とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 255 たとえば、愛

2017-11-30 22:16:32 | 日記
大原麗子。ほんわかとしていて美しくとても魅力的なお方でした。前回のアップを補完するという意味で再び映像を見つけてアップしました。
原田芳雄は次回で再び取り上げます。低音で鋭い顔立ちがピリッとしていました。思いつめた表情がよかったです。


たとえば・・・



大原 麗子(おおはら れいこ、1946年11月13日 - 2009年8月3日[3][2])は、日本の女優。本名は飯塚 麗子(いいづか れいこ)。

来歴

生い立ち~女優へ

老舗和菓子屋の経営者を父として、東京都文京区で誕生。潤徳女子中学校、北豊島高等学校卒業。

六本木野獣会に属し、大野伴睦の長男で東京放映の社長である大野直にスカウトされ、芸能界入り。中尾ミエ主演の東宝映画『夢で逢いましょ』(1962年)にも端役で出演していたが、1964年(昭和39年)、テレビドラマ『幸福試験』(NHK)の出演でデビューし、翌年、東映へ入社。佐久間良子主演の『孤独の賭け』で初めて本格的な映画に出演し、高倉健の『網走番外地』シリーズ、千葉真一主演作品での助演、梅宮辰夫の『夜の青春』シリーズをはじめ、数々の映画に出演したが、梅宮の主演映画では酒場のホステスやパンスケ役が多かった。

1971年に東映との契約切れを機に渡辺プロダクションに移籍。以降テレビドラマを中心に一転して「しっとりとした日本的美人像」を演じ、映画『おはん』の魔性の女などさまざまな役を演じ分け、独特の存在感を発揮した。
その演技力を買われて主演した橋田壽賀子脚本の『春日局』では大河ドラマ歴代3位となる平均視聴率32.4%(ビデオリサーチ、関東地区調べ)を叩きだした。

橋田をはじめ、石井ふく子からも演技力を高く評価されていた。
東映を退社してからの所属芸能事務所は長年「オフィス・アール」であったが、晩年には「ワンポイント」に属していた。
映画『男はつらいよ』シリーズでは、マドンナ役を2度務めた。

バラエティ番組・CMへの出演

1996年4月15日にフジテレビ系列で放送がスタートしたバラエティ番組「SMAP×SMAP」の名物コーナー「BISTRO SMAP」の記念すべき第1回目のゲストが大原であり、大原の死去から1週間後の2009年8月10日に大原への追悼の意を込めて同回が再放送された。この時の映像はのちに番組内でも幾度となく紹介された。

CMへの出演も多く、とりわけ、和服姿でぷっとほっぺたを膨らませ、かすれた声で甘えるように「すこし愛して、ながーく愛して」というセリフを言うサントリーレッドのCMは、その言葉どおり多くの人に長く愛され、1980年(昭和55年)から1990年(平成2年)まで放送された。歌手としても、数枚のレコードをリリースした。明石家さんまや清水ミチコによく声真似をされた。

病歴

1975年に神経疾患であるギラン・バレー症候群を発症。47歳のときには乳がん手術を受けた。1999年11月から翌年にかけてギラン・バレー症候群が再発したとして芸能活動を休止した。休止後も生前親交のあった橋田壽賀子や山下真司とは不定期ながらも連絡を取り合っていたという。2008年11月には足元がふらついて自宅で転倒、右手首の骨折と膝の打撲という重傷を負った。これは同症候群の影響で身体のバランスを崩したものとされていたが、同じくギラン・バレー症候群を患った演出家の鴨下信一や専門医はこの病が再発することは滅多にないとして再発に懐疑的であり、大原の実弟も再発は姉の思い込みだったのではないかと否定的である。

2008年末に「しっかり病気を治して、容姿も心も完全に女優に変身して復帰したい。いえ、必ず復帰するわ。そうね復帰はどんな形がいいかしら。やっぱりテレビドラマよね。山田太一先生が脚本を書いてくれると嬉しいんだけどな。それまでは、たとえ目の前に1億円積まれてもお断り。だって大切なファンを裏切ってしまうことになるでしょうから」と語った。

死去[編集]

2009年8月6日、連絡が取れず不審に思って警察に通報していた実弟らによって、自宅で亡くなっているのが発見された。62歳没。行政解剖の結果、死亡推定日時は同年8月3日。死因は不整脈による脳内出血であると診断された。

かつて映画で共演した夏木陽介は、「話し相手になってあげればよかった…」と追悼のコメントを寄せた。最後のテレビドラマ出演は、かつての夫である渡瀬恒彦との共演で、2004年の「十津川警部シリーズ」『東北新幹線「はやて」殺人事件』であった。

8月23日、東京の青山葬儀所で「お別れの会」が開かれ、森光子、石井ふく子、浅丘ルリ子らが発起人となり、元夫である渡瀬恒彦や森進一のほか、八千草薫、池内淳子、徳光和夫、加藤和也、井上順、堺正章、松原智恵子、音無美紀子、浅野ゆう子、中村雅俊らが参列。大原が実の姉のように慕っていた浅丘は弔辞を述べ、浅丘が骨折した大原を見舞いに訪れると、大原が早く会いに来てほしかったと抱きついて怒りながら号泣していたことを明かした。また高倉健は、この時参列しなかったが、11月に墓参に訪れ墓所を掃除し、30分以上故人に語りかけていた事が2010年8月に報じられており、その後も親族に向けて定期的に線香を贈り、墓参を継続していたという。墓所は世田谷区の妙壽寺。戒名は「花香院麗風妙舞大姉」。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 254 とまどいトワイライト - 豊島たづみ

2017-11-30 00:40:11 | 日記
テレビドラマ「たとえば、愛」。導入部の挿入歌がとても印象に残っています。都会生活の孤独・憂愁というものが感じられて、しみじみとした気持ちになりました。

とまどいトワイライト - 豊島たづみ


豊島 たづみ(とよしま たづみ、1954年11月26日 - )は、福岡県出身のシンガーソングライターである。


経歴

通称TAZZ。14歳からギターによる曲作りを始めていた。進学のため18歳で上京し在学中にTVコマーシャルの仕事を始める。代表作は森永の「エンゼルパイ」であり、他にも多くの作品を制作している。

それと同時に自分自身のレコーディングも始まり、1977年ポリドールレコードよりアルバム『ちぎれ雲』でデビュー。代表的なヒット曲にテレビドラマ「たとえば、愛」(大原麗子主演)のテーマソング「とまどいトワイライト」(作曲:宇崎竜童 作詞:阿木燿子)、「オレンジ色の愛たち」(宇津井健、秋吉久美子、風吹ジュン 出演)のテーマソング「行き暮れて」(作詞:落合恵子、作曲:桜井順、編曲:大村雅朗)等がある。

TBSラジオ深夜放送「ヤングプラザ午前3時」のパーソナリティーとしてもかなりの人気があった。1982年シングル「燃えつきて、ディザイア」を最後に主婦業に専念。

2007年25年振りに神奈川県逗子市のホールにてコンサートを開催。2009年6月アルバム『キッチンから愛をこめて』をリリース。活動再開。 現在1男2女の子どもを育て上げ、夫と柴犬の「ドンタク」と共に鎌倉に暮らす。
2014年に発表された、アメリカのラップ・アーティストであるジージーとジェイ・Zの楽曲「Seen It All」に、「とまどいトワイライト」がサンプリングされた。プロデューサーのCardoは、この曲を使ったことについて「この曲を聴くと、日本のネオン街の夜や人々、文化が脳裏に浮かぶんだ」と語っている。

2017年デビュー40周年を記念してポリドールレコードよりリリースされた全アルバムが最新リマスタリング及びボーナストラック付きで11月より再発売される。キティより発売された唯一のシングル曲もボーナストラックとして収録することが決定している。

ディスコグラフィー

シングル

「ひとあしお先に」(作詞作曲:つのだひろ)「夏」1977年6月
「おもいでは琥珀色」「ふたりだけの休日」1977年11月
「エヴリデイ・エヴリナイト」「都会のゆううつ」1978年10月
「とまどいトワイライト」「寝た子を起こす子守唄」(作曲:宇崎竜童 作詞:阿木燿子)1979年2月1日(オリコンチャート最高19位、売上14.7万枚、1979年度年間78位)
「ビッグ・ヒット4」1979年6月
「行き暮れて」(作詞:落合恵子、作曲:桜井順、編曲:大村雅朗)/「海が見たい」(作詞・作曲:豊島たづみ、編曲:川村栄治)1979年10月
「少しずつ愛して」「ミッドナイトブルー」1980年2月
「パジャマ・ゲーム」「リバーサイド」1980年6月
「SAIL AWAY」「LONELY ONE」1981年3月
「燃えつきて、ディザイア」(作曲:来生たかお)「まぼろしのQUEEN」1982年

『たとえば、愛』(たとえばあい)は、TBS系列の『木曜座』で1979年1月11日から4月5日まで全13回が放送されたテレビドラマ。DVD未発売。

概要

再婚することになった人気女性DJが、現在の夫と過去の夫との間で心が揺れ動く。三田村邦彦、石田えりのテレビデビュー作である。


内容

1年前に離婚をしていた人気深夜番組DJの九条冬子は、自身の番組を担当する広告代理店の課長・高井五郎との再婚を控えていた。だが披露宴当日、前夫の工藤六郎が披露宴に出席すると知って驚くが、六郎を呼んだのが五郎だと知り、さらに驚くのだった。
複雑な心境の中、披露宴は何事もなく終わったが、その数日後、冬子は番組で匿名の手紙を実名で読んでしまうという失態を犯してしまい…。

登場人物

九条冬子:大原麗子
高井五郎:津川雅彦
工藤六郎:原田芳雄
三国乙彦:三田村邦彦
九条いりか:石田えり
工藤章子:萩尾みどり
石山信介:荒木一郎
有沢部長:戸浦六宏
小山制作局長:永井智雄
木下清吉:小鹿番
亜子:大森暁美
咲本一平:北浦昭義
山口リスコ:桃井かおり
南雲庄一:下條正巳
名倉:矢崎滋
中根光彦:大江徹
沢田正一郎:垂水悟郎
秋山:金野和弘
吉野哲夫:橋爪功
秋元公三:依田英助
中原弓子:大崎裕子
ボンのウエイトレス:中野まり子
今井:福崎和宏
(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 253 若い二人(北原謙二)

2017-11-28 17:11:35 | 日記
ビブラートを付けないスーッと伸びる独特の唄い方がまことに印象に残っています。若いですね。今はどうなさっているんでしょうか。また聴きたいです。・・・あっ、お亡くなりになった !!! ほんとに哀しいです。

若い二人(北原謙二)



北原 謙二(きたはら けんじ、1939年(昭和14年)10月8日 - 2005年(平成17年)1月26日)は、日本の歌手、俳優。本名は北原 謙太郎(きたはら けんたろう)。


人物・来歴

大阪府出身。ジャズ喫茶で歌っていた事が縁で、鈴木英治とブルー・カウボーイズのメンバーとして上京。その後、コロムビアレコードのディレクターにスカウトされ、1961年(昭和36年)歌手デビュー。

NHK紅白歌合戦に2回出場している。
1991年(平成3年)3月に高血圧症脳内出血で倒れたが、左半身麻痺と闘いながらリハビリを重ね、3年後に復帰。その後は全国各地の福祉施設への慰問活動などを積極的に行っていたが、2005(平成17)年1月26日午後10時1分、虚血性心疾患のため都内の病院で死去。

代表曲

日暮れの小径(作詞:へてな・たつ/作曲:鈴木英治、1961年、デビュー曲)

忘れないさ(作詞:三浦康照/作曲:山路進一、1961年)
若いふたり(作詞:杉本夜詩美/作曲:遠藤実、1962年)

初恋は美しくまた悲し(作詞:三浦康照/作曲:市川昭介、1963年)
若い明日(作詞:石本美由起/作曲:遠藤実、1963年)

若い君若い僕(デュエット:谷由美子/作詞:三浦康照/作曲:遠藤実、1964年)
北風(North Wind)(作詞・作曲:Rod Morris/訳詞:服部レイモンド、1964年)

潮騒(作詞:三浦康照/作曲:古賀政男、1964年)
ふるさとのはなしをしよう(作詞:伊野上のぼる/作曲:キダ・タロー、1965年
) ヒット曲として知られる。2004年に山本譲二によりカバーされた。


若い太陽(作詞:三浦康照/作曲:遠藤実、1965年)
夢で泣け(作詞:三浦康照/作曲:船村徹、1966 - 7年)(Wikiより)


あちこち「SYOWA」 252 「3人家族」 栗原小巻/竹脇無我

2017-11-26 23:53:55 | 日記
3人家族。そういうドラマあったかなあ・・・。それはともかく栗原小巻の初々しい姿を思い出しています。現在もご活躍ですね。私は「愛の讃歌-ピアフ」という舞台をかつて拝見しました。存在感のある素晴らしい舞台でした。

3人家族 Original Song by あおい輝彦


『3人家族』(さんにんかぞく)は、TBS系列の「木下恵介アワー」の第4弾で、1968年 - 1969年に放送されたテレビドラマ。シリーズ中、歴代No.1の最高平均視聴率の作品となった。優秀映画鑑賞会推薦。

概要

松竹で木下惠介に師事していた山田太一の、初の連続ドラマ単独脚本作品といわれる。
ロケ地は国鉄横浜駅、東急東横線妙蓮寺駅、横浜港、山下公園、日本大通り、御殿場、日比谷公園、野毛山動物園、江ノ島など1968-69年当時の実景にて行われ、また、主だったセットは松竹大船撮影所にて組まれ撮影された。
矢島正明の、登場人物の心理を描写するナレーションは、アメリカのテレビドラマ「逃亡者」からヒントを得ている。
柴田家は、横浜・妙蓮寺の一軒屋、稲葉家は横浜・野毛のマンションの設定。

あらすじ

偶然、横浜駅発の朝の通勤電車で見かけた同世代の会社員の柴田雄一と稲葉敬子。互いの名前も知らず、一目惚れをし合った二人は、満員電車で言葉を交わしたことでお互いの会社が丸の内近辺(雄一は田村町、敬子は霞ヶ関)にあると気付くが、それ以上の事は知らないままだった。

一方、横浜では予備校の申込みをきっかけに雄一の弟・健と敬子の妹・明子が知り合う。翌日の江の島へのデートの日、姉の敬子が一緒に付いてきたため、健が撮った写真で弟の友人の姉が一目惚れの相手であることに気づき、一度会いたいと申込む。雄一は会社の海外留学を目指し、今は恋人は必要ないと考えていたが、敬子とデートを重ねる内に交際するように。明子は健に思いを寄せるが健は高校の同級生・洋子に片思い中。しかしクリスマスに洋子にふられてしまい、その直後に明子が自宅のクリスマスパーティに誘ったことがきっかけとなり交際に発展する

そして、13年前に夫が蒸発した姉妹の母・キク、妻に先立たれた定年退職前後の会社員である兄弟の父・耕作(どちらも3人家族)を含めた家族ぐるみの親交も生まれていく。

キャスト

柴田雄一:竹脇無我
稲葉敬子:栗原小巻

柴田家

柴田健:あおい輝彦(雄一の弟)
柴田耕作:三島雅夫(雄一と健の父)

稲葉家

稲葉明子:沢田雅美(敬子の妹)
稲葉キク:賀原夏子(敬子の明子の母)

その他

沢野敬:中谷一郎(敬子に思いを寄せる写真家)
ハル:菅井きん(耕作に恋心を抱く柴田家の家政婦)
須藤兼一:森幹太(キクの元夫、姉妹の父親)
洋子:川口恵子(薬局の娘、健の片思い相手)
小林:近藤洋介(雄一の先輩社員)
高松:菅貫太郎(商事会社の営業課員)
佐藤:遠藤剛(雄一の同僚)
通信部長:武内亨(雄一の上司)
健の友達:鶴田忍
中山:東野孝彦(雄一の友人)
明美:片山真由美(中山の恋人)
敬子の上司:永井智雄
旅行代理店の客:川上夏代、三戸部スエ
沢野の元恋人: 川口敦子 (敬子に嫉妬し、職場を訪れる)
山下公園の青年:林家珍平
予備校の窓口係:関口銀三
電話工事業者:矢野宣、荘司肇
吉本 : 江幡高志
ご隠居さん:吉田義夫
ほか
ナレーター:矢島正明


栗原小巻

栗原 小巻(くりはら こまき、1945年3月14日 - )は、日本の女優。本名同じ。東京都世田谷区出身。父は劇作家の栗原一登。

人物・来歴

日本大学藝術学部で父の同僚だった三浦朱門によると、父は「二人でも食いかねているのに、子供が生まれる。困ったな、困り切った、というので小巻という名前にした」という。

当初はヴァイオリニストになろうとしていたが断念。桐朋女子を経てバレリーナを目指し東京バレエ学校に通っていたが、演技の基礎が必要と教師に言われ同校を卒業した後、1963年に劇団俳優座に入った。俳優座花の15期生の一人。1968年の『三人姉妹』(チェーホフ)で注目を浴び、以降、舞台を主軸に活動。

テレビドラマでは、1964年に『虹の設計』にてデー。1967年の『三姉妹』を皮切りに、『樅ノ木は残った』『黄金の日日』などの出演で知られる。

映画では、高橋治監督の『ゴメスの名はゴメス』(1967年)で初出演。1972年の『忍ぶ川』は代表作の1つで、加藤剛相手に大胆なベッドシーンを見せたことで有名(毎日映画コンクール女優演技賞)。1970年代には『戦争と人間』『いのちぼうにふろう』『サンダカン八番娼館 望郷』『八甲田山』と出演を重ねた。『男はつらいよ』シリーズでは、『新・男はつらいよ』『柴又より愛をこめて』にてマドンナ役を演じている。

70年代に入ると舞台女優としての評価も高まり、多くの賞を受賞する。

ロシア(旧ソ連)との繋がりも深く、1981年には日本で初めてソ連の演出家(A・エーフロス)を招いて行った舞台公演『櫻の園』に主演した。日ソ合作映画にも主演(『モスクワわが愛』(1974年)、『白夜の調べ』(1978年)、『未来への伝言』(1990年))。『未来への伝言』では企画も担当した。読書アンケートでも、愛読書の一つにレフ・トルストイ『戦争と平和』を挙げている。
イギリスの作曲家、ベンジャミン・ブリテンの作曲の「青少年のための管弦楽入門」の年少者向けクラシック音楽の解説も行う。(楽器の紹介をしながら作品のナレーションを行う日本語版作品)

1991年の中国映画『乳泉村の子』(謝晋監督、中国題名『清涼寺鐘聲』)にも主演し、日本中国文化交流協会代表理事も務めるなど中国との繋がりも深い。

クラシック・バレエを特技とし、映画の中でもその姿が見られる。また、ダークダックスと共にロシア・ソ連の歌を紹介するテレビ番組に出演したことがあり、ソロでLPレコードを発売したこともある。

玄人受けする演技力と現代的美貌から熱狂的な男性ファンが多く、吉永小百合ファンが「サユリスト」と呼ばれたのに対し、栗原小巻ファンは「コマキスト」と呼ばれた(奇しくも吉永とは生年月日が1日違い)。アイドル的存在として人気を二分したが、中年以降、吉永が映画を主軸に据えているのに対し、栗原は舞台を主軸としている。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 251 沓掛時次郎~浮名の渡り鳥 橋幸夫

2017-11-25 16:24:43 | 日記
♪ 浅間三筋の煙の下にぁ 生まれ故郷もあるって言うに・・・

私はこの歌詞の意味がやっと分かりました。浅間山の裾野の沓掛。今は中軽井沢。そこに先日行きました。タクシーの運転手さんが「ここが沓掛ですよ。ここの女は昔売られてしまったんですね」と寂しそうに呟きました。私はもう何も言えなくなりました。

この映画を見ていると自然と涙が出てきました。

沓掛時次郎~浮名の渡り鳥 橋幸夫




『沓掛時次郎』(くつかけときじろう)は、長谷川伸が1928年に発表した戯曲。『騒人』7月号に掲載された。後年、8度にわたり映画化された。また、テレビドラマ化もされた。2010年には漫画化もされている。

1961年の映画

1961年6月14日公開。製作は大映。

キャスト

沓掛時次郎:市川雷蔵

おきぬ:新珠三千代

おろく:杉村春子
六ツ田の三蔵:島田竜三
太郎吉:青木しげる
聖天の権威:稲葉義男
八丁畷徳兵衛:志村喬
赤田三十郎:千葉敏郎
溜田の助五郎:須賀不二男
おとわ:滝花久子
源右衛門:荒木忍
玄庵:志水元
大野木の百助:村上不二夫
苫屋の半太郎:寺島貢
磯田の鎌吉:木村玄
政吉:高倉一郎

スタッフ

監督:池広一夫
脚本:宇野正男、松村正温
原作:長谷川伸



中村錦之助主演の映画 

『沓掛時次郎 遊侠一匹』(くつかけときじろう ゆうきょういっぴき)は、1966年(昭和41年)4月1日公開の日本映画である。加藤泰監督、東映京都撮影所製作、東映配給。カラー映画(フジカラー)、シネマスコープ、8巻 / 2,472メートル(1時間30分)。

あらすじ

旅烏の時次郎は、自分を慕ってついてくる身延の朝吉とともに気ままな旅を続けていたが、草鞋を脱いだ佐原の勘蔵一家と牛堀の権六一家の縄張り争いに巻き込まれそうになる。かつて飯岡助五郎と笹川繁蔵の争いに一宿一飯の義理で助っ人を申し出た時次郎は、多くの人間を斬り殺したことでやくざに嫌気がさしており、勘蔵の娘・お葉の懇願を振り切って立ち去るが、男を上げたい朝吉は時次郎を罵り、単身牛堀一家に殴りこんで返り討ちにあってしまう。

朝吉の供養を済ませた時次郎は、渡し舟で子供を連れた女から真っ赤な柿を手渡され、しばしその母子と旅を共にして悲しみを癒す。その後訪れた鴻巣では鴻巣金兵衛一家のいざこざに巻き込まれる。もう人を斬りたくない時次郎は早々に立ち去ろうとするが、鴻巣一家と対立していた中野川一家最後の生き残りである六ツ田の三蔵を殺せば一宿一飯の義理は問わないと金兵衛に直接頼まれて、三蔵を殺しに行くことになる。

三蔵を一騎討ちで討ち取った時次郎は、今わの際の三蔵から妻と子を連れて、妻のおきぬの故郷である熊谷の伯父の元へと送り届けてほしいと頼まれる。ところが、その家族のところへ行ってみると、三蔵の妻子おきぬと太郎吉とは、渡し舟で柿を手渡してくれ旅を共にした母子だと知って、時次郎は愕然とする。時次郎は涙ながらに自分が一宿一飯の義理で三蔵を斬ったと苦しい告白をした。熊谷に着いてみるとおきぬの伯父は年貢の厳しい取り立てを苦にして首をくくりすでにこの世になく、身寄りを失ったおきぬ母子に時次郎は「自分の故郷、信州・沓掛へ行こう」と誘う。しかし、時次郎と旅をするうちに彼に心を許し、いつしか恋心さえ抱くようになってしまったおきぬは、亡き夫への思いとの板挟みを苦にして時次郎の元から消えてしまう。

一年後、真冬の高崎宿で、悲嘆にくれる時次郎は、外で門付の母子が弾く追分節の三味線を聞いて表に飛び出し、今は流れ者の門付にまで身を落としているおきぬ母子と再会を果たす。その追分節は、かつて別れる前日におきぬが時次郎を慰めるために歌った、時次郎の故郷の唄だった。こうして二人は再会するが、おきぬは肺を病んでおり、床に伏してしまう。おきぬを助けるためには高価な薬が必要であり、その金を稼ぐために時次郎は一度は捨てた刀を再度手にとって、もう一度だけと草鞋を脱いだ八丁徳一家の喧嘩の助っ人をする決意をするのだった。

やがておきぬが病で亡くなり、その子どもを引き取って旅に出る時次郎を追ってくる男がいた。その男は搾取され続ける百姓に嫌気がさしてヤクザ稼業に憧れていた。時次郎は「昌太郎さん、悪いことは言わねぇ。百姓に戻りなせぇ。やくざってぇのはねぇ、虫けらみたいなもんさ」と宥めるが襲われ、彼を切ろうとしたが子どもが必死で止め、時次郎は殺すことを思いとどまり今度こそ刀を捨てた。

  (Wikiより)