とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」760 伊勢佐木町ブルース 青江三奈・いしだあゆみとのトリオ

2023-08-20 17:00:44 | 日記
この唄をトリオで唄うとは、すごいですね。藤圭子の若いころの映像も注目です。私の親戚の店があるこの町。
Wikiはこの唄の紹介です。青江さんには失礼ですが。

藤圭子 伊勢佐木町ブルース 青江三奈・いしだあゆみとのトリオ



解説

作詩は川内康範、作曲は鈴木庸一による。

伊勢佐木町は神奈川県横浜市中区の繁華街であり、当曲は同場所のご当地ソングとしてもよく知られている。

青江三奈はデビュー曲「恍惚のブルース」が大ヒットしたものの、それから暫くヒット曲に恵まれなかった。川内康範は青江三奈の再起を目的にビクターから再度作品を依頼された。川内は50万枚は売れる作品で青江三奈を復活させてやれないかという課題を与えられた。そのような経緯で書かれたのが本作である。

川内は「ハーン」というため息を曲中のどこでもいいから入れるように、と青江に言った。本作は狙い通りの大ヒットとなり、青江は復活を遂げる。発売から徐々に売れ始め、発売から5ヶ月経ってからオリコンのトップ10に初登場し、3週間5位にランクイン。1968年の「第10回日本レコード大賞」歌唱賞・「第1回日本有線大賞」スター賞・「第1回全日本有線放送大賞」優秀スター賞をそれぞれ受賞した。

あちこち「SYOWA」759 小出広美S2

2023-08-15 17:53:47 | 日記
再びアップ。この歌手が途中で消えなかったら、日本の歌謡界の地図が変わっていたと思う。まことに貴重な映像を提供していただいて、
感謝です。

小出広美S2



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曖昧さ回避 元フジテレビアナウンサーでシンクタンク経営者の「小出美奈」とは別人です。

小出 広美

来歴

愛知県海部郡大治町出身。堀越高等学校中退。
津島女子高等学校(現・清林館高等学校)1年生の時に名古屋に所在する「国際児童劇団」に入り、芸能活動をスタート。当初は地元・名古屋でタレント活動をしており、1981年、『ぱろぱろエブリデイ』(CBCテレビ)に火曜日アシスタントとしてレギュラー出演。番組内で小出をモチーフにしたドラマも作られ、番組を見たキングレコードの関係者にスカウトされて東京に進出。『レッツゴーヤング』(NHK)の番組内グループサンデーズのメンバーに選抜され、1983年にはキングレコードより「タブー」でアイドル歌手としてデビュー。デビュー時のキャッチフレーズは「'83 誰もがKOIDE(恋で)狂いです」。マイナー調の中森明菜路線の歌謡曲で“ポスト明菜”として注目を浴びた。サードシングル「水色の輝き」(アニメ『聖戦士ダンバイン』挿入歌)のリリース発売直後、キングレコードから中森明菜と同じ所属事務所研音へ移籍。

1984年にシングル「最近のム・ス・メ」を発売する予定がお蔵入りとなり、研音から契約を破棄され、事実上の引退となる
。中森明菜に嫌われ解雇になったと噂があるが、事務所の契約上のトラブルに巻き込まれたのが原因と本人が語っている。
シングル「最近のム・ス・メ」は業界関係者向けのサンプル盤が数百枚しかプレスされず、中古レコード市場で高額で取引されている。後年、CDとして再発売されたが、これも発売直後に廃盤となった。権利関係に問題があったとされる。

シングル「最近のム・ス・メ」は、堀江しのぶが「最近の娘」というタイトルでカバーし発売する予定だったが、諸事情で別の曲になった。そのため「最近の娘」はテレビのみの披露となった。また、B面の「罪と罰」は1984年にデビューしたアイドル、阿部真弓によってカバーされている。

1987年からはグラビアを中心に活動し、数冊の写真集及びヘアヌード写真集を発売する。その傍ら、都内の高級クラブ「水芭蕉」のママとなり、名古屋店もオープンさせるが突然閉店。45歳の時、水商売の世界から足を洗う。

キングレコードからベスト盤「小出広美パーフェクト・ベスト」が2010年7月7日に発売されたが、これは復刻版ブームに便乗し本人に無断で企画されたもので、厳重抗議の上で発売を止めさせた。同年11月「週刊現代」にてヘアヌードグラビアで久々に登場。
2011年に発生した東日本大震災が人生の転機となる。ブリーダーになる前は、渡米して雑貨の卸業などをしていた。
2016年7月8日放送TBS系『爆報! THE フライデー』で久々にテレビ出演した。

当人はいわゆる「不作の83年デビュー組アイドル」の一人ではあるが、同じくその一人である松本明子の呼び掛けにより2018年に東京銀座・博品館劇場で行われたデビュー35周年の合同ライブイベントには、同ライブの参加メンバーはもとより芸能界とも完全に距離を置いていることもあって参加していない。

2020年3月21日、日本テレビ系列バラエティ番組『有吉反省会 2時間スペシャル 昭和・平成・令和のアイドル事件簿ランキングベスト30!』に出演。アイドル時代の衣装(「タブー」「チェンジLOVE」)をメルカリに高額で出品した事情などを語った。
2022年現在、「神真都Q」のメンバーとなり「行政交渉部隊」で活動、反ワクチン運動デモなどに参加している。
2022年10月26日、自身のFacebookの公開を開始。

2023年5月24日には本人監修、全シングル音源及び発売中止となった「最近のム・ス・メ」、当時レコーディングした未発表曲「純愛ストーリー」のちに同期デビューの原真祐美がオリジナルアルバム「コントラスト」で発表する「コントラスト」「青春の向こう側」まで収録したCD2枚組によるコンプリートアルバム『コンプリート小出広美』を昭和歌謡ジュークボックスから発売。6/5付オリコン週間チャート70位を記録。過去にリリースされたシングル、アルバムの中で自己最高位を記録。(Wikipedia)

あちこち「SYOWA」758「東京ららばい」 中原 理恵(当時19歳)

2023-08-15 02:14:50 | 日記
この曲も忘れることができないですね。軽快な曲調の中に哀感があります。

「東京ららばい」 中原 理恵(当時19歳)


中原理恵(なかはら りえ、1958年6月17日 - )は、日本の元歌手・女優・タレント・司会者。かつて田辺エージェンシーに所属していた。本名は目加田 貴美恵(めかた きみえ)。

来歴・人物
北海道函館市出身。函館市立潮見中学校・遺愛女子高校卒業。文化放送主催『歌のフェスティバル』に北海道代表で出場、優勝は逃したが、そこで「何か光るものがある」とスタッフの目に留まり、デビューのきっかけを得る。1978年、CBS・ソニーからアルバム『TOUCH ME』で歌手デビュー。アルバム発売後にリリースされた1stシングルの「東京ららばい」が大ヒット。デビュー当時19歳だったが、大人っぽい曲調に合わせるためなのか、年齢を2歳上に偽っていた。年末には、第20回日本レコード大賞新人賞など数々の新人賞を受賞し、第29回NHK紅白歌合戦にも「東京ららばい」で出場。第二弾「ディスコ・レディー」もヒットとなる。(「Wikipedia」)

あちこち「SYOWA」757 奥村チヨ 恋の奴隷~終着駅

2023-08-13 02:15:28 | 日記
貫禄、存在感。圧倒的。歌詞を取り上げると、今ならとやかく言われかねない気がします。しかし、そういうことを吹き飛ばす迫力があります。

奥村チヨ 恋の奴隷~終着駅


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奥村 チヨ

人物・来歴
千葉県野田市で生まれ、3歳から大阪府池田市で育つ[1]。母親は山口県出身[1]。夙川学院高等学校在学中に知人が応募したオーディションに合格し、1回限りで小野薬品のドリンク剤「リキ・ホルモ」のCMソング「昨日、今日、明日」を歌い好評を得て、卒業後の1965年に東芝レコードから「あなたがいなくても / 私を愛して」でデビューする。和製シルヴィ・ヴァルタンとして売り出され、蠱惑的な魅力と甘えた雰囲気の歌唱で耳目を集める。

黛ジュン、小川知子と「東芝3人娘」と称し、「ごめんネ…ジロー」(1965年)、「北国の青い空」(1967年)などをヒットさせる。

1969年 - 1970年に発表して51万枚[2]を販売した「恋の奴隷」を初めに「恋狂い」と「恋泥棒」の「恋3部作」が広く高評を得て、人気歌手の地位を確立する。

コケティッシュな雰囲気がいっそう官能的になり、初めてNHK紅白歌合戦に出演するが、「恋の奴隷」の歌詞の一部がNHKの内部規則に抵触するために、「恋泥棒」を歌った。

1971年12月25日に発売の、自身のイメージを脱却した「終着駅」も販売枚数が40万枚[2]と好評を得た。本人の歌手引退も辞さない強い希望から実現した曲で、作曲した浜圭介も作曲家として返り咲いた。1971年に発売した「川の流れのように」は、後年に美空ひばりが歌った楽曲と同名異曲である。

1974年に浜と結婚し、芸能界の第一線を退く。

1978年に東芝から、「走馬燈」をリリースして歌手活動を再開。ディナーショーなどのステージを中心に、マイペースな活動を続ける。1993年に、折からの1960年代ブームに乗って「恋の奴隷」が再ヒットする。個性的な歌唱スタイルと時代を先取りしたようなファッションで話題になり、若い世代のファンを多く獲得した。東芝EMIから『GOLDEN☆BEST 奥村チヨ』などの新譜や旧作が発売されている。

2008年3月7日にフジテレビで放送された「売れなきゃよかった…金曜日の告白SP!大壮絶人生」によると、代表曲「恋の奴隷」が男性に従属的な歌詞であったため、奥村自身は歌うことをためらっていたという。さらに同曲のイメージから、当時は自宅周辺にまで付きまとうファンが多く出現したことから悩まされていたという。

2016年11月には、12年ぶりとなる新曲「Be With You -あなたに逢えた-」をリリース。新曲発売を記念し、2017年1月には浅草・音のヨーロー堂にて、自身初のインストア・ライヴも行った[3]。

2018年1月6日、2018年いっぱいで芸能活動から引退することが発表され、12月31日で引退した[4]。

あちこち「SYOWA」756 安西マリア - サヨナラ・ハーバーライト (1976)

2023-08-11 18:20:48 | 日記
そうでした。こんな美人歌手がいたんです。思い出して嬉しくなりました。でも、Wikipediaの記述は三面記事めいていて一考を要する。

安西マリア - サヨナラ・ハーバーライト (1976)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あんざい まりあ
安西 マリア

来歴・人物

生い立ち

東京都大田区北千束生まれ[2]。ドイツ人とのクォーター(祖父がドイツ人)とする記事は[4][12][13]少し違い、『財界にっぽん』1977年1月号で、安西自ら「母方の祖父が日本とドイツの混血なので8分の1の混血です。ドイツ語は喋れません」などと話している[2]。また「歌手なんかにはちっともなりたくなかった。父がパンナムの極東支配人なので、私も英語スクールに真面目に通ってパンナムのサービス関係の仕事をしようと思っていました」と言う[2]。一人っ子[2]。

大田区立赤松小学校[2]~大田区立大森第六中学校[2]~大東学園女子高等学校卒業後[2]、1972年10月[10]、銀座のクラブ「徳大寺」で働いているところを上条英男にスカウトされる[13][14][15][16][17][18][19][注 1]。銀座でホステスをやっていたことは、デビュー当初は隠していたため[11]、「高校卒業後、ブラブラしているところをスカウトされる」[11]と書かれた文献や、『財界にっぽん』1977年1月号では、安西自ら「高校3年の時、日比谷の美容院に行き、ケーキが食べたくなって喫茶店に入り、そこでスカウトされました」と話している[2]。

芸能界へ

1973年、“チョコレート・マリア”のキャッチフレーズで[3][13]、シングル「涙の太陽」(エミー・ジャクソンのカバー曲)で歌手デビュー[3][13][17]。ハワイで焼いた小麦色の肌から[2]、「灼熱の恋人」と言われた[2]。このデビュー曲で50万枚以上を売り上げるヒットを記録[3]。同年(昭和48年度)大晦日の第15回日本レコード大賞で新人賞を受賞[3]。同じく新人賞を受賞したのは安西の他に桜田淳子(最優秀新人賞を獲得)、あべ静江、アグネス・チャン、浅田美代子の合計5人(全員女性歌手だった)[2]。

エキゾチックな小顔と引き締まったプロポーションでグラビアにも登場して男性を魅了[18]。また音楽面でも高護は、「おしゃれな身のこなしと天性のリズム解釈は、いわゆる修練した『歌手』とは別の地平から生まれたもので、1974年の第5弾シングル「恋の爆弾」はバッド・ガール歌謡のひとつの完成型といえる」と高く評価している[17]。

1975年7月リリースのシングル「涙のジャニー・ギター/モナリザ」と、同名のアルバムを最後に東芝からビクターに移籍[13]。

1975年、美容室の器械で背中に火傷に遭う[2]。

ヒット曲は出なくなり[9][14][21][22]、映画やテレビで女優として活躍[9]。1976年、松田優作主演の東映映画『暴力教室』で生徒にレイプされる女教師を演じる[13]。同年「ホリプロ」傘下の芸能事務所から「竹野エージェンシー」に移籍[9][14][19][20][23]。これは安西が希望したもので[23]、2年後の裁判時に竹野が強気に出た理由の一つ[23]。同社の社長・竹野博士は、東映『仁義なき戦い』登場人物のモデルにもなった人物[9][14][18][20][23][24][25][26][注 2]。また阪神タイガースに所属したこともある元プロ野球選手[22][25][27]。後述する竹野が逮捕された際に警視庁からマスメディアに竹野の前歴が詳細に発表された[21]。

失踪事件

1978年4月8日[14][23]、安西がレコーディングをすっぽかし[16][23]、マスメディアが騒ぎ始めたため[16]、隠しきれないと判断され、4月13日に「竹野エージェンシー」で記者会見が行われ[16][18]、安西が失踪して連絡が取れないと公表された[3][10][16][21][23]。「kマネージャー[注 3]との"恋の逃避行"」などとスポーツ紙や女性週刊誌が騒ぎ[14][16][22]、事務所も行方が分からず仕事を15本キャンセルした[9]。翌4月14日[9]、安西の父が玉川署に娘の家出人捜索願を出した[9][14][23][注 4]。捜索願の提出を母親が渋っていたため、竹野は安西マリアは両親には居場所を知らせているのではないかと疑いを持ち、母親に「Kマネージャーはある会社の金を持ち逃げしている。このままだとマリアも共犯の疑いをもたれる」と電話したら、折り返し母親から「Kマネージャーはその会社と連絡を取って返金を約束している」と話したという[16]。この騒動に周防郁雄バーニングプロダクション社長は「例え本人が現れて謝罪しても、多くの人に迷惑をかけた今回の行動は許されるべきではない。周りの人はマリアに引退勧告すべきだし、レコード会社もすぐ新曲を中止にするべきです。厳しすぎるかも知れませんが、そうすることが芸能界の将来にプラスになると思います」と述べた[16][18]。1978年4月21日に失踪が報じられていた安西と元マネージャーKが弁護士を伴って麻布署に現れ[18]、「暴行、強要に被害届」を提出[9][19][23]。この告訴によって竹野は、5月6日に警視庁組織犯罪取締本部と麻布署に暴行、強要の疑いで逮捕され[9][14][16][22]、48時間警察勾留の後、10日間の検察勾留、1978年5月17日から公判に入り[16]、竹野が過去、暴力団の組長だった経歴も明らかにされた[9][14][20][23][24]。事務所とのトラブルも発覚し裁判沙汰となり[3][12][13][18][23]、安西が法廷で、芸能界の内幕を暴露する証言を行い[10][14]、芸能史に残る大事件に発展した[23]。

1978年5月17日から公判に入り[16]、同年8月7日、東京地裁刑事二十一部で行われた第二回公判では、安西が失踪から4ヵ月ぶりに人前に姿を現し[20]、ロッキード公判並みの報道陣が東京地裁前に押し寄せた[20]。安西は検察側証人として証言台に立ち、「芸能界は既に引退している」と話した上で[24]、芸能界の内幕を暴露する証言を行った[9][10][24][注 5]。 これに対抗して1978年9月22日にあった第5回公判で、竹野側から反論があり、暴露合戦の泥試合となった[注 6]。実父が竹野と裁判所以外で交渉を持った際、足を洗った竹野が実父を追い払い強気に出た[23]。Kマネージャーは妻子のある身であるのにも関わらず[16]、看板タレントに手を出し、会社の金の使い込みも発覚し[16]、竹野が暴行を働いたのも事実で[3][23]、安西は竹野が怖くて逃げ出したものだったが、当時の芸能界関係者は元ヤ〇ザはザラ[23]。毎日新聞記者牧太郎は「芸能界の一部は暴〇団的体質に汚染されている。捜査当局は暴〇団員か準構成員とみなしてる芸能プロ関係者は10人を超す」と話していた[14]。竹野の経歴はベテラン芸能記者には周知の事実で、安西・Kマネージャーとも芸能界での評判が良くなかったことから[15][21][22]、安西側を擁護する論調はマスメディアからはほとんど出なかった[15][20][22][23]。竹中労は「芸能界に実演というものがある限り、暴〇団と手を切ることは出来ない相談なんです。芸能プロ側も実演なしでは食っていけない。一流タレントでもテレビの出演料は僅かです。レコードが売れても音楽出版権は各テレビ、ラジオ局が作った音楽出版社にほとんど取られてしまう。原盤権や歌唱印税も群がる関係先に吸い取られてしまう。ところが実演は日だてで、200万は上がる。そういう実演を引き受ける興行屋のほとんどは暴〇団か、それに深い繋がりを持つからです」などと解説した[22][23]。加東康一は「どっちもどっちの五十歩百歩ですね。問題のポイントは芸能界の体質です。マネージャーと称する人たちが安月給でタレントと組んで"職内"[注 7]を公然とやっていることも事実です。今回の問題はそれがさらに高じて芸能事務所としてはタレントがマネージャーと組んで独立するのを怖れるからなんです。この両者の組み合わせで独立し、最後はマネージャーが捨てられた例はいくらでもありますね。このパターンは戦後芸能界の歴史みたいなものです」などと解説した[25]。

1978年5月17日から数度公判を重ねて[16]、翌1979年1月19日、東京地裁が竹野に懲役10ヶ月(執行猶予3年)の判決を言い渡した[12][14][18][注 8]。1979年6月25日、竹野が控訴を取り下げ有罪が確定した[14][18]。竹野が4ヵ月に及ぶ勾留生活を続けたこと、以前は暴力団幹部だったが、以後は正業を務めていたこと、事件によって竹野の事務所は活動停止に追い込まれ、社会的制裁を受けていることを考慮し[16]、予想外に軽い判決が言い渡され、詰めかけた報道陣も間からどよめきが沸き起こった[16]。安西の失踪から裁判まで、一連の事件は週刊誌だけではなく、全国紙でも大きく報道され、竹野が元暴〇団員であることも詳しく書かれた[9][14]。竹野は翌1980年に再び芸能事務所を興し、芸能界に復帰した[18]。

芸能界引退~復帰

公判期間(1978年5月17日[16]~1979年6月25日[14])中の夏に法廷で安西の口から「元歌手」の言葉が出て[24]芸能界を事実上引退し[3][12][18]、ハワイへ移住した[3][12][13]。1983年に先のKマネージャーではないデビュー当時のマネージャーで芸能事務所社長と結婚し[3][12][13][18][22]、帰国し一男をもうけるが[22]、4年で離婚[3][22]。1999年に知人に頼まれ、六本木のライブハウスで歌を再開し、マスメディアに取り上げられたことから[22]、芸能界に復帰し[4][12][17]、ジュエリーの発表やライヴショーなどの活動を展開[12]。2013年にテレビ番組で自らうつ病を発症していたことを告白した[4]。

2014年3月8日午後、所属事務所より詳細な病状がFAXで報道各社に報告された[29]。2月20日に自宅で異常を訴えて救急搬送され、搬送直後に急性心筋梗塞と診断された[29]。3月8日の安西の所属事務所からのFAXの時点で自力呼吸は出来る状態であるとされていた[29]。同日午前のスポーツニッポンの報道で、安西は約1時間にわたって心臓が停止し一旦は蘇生したが、脳死状態に移行したことが報じられた[4]。 翌週3月15日夜、都内の病院で急性心筋梗塞のため死亡[7]。翌16日に安西の所属事務所より公表された[6][7]。60歳没。

突然の死に、安西と同じく1973年末の日本レコード大賞・新人賞を獲得したアグネス・チャンとあべ静江の2人も共に大きなショックを受け、各自身のブログで哀別のコメントを発表した[30]