とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 572 SHOW YA - 限界LOVERS 1989年

2018-11-29 23:51:24 | 日記
「Wiki」では「プリンセス プリンセス(PRINCESS PRINCESS)は、日本のガールズロックバンドである。活動期間は1983年 - 1996年および2012年 - 2016年。女子のみで構成されたバンドの中で、商業的に日本で最も成功したグループである。ガールズバンドのパイオニアとなり、ヒット曲を連発。略称は『プリプリ』。」とあるので、ほとんど同じ時代のガールズバンドであります。私はどちらがどうだこうだと言える力はありません。どちらからも元気をもらっています。

SHOW YA - 限界LOVERS 1989年



来歴

ボーカルの寺田とキーボードの中村の所属していたバンド「メデューサ」が前身。のちにバンド名を「SHOW-YA」に変更する。 1982年、ヤマハ主催のバンドコンテストレディース部門で最優秀グランプリに輝く。この時には寺田だけが大手プロダクションやレコード会社からソロデビューの話が持ちかけられたことがあったが、寺田は「ソロは嫌。みんなでデビューしたい」と拒否。バンドとしてデビューする流れにはなったが、その後6人のメンバーの内、寺田と中村を除く4人が音楽以外の道に進むために脱退する。その後、メンバー募集によって、角田、仙波、五十嵐が順に加入する。

1985年8月、『素敵にダンシング (Coke Is It)』でデビューを果たす。しかし、当時は女性だけのロックバンドは珍しくて一般になじみが薄く、ミニスカートを履かせられたり髪を刈り上げられたりと、アイドルバンド路線で売り出されることになった。

1980年代後半、ハードロック路線に戻って自分たちの音楽を追求していたものの、セールスは伸び悩んでいた。それまで主に作詞を担当していた寺田はそれが自分のせいだと思い、7枚目のアルバム『Outerlimits』制作時、音楽家の安藤芳彦に作詞を依頼する。その際、寺田は自分の日記を安藤に渡し、それを基に詞を書いて欲しいと頼んだ。また、このアルバムから笹路正徳がプロデューサーとして参加する。

その結果、アルバムは約60万枚のセールスを記録する。30万枚を突破した8thシングル『限界LOVERS』や『私は嵐』のヒットも相まって、SHOW-YAのライブ本数やテレビ出演回数は激増する。さらに1987年から企画・主催を始めた女性アーティストのみを集めた野外イベント「NAONのYAON」では、ガールズバンドの認知度を上げることに貢献する。

1991年2月2日、ボーカル寺田がバンドを脱退する。多忙を極めたスケジュールにより引き起こされた喉を潰すなどの体調不良と精神的ストレスが原因であった。残されたメンバーは新しいボーカルにステファニー・ボージャスを迎えて活動を続けるが、1993年頃から活動が凍結状態になり、1997年 にボーカルがYoshinoに代わったものの、1998年9月に解散。

2005年、91年に脱退した寺田がバラバラになったメンバーたちのもとを訪れて一人一人に頭を下げ、5年かけてメンバーを説得し再結成を果たす。以降は数々のライブ活動、寺田恵子はNHK-FMの「私の名盤コレクション」のパーソナリティを務めるなど、精力的に活動を続けて今に至る。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 571 神戸一郎 十代の恋よさようなら

2018-11-28 15:15:03 | 日記
恋とはこういうものか。はかない。切ない。やりきれない。そういう感情を当時抱いたものでした。唄を通して恋と言うものを知った若いころのほろ苦い思い出です。・・・ご冥福をお祈り申し上げます。

神戸一郎 十代の恋よさようなら




神戸 一郎(かんべ いちろう、1938年(昭和13年)9月7日 - 2014年(平成26年)4月27日)は日本の元歌手、元俳優、実業家。本名:前原 正捷(まえはら まさかつ)。

経歴

兵庫県神戸市出身。兵庫県立夢野台高等学校、神戸商科大学卒業。芸名は歌手の藤山一郎のような美声と歌の上手さから、「神戸の藤山一郎」…神戸一郎になった。

高校時代から、のど自慢に出場し、1957年(昭和32年)、第8回コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、コロムビアの専属歌手になる。
同年12月、「十代の恋よさようなら」でデビュー。翌年の、1958年(昭和33年)5月発売の「銀座九丁目水の上」がヒット。甘いマスクでアイドル的人気になり、数々の映画にも出演した。

同じ1958年、NHK紅白歌合戦に初出場。紅白歌合戦には4回連続出場している(詳細は下記参照)。
1963年(昭和38年)には、日活「青い山脈」(主演:吉永小百合、浜田光夫)の主題歌である同曲を青山和子と吹き込みリバイバルヒットさせた。

後に歌手業からは退き、実業家へ転進し会社経営を行っていた。
2014年4月27日午後5時50分、前立腺癌のため東京都世田谷区深沢の自宅で死去。76歳没。

代表曲

十代の恋よさようなら (1957.12)
作詞:石本美由起/作曲:上原げんと/編曲:上原げんと
銀座九丁目水の上 (1958.5)
作詞:藤浦洸/作曲:上原げんと/編曲:上原げんと
青い山脈 デュエット:青山和子 (1963)
作詞:西條八十/作曲:服部良一/編曲:服部克久 (「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」 570 踊子(三浦 洸一)

2018-11-25 15:13:19 | 日記
踊り子は「伊豆の踊子」。そう分かったのは随分後のことでした。当時あまり小説など読まなかったのでしょう。後、学生時代からめちゃくちゃに書き進んで、いろいろな賞に応募しました。最高のところに到達したのが「太宰治賞」。三次予選を通過してベスト11までたどり着きました。「年の瀬に」という作品でした。最終候補の選考には落ちました。ほろ苦い思い出です。


踊子(三浦 洸一)



三浦 洸一(みうら こういち、1928年1月1日 - )は、日本の歌手。本名は、桑田 利康(くわた としやす)。
神奈川県三浦市出身。持ち歌は文芸を題材にして書かれた曲いわゆる「文芸歌謡」が多い。 歌唱法が実直であり、社歌や自治体制作の音頭など委託制作盤も多数吹き込んでいる。血液型はA型。

略歴

神奈川県三浦市三崎地区の浄土真宗本願寺派最福寺の三男・第四子(四人兄弟の末っ子)として出生。長兄は陸軍に入隊しビルマで戦死したため、次兄が住職を継ぐ。その次兄も1993年に死去し、現在は甥(次兄の長男)が住職を務めている。幼少期より厳格な祖父のもと、読経を学ぶ。

現在の三浦市立三崎小学校、私立横須賀商業学校卒。横須賀商業学校卒業後は陸軍予備隊に入隊。同時に神奈川県庁に入庁。  
東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科卒業後、1952年に日本ビクターレコードに入社。作曲家の吉田正に師事する。大学ではクラシックの声楽を学んでいた。

芸名は出身地の神奈川県三浦市にちなんで命名された。
1953年5月、『さすらいの恋唄』でデビュー、同年9月に出した『落葉しぐれ』が大ヒットとなり一躍注目を集めた。
1955年12月31日、『第6回NHK紅白歌合戦』に初出場。紅白歌合戦には計8回の出場経験がある。

1983年10月から1984年9月まで『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ)にもレギュラー出演していた。
2000年、日本レコード大賞功労賞を受賞。

2008年6月10日、『NHK歌謡コンサート』に生出演。
2010年3月10日、『吉田正音楽館・三浦洸一ミニコンサート』を開催。
2010年8月21日、『第42回思い出のメロディー』(収録は同8月7日、NHK総合)に出演。司会を務めた女優の松下奈緒は東京音大の後輩。

2010年10月27日、ゆうぽうとで開催された『第37回日本歌手協会歌謡祭』に出演
2011年4月5日、東京・代々木上原の古賀政男音楽博物館けやきホールで開催された『東日本大震災被災地支援チャリティーライブ VOL1』に出演。

2012年7月13日、靖国神社で開催された第66回みたままつり前夜祭の日本歌手協会有志奉納特別公演に出演。
他に日本演歌大賞受賞経験がある。また、日本歌手協会監事を2007年まで務めた。 自動車の運転免許を当初より持たず、マネージャーや夫人に運転を任せている。ビールが好物で、ゴルフにも頻繁に行っていた時期があった。 (「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 569 次男坊鴉(白根 一男)

2018-11-23 16:30:42 | 日記
股旅物というといろいろな唄を思い浮かべます。軽快さ、深い味のある声ではこの白根一男を思い出します。今聴いてもいいですね。市川雷蔵主演の映画の主題歌でした。

次男坊鴉(白根 一男)




白根 一男(しらね かずお、本名: 小池 正一、1937年〈昭和12年〉10月5日 - )は、日本の演歌歌手である。

経歴

栃木県栃木市皆川町生まれ。高校在学中の1952年(昭和27年)にテイチクレコード第1回新人コンテストに出場し、優勝。
翌1953年(昭和28年)にテイチクから「夜霧の酒場」でデビュー。1955年(昭和30年)には、市川雷蔵主演の大映映画 『次男坊鴉』の主題歌「次男坊鴉」が大ヒットし一躍スターダムに。

1957年(昭和32年)には第8回NHK紅白歌合戦に出場、ヒット曲「面影いずこ」を歌唱。1959年(昭和34年)には創設間も無い東芝レコードへ看板歌手の一人として引き抜かれる形で移籍。

1961年(昭和36年)、楽曲 『はたちの詩集』がヒット曲となった。その後もコンスタントにヒットを出していたが、1965年(昭和40年)にファンへの結婚詐欺の疑いで書類送検され、人気が急落した。同事件はその後、その女性が以前にも美人局事件を起こしていたことが発覚、また証拠不十分として不起訴となった。

白根は、現在も継続的に新曲を発売するなど、意欲的に歌手活動を続けている。

エピソード

デビュー当初は高校生であったことからステージには学生服で立っていた。
男性アイドル歌手として、10代で橋幸夫の股旅歌謡を歌う、学生服でのステージ(舟木一夫)、作曲もこなすなど、1960年代前半の青春歌謡の歌い手であった。

代表曲

「次男坊鴉」
「花の渡り鳥」
「弥太郎笠」
「君恋ギター」
「母恋椿」
「面影いずこ」
「夕映えの時計台」
「丘の上の白い校舎」(台詞:南田洋子)
「青春は雲の彼方に」
「はたちの詩集」
「夢あわせ」 (「Wikipedia」より)




あちこち「SYOWA」 568 南の花嫁さん(高峰三枝子)

2018-11-22 22:46:53 | 日記
この唄を唄っていた子どもの頃を思い出し、ああー、ああいう子どもの頃に今一度帰りたい、という激情が込み上げてきました。子ども時代はよかった。父は全盲だったけれど、私を肩車して遊んでくれました。母と祖母は仕事に精を出していました。祖父は私が一歳の頃亡くなりましたので、写真でしか知りませんでした。弟が生まれ、大分してから妹が生まれました。私と妹とは一回り違う年齢。家族六人の温かい家庭でした。・・・今は、妹と私だけが生き残っています。ああ、昭和の昔に返りたい。・・・また涙が出てきました。こういう唄を聴いていますと、今にはない何かが昭和にはあった、確かにあった、という感じがします。


南の花嫁さん(高峰三枝子)




高峰 三枝子(たかみね みえこ、本名:鈴木 三枝子、1918年12月2日 - 1990年5月27日)は、日本の女優、歌手。歌う映画スターの草分け的存在。父は筑前琵琶演奏者の高峰筑風。孫は元女優の高峰陽(ひなた)。


来歴・人物

1918年(大正7年)12月2日、東京府芝区露月町に生まれる。実父・高峰筑風は、独立して高峰流筑前琵琶の宗家となった。東洋英和女学院(高等女学校)を卒業した1936年(昭和11年)に、筑風が急死。一家を養うために、周囲の勧めもあり映画界入りを決意。帝国劇場の専務の紹介で松竹に入社し、同年に公開された大船映画『母を尋ねて』で女優としてデビューした。

理知的で気品のある美貌はたちまち人気を集め、翌年、松竹三羽烏(当時の松竹での人気二枚目俳優)と呼ばれた上原謙・佐野周二・佐分利信を相手にマドンナ役を演じた『婚約三羽烏』が公開。同じ1937年(昭和12年)の年末に公開された浜本広の小説を映画化した『浅草の灯』で演じた浅草オペラの踊り子役で、歌を口ずさむシーンが話題となり、コロムビアがレコード歌手としてスカウト。翌13年、映画『蛍の光』の主題歌「蛍の光」を桑野通子、高杉早苗と吹き込み、レコードデビュー。続いて映画『宵待草』主題歌の「宵待草」がヒット。これに気を良くした松竹とコロムビアは合同で音楽映画『純情二重奏』を製作し、映画と並び霧島昇と歌った主題歌が大ヒットすると、「歌う映画女優」と云われた。

映画における活躍も続き、1939年(昭和14年)、吉村公三郎監督による『暖流』で気取らない名門の令嬢役をこなし、女優としての知名度をさらに高めた作品となった。『信子』『戸田家の兄妹』『男への条件』『高原の月』と主演映画はいずれもヒット作品となり、松竹の看板スターとなっていった。一方、レコード歌手としても1940年(昭和15年)には「湖畔の宿」、17年には「南の花嫁さん」を映画とは無関係にヒットさせている。

1946年(昭和21年)10月には8歳年上の実業家鈴木健之と結婚し一子清貴をもうける。戦後は、レコード歌手としての実績を活かした音楽映画をシリーズ化した作品『懐しのブルース』『別れのタンゴ』『想い出のボレロ』『情熱のルムバ』が主題歌と共にヒット。『待ちぼうけの女』では女優としての新しい一面に挑戦し、『今ひとたびの』『リラの花忘れじ』『自由学校』など、作品にも恵まれて第一線の女優として人気を誇った。私生活では1954年(昭和29年)に離婚。その際の様々な心労から1956年(昭和31年)に声帯が凹むという奇病に罹り、ステージで声が出なくなったことをきっかけに歌手活動から遠ざかった。女優としても年齢に相応な役柄が多くなってきたが、『点と線』『好人好日』など松竹以外の大映や東映にも出演し、その存在感を示している。

1966年(昭和41年)、11年振りに公の場で歌ったところ声が戻っていることがわかり、藤山一郎や服部良一らの勧めもあって東京12チャンネルのテレビ番組「歌謡百年」に出演し大反響となった。「高峰三枝子カムバック」と報道されるほどの人気となり、1967年(昭和42年)には自身のヒット曲をステレオで再録音したLPを発売し、30万枚以上を売り上げる。

また、テレビ時代に合わせ、1968年(昭和43年)から女優を起用する初めての試みであった「3時のあなた」の司会に就任。高峰の落ち着いた司会ぶりと気さくな人柄が好評で、当初の予定を大幅に延長し、1973年(昭和48年)5月まで5年1ヶ月司会を務める。その間にマレーネ・ディートリヒのショウを見たことが動機となって、1969年(昭和44年)、日生劇場で「高峰三枝子リサイタル」を開催。芸能生活35年を記念したリサイタルも1972年(昭和47年)に行い、1975年(昭和50年)、1983年(昭和58年)、1986年(昭和61年)には「全国縦断リサイタル」で往年のファンの要望に応えた。

1976年(昭和51年)には『犬神家の一族』(市川崑監督)での演技が高く評価され、第19回ブルーリボン賞助演女優賞を受賞。女優として初めて栄誉に浴した。1981年(昭和56年)からは、『懐しのブルース』など多くの映画で共演した上原とともに国鉄(現・JR)の「フルムーン」のCMに出演、夫役の上原と二人で温泉で入浴し豊満な乳房を露出するシーンが話題となった。

1985年(昭和60年)に紫綬褒章を受章し、同年10月30日の園遊会に招待される。1986年(昭和61年)12月、岐阜県明智町(現・恵那市)に開設された「日本大正村」初代村長に就任。平成時代に入っても新宿コマ劇場でリサイタルを開いたり、テレビのバラエティー番組に出演するなど、活発に活動していた。

しかし、1990年(平成2年)4月18日に田園調布の自宅で脳梗塞のため倒れて世田谷区の日産厚生病院に緊急入院した。意識は混濁し、左半身は完全に麻痺状態だった。その後一時は意識が回復し生命の危機を脱したという報道もあった。だが入院から約1か月後の5月25日に容体が再び急変し、5月27日に死去した。71歳没。意識が絶える瞬間まで「早く仕事に戻りたい」と繰り返していたという。高峰のその死は当時大きく取り上げられ、テレビでも多数の追悼番組が放送された。没後、勲四等宝冠章が追贈された。

現在は孫の陽も取締役に名を連ねる(株)高峰プロモーションが版権及び肖像権等の管理、許諾をしている。(「Wikipedia」より)