とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

2010-08-12 22:21:34 | 日記




 自然界の動植物の中で、蛍は特異な文学的素材となる。ただ、これを使いこなすには相当の力量が求められる。私はまだ蛍を素材に用いたことがない。蛍は今でも表現上では遠い存在である。このごろ夏の夜空に蛍が飛ぶ姿を見なくなってしまったので、現実面でもいよいよ私から蛍は遠ざかってしまった。
 同人誌『蛮族』所属の作家内藤美智子氏の随筆に「ほたる」という秀作がある。高校の国語の教科書にも掲載された。
 作者はある日家の前の田んぼの中で小さい蛍を見つける。そのことが若い頃の思い出へ誘う。作者は高校時代部活動の遠征の帰り、出雲発のバスに乗る。しばらくすると、誰かが蛍を見つける。しかも蛍合戦。運転手はバスを止め、乗客に見物させる。火の玉がぶつかりあって独特の匂いを放っていたのである。二十数年後、作者は久しぶりに蛍のかすかな光を見つめながら、夢多き青春時代を振り返り、そのときに想像した世界とは「ずいぶん遠い風景」に辿り着いたと感じる。しかし作者はそのことを後悔せず、「それもまたよし」と呟き、即座に前向きの姿勢に切り替える。
 ……「それもまたよし」。この開き直りとも違う気持ちの切り替えに私は唸ってしまった。そして事あるごとにそう呟いて私自身を励ましてきた。かつて作者が見た群舞する蛍と眼前のか細い蛍。それは青春の夢が萎(な)えてしまったことと重なる。……見事である。
 蛍を素材とする作品は他にもある。だが、それらのほとんどは、蛍のはかなさ、妖しげな美をやるせない現実の生に重ねたものが多い。しかし、内藤作品には、哀しさを凌ぐ力のようなものが感じられて爽やかである。
 それにしても、私はもう二十年くらい、いや、もっと以前からかもしれないが、蛍を一匹も見たことがない。これだけは、「それもまたよし」と割り切る訳にはいかない。
                            (2005投稿)
 

花嵐忌

2010-08-12 21:58:59 | 日記
花嵐忌




 以前紹介した下関の田中絹代メモリアル協会の事務局長を務めておられる河波茅子氏からたくさんの資料をお送りいただいた。河波氏は国内外の田中絹代に関わる事業を第一線で進めておられるお方である。
いただいた『田中絹代の世界』(生誕90年田中絹代メモリアル実行委員会)という冊子などを急ぎ拝見し、かの大女優の生涯をあらかた把握することができた。栴檀(せんだん)は双葉より芳し。この真意をそのまま体現して見せた女優の一象徴が田中絹代だと私は思った。彼女のスターとしての出発点。それは筑前琵琶との出合いでもあった。その冊子の中に大阪琵琶少女歌劇時代の舞台衣装を身に着けた10歳前後の写真があった。凛として立っているその少女の姿に、すでに大女優としてのすべての資質が輝き出ている思いがした。
「私、映画と結婚しました」。彼女の役づくりへの情熱を物語る言葉である。『春琴抄・お琴と佐助』(昭和10年)では盲いた「お琴」になり切ろうと、眼をつむって指先に血が滲むほど琴の稽古をしたそうだ。また、『楢山節考』(昭和33年)では老け役づくりのために差し歯を抜いた。そういう逸話は枚挙に暇がない。また、小津安二郎を初めとする名監督たちとの出合いも彼女の演技力を深めた。そして、成瀬巳喜男監督の指導により、世界でも希な女性監督の仕事も学んだ。
14歳から始まった女優の道を60歳半ばまでひた走り、その都度年齢に応じた新しい芸境を切り開き、彼女は『愛染かつら』(昭和13年)の主題歌の歌詞の通り「花も嵐も踏み越えて」その名を世界の映画史上に深く刻んで、昭和52年3月21日に67歳で永眠した。下関市民から香名を公募して、その日は「花嵐(からん)忌」と名づけられた。                               (2005投稿)