/橋幸夫) ○第16回日本レコード大賞(中山晋平・西条八十賞)
花の喧嘩旅(1975年/橋幸夫)
股旅グラフィティ さらば渡り鳥(1977年/橋幸夫)
法師の宿(1980年/橋幸夫)
古葉,大洋よ覇者となれ(1989年/大石吾郎)
春来川慕情(1990年/松尾和子)
サンタマリア(1991年/武井つかさ)
面影渡り鳥(1996年/橋幸夫) 最後のビクターヒット賞受賞曲
など(Wikiより)

異国の丘

あちこち「SYOWA」 201 星はなんでも知っている/平尾昌晃(本人ステージ)

2017-07-25 22:54:00 | 日記
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

星はなんでも知っている/平尾昌晃(本人ステージ)



平尾 昌晃(ひらお まさあき、1937年12月24日 - 2017年7月21日)は、日本の作曲家、歌手。社団法人日本作曲家協会・常務理事[2]、社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)理事。出生名は平尾勇。幼少時にたびたび改名し、デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、現在は本名の通り平尾昌晃を芸名としている。東京市の牛込(現東京都新宿区)「生まれ」であるが、終戦後、神奈川県の湘南エリアに移住し、藤沢市にある湘南学園で小中学時代を送る。


来歴・人物

化粧品業を営む平尾聚泉の孫。クラシックの作曲家・国立音楽大学教授の平尾貴四男は伯父。小学3年生のとき、自宅に来ていた将校から貰ったジャズのLPを聴き衝撃を覚える。11歳のとき、のど自慢大会に出場し「奥様お手をどうぞ」を英語で歌い、鐘3つの合格点をもらう。
茅ヶ崎市に住み、ジャズ教室に通い、朝丘雪路、水谷良重、ペギー葉山らと知り合う。慶應義塾高等学校中退後、ウエスタンの人気バンド『チャック・ワゴン・ボーイズ』に入る。しばらくして、『チャック・ワゴン・ボーイズ』はボーカルの小坂一也が脱退したため、『オールスターズ・ワゴン』となる。

1957年、ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、ステージを見た渡辺プロの渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演。自身としても、翌1958年1月、キングレコードより「リトル・ダーリン」でソロ・デビュー。その後、ミッキー・カーチス、山下敬二郎(後にこの2人は渡辺プロに所属する)と「ロカビリー三人男」として「日劇ウエスタンカーニバル」等で爆発的な大人気を博した。1958年には、キングレコードからオリジナルナンバーである「星は何でも知っている」、翌年には「ミヨチャン」を発表し、2曲共に100万枚を売り上げる大ヒットとなった。

ポール・アンカが作詞・作曲した「好きなんだ! (I Love You)」は、日本での売上は10万枚程度に留まったが、ハワイでは地元ラジオ局・KPOIが流したことをきっかけにリクエストランキングで1位を記録する大ヒットとなった。1959年12月、ハワイで開催された「アメリカン・ポップス大会」では、日本代表として歌唱した。

1970年代に入ると、ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を五木ひろしや小柳ルミ子、アグネス・チャン等に提供している。作詞家の山口洋子とのコンビは、この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られている。
1971年、五木ひろしに提供した「よこはま・たそがれ」、小柳ルミ子に提供した「わたしの城下町」がそれぞれ大ヒット。
1972年、小柳ルミ子に提供した「瀬戸の花嫁」で第3回日本歌謡大賞受賞。
1973年、五木ひろしに提供した「夜空」で第15回日本レコード大賞受賞。

1974年、「平尾昌晃音楽学校(現平尾昌晃ミュージックスクール=HMS)」を創立[19]。東京本校の他、札幌、所沢、茨城、名古屋、大阪、福岡、鹿児島にも地方校があり、デビューバックアップもする。同校出身者は狩人、畑中葉子、川島なお美、石野真子、松田聖子、川崎麻世、大沢逸美、森口博子、芳本美代子、笹峰愛、倖田來未、後藤真希、西田あい、など。歌手としては、生徒の一人である畑中葉子とデュオを組み、「カナダからの手紙」「ヨーロッパでさよなら」等のヒットを出した。また、彼が日本でのデビューのきっかけを作ったアグネス・チャンとも、「香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)」でデュオを組んだ。

1980年代のNHKの人気番組『レッツゴーヤング』の司会などにも携わる一方、『平尾昌晃の部屋』など、ラジオ番組のパーソナリティも務めた。その他、人気テレビ番組『熱中時代』での「僕の先生はフィーバー」、「やさしさ紙芝居」、『熱中時代-刑事編』の「カリフォルニア・コネクション」の他、ABC発テレビ朝日系時代劇の『必殺シリーズ』、アニメ『銀河鉄道999』などの音楽を手掛ける。また1980年代初頭から宝塚歌劇団の舞台音楽も手掛けており、こちらは今日に至るまで長きに渡って関係が続いている。

俳優としても、『二階の他人』などに出演。競走馬オーナーとしては中央競馬で3勝したスーパーミヨチャンなどを所有。またジャパンカップ優勝のローズキングダムの一口馬主でもある。オートレースのファンとしても有名で、川口オートレース場には年間ボックスシートを持っているほど。作曲者としても川口オートのテーマソングとなる『ぶっちぎりの青春』を提供した。音楽活動のみならず、『ものまねバトル』(日本テレビ系)の審査員、チャリティゴルフの企画等、幅広く活躍。

2001年、モンブラン国際文化賞受賞。
2002年、特定非営利活動法人「ラブ&ハーモニー基金」を設立。音楽を通じた福祉活動を展開している。
2003年、紫綬褒章受章。
2004年に次男の平尾勇気が歌手デビューを果たす。
2005年、歌手を目指す若い人、生徒のために自主レーベルのHMSレコードを立ち上げて優秀な生徒をCDデビューさせている。

2006年の『NHK紅白歌合戦』より逝去した宮川泰の後を受け「蛍の光」の指揮を務めている。但し宮川や、その前任の藤山一郎、前田璣などと比較するべくもなく本格的に勉強した指揮法ではなく、いわば名誉職的な役割である事を本人も認めている。
2017年7月21日、肺炎のため東京都内の病院で死去。79歳没。(Wikiより)


あちこち「SYOWA」 200 ブルース・リー 胸熱アクション映像 (The best of Bruce Lee)李小龍

2017-07-22 16:29:25 | 日記
ブルース・リー。名前を聴いただけで、ぞくぞくっとしますね。これを超えるアクション・スターはもう出てこないと思います。
200回。ははっ、とうとう到達しました。

ブルース・リー 胸熱アクション映像 (The best of Bruce Lee)李小龍


ブルース・リー(英語: Bruce Lee)/李小龍(り しょうりゅう、中国語: 李小龙、出生名: 李振藩、1940年11月27日 - 1973年7月20日)は、サンフランシスコ中華街出身の中国武術家、武道家、香港の俳優、脚本家、映画プロデューサーである。截拳道(ジークンドー)を創始したマーシャルアーティストとしても知られる。墓碑銘は『FOUNDER OF JEET KUNE DO』。リンダ・エメリーとの間に一男一女。息子はブランドン・リー、娘はシャノン・リー、孫娘はレン・キースラー。

武道家からアクションスターへ

1966年に、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳の演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢される。正義のヒーロー「グリーン・ホーネット」の助手兼運転手として、目の周辺だけを隠すマスクをつけた日系アメリカ人のカトー役を演じ、派手なアクションで人気を博す。

これをきっかけに、ロサンゼルスでハリウッドの俳優やプロデューサーを顧客に武術の個人指導をするようになり、TVや映画などのゲスト出演を重ねる。『グリーン・ホーネット』の後、アメリカの連続テレビドラマ『燃えよ!カンフー』を企画し、自ら主演を願ったが、東洋人であることなどを理由に叶わなかった。

1970年に、香港の大手映画会社のショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)から独立したレイモンド・チョウ(鄒文懐)が設立したばかりのゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と1本1万香港ドルで2本の映画出演の契約をする。翌1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出る。

主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司、ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担った。この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。

1972年秋から、リーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。しかしハリウッドのワーナー・ブラザースとコンコルド・プロダクションとの合作映画『燃えよドラゴン』の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の製作は中断される。(その後ゴールデン・ハーベスト社からサモ・ハン・キンポーにこの作品を完成させるように指示が出た。サモ・ハン・キンポーは彼のスタントにユン・ワーやユン・ピョウを起用し、この作品が完成となった。)

1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の撮影が始まる。かつて『燃えよ!カンフー』の主演が叶わなかったリーの意気込みは並々ならぬものがあり、エキストラへの武術指導に始まり、脚本や撮影にも詳細な意見を出した。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 199 小津安二郎 『東京物語』 予告編

2017-07-20 16:33:53 | 日記
大人の世界というものはこういうものか。私の子ども時代、興味津々で見入っていました。子ども時代の俳優がすべて出ていますね。もう懐かしいを通り越していますね。

小津安二郎 『東京物語』 予告編



小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年12月12日 - 1963年12月12日)は、日本の映画監督・脚本家。「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。先祖に国学を研究した本居宣長がいる。

監督としての名声

『非常線の女』セットにて(1933年)
1930年(昭和5年)には『結婚学入門』(現存せず)、『朗かに歩め』(現存)、『落第はしたけれど』(現存)、『その夜の妻』(現存)、『エロ神の怨霊』(現存せず)、『足に触つた幸運』(現存せず)、『お嬢さん』(現存せず)の7本を作りあげ、これが1年間制作の最高本数になる。

翌1931年(昭和6年)になると世界恐慌の影響もあって制作本数が減少、同年は3本、翌年の1932年(昭和7年)は4本の制作にとどまっている。この時代の小津は「小市民映画」と呼ばれるジャンルにおける第一人者とみなされており、批評家からの評価もすでに高かった。蒲田撮影所長の城戸四郎も小津作品の特徴を『人生の真実を小市民の生活に発見するもの』と高く評価している。

1933年(昭和8年)、『東京の女』、『非常線の女』、『出来ごころ』の3本を制作。この年、小津は気鋭の新進監督山中貞雄と京都で知り合い、意気投合する。しかし1934年(昭和9年)4月2日、父寅次郎が狭心症で急逝した。このころ、国内ではトーキー映画が増えていたが、小津は拙速なトーキー化には慎重な姿勢を見せていた。しかしトーキーの研究と準備は続けていた。こうして1936年(昭和11年)、小津初のトーキー作品が制作される。外国向けに歌舞伎の演目を映像化したドキュメンタリー映画『鏡獅子』である。トーキーの『一人息子』もこれと並行して制作された。これらに先立って公開された『大学よいとこ』は小津の最後のサイレントであり、現存しない最後の作品になっている。

完璧な演技指導

小津が求めた画面の完璧さは小道具や大道具の配置、色調にとどまらず、演じる俳優たちにも求められた。俳優の位置、動きから視線まですべて小津監督の計算したとおり実行することが求められた。これによって画面に完璧な美が生まれた。松竹の後輩として小津監督を見ていた吉田喜重は美しさへのこだわりから生み出される画面の美について「それはこの世界が無秩序であるがゆえに実現した、かりそめの幻惑であったのだろう。おそらく小津さん自身のこの世界を無秩序と見るその眼差しが、このなにげない反復の運動、その美しい規則性を見逃すことなく捉え、無上の至福にも似た、かりそめの調和といったものをわれわれに夢みさせるのである」と述べている。

1920年代、ハリウッドで映画制作に携わっていたヘンリー小谷(小谷倉市)が松竹蒲田撮影所に招かれ、ハリウッド流の映画制作技術を伝えた。その一つに、構図の中に俳優たちを配置し、その構図が崩れないように、カメラの動きと俳優の動きを制限するやり方があった。この手法が小津に大きな影響を与えた。小津は俳優の配置やカメラの動きだけでなく、俳優が微妙で正確な動作を完璧に行うことを求めた。また、セリフの口調やイントネーションなどは小津が実際に演じて見せて、俳優に厳密にそのとおり演じさせた。少しでも俳優の動きと小津のイメージにずれがあると、際限なくリハーサルが繰り返された。たとえば『麦秋』での淡島千景は、原節子と話す場面で小津からNGを出され続け、20数回まで数えてその後は回数を忘れた。同様に『秋刀魚の味』で岩下志麻は巻尺を手で回す場面で何度やってもOKが出なかった。小津が『もう一回』『もう一回』といい続け、岩下はNGを80回まで数えて後はわからなくなったという。

また小津は自分の中でイメージが完成されていただけに、俳優が自由に「演技」をすることを好まなかった。笠智衆は『父ありき』の撮影前に小津から「ぼくの作品に表情はいらないよ。表情はなしだ。能面で行ってくれ」といわれたと述べている。

小津のもとで働いていたカメラマンの川又昴は俳優たちを自らの構図どおりに厳格に動かす小津のやり方に疑問を感じ、小津のもとを離れていった。彼は「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の一翼を担うことになるが、後に小津から「おれだって蒲田のヌーヴェルヴァーグだったんだぞ」といわれたことを忘れることができなかった。

篠田正浩は、原研吉がかつて「(小津は)初めから自分の世界がある。演繹的にはめ込んでいく。だから小津安二郎の映画は人間を生かさない。昆虫採集のようだ。」と言ったことを覚えており、小津はそのやり方ゆえに弟子が育たない結果になったと見ている。(Wikiより)