雰囲気がいい。キャリアを感じます。
どうぞこのまま
丸山 圭子(まるやま けいこ、1954年5月10日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身のシンガーソングライター、作詞作曲家。洗足学園音楽大学客員教授。
人物
1954年5月10日、埼玉県浦和市岸町(現:さいたま市浦和区)出身。
3歳からピアノも習っていたが、中学に入ってフォークソングが盛り上がりをみせていく中、友達のギターを借りて、ジョーンバエズから始まって、五つの赤い風船、ベッツィー&クリスなどを弾き語る。その頃はまだ音楽よりもスポーツが中心の毎日だった。
高校に入り、あるときにどうしてもギターが欲しくなり、丸井でローンで買ったギターを自宅に持って帰ったら、母親はびっくりしたという。友達3人で「サンデースプリング」というバンド名で練習していくも、当時はフォークギターを持つだけでも、問題視される時代で、職員室に呼ばれたという。カバー中心で練習して、遊びでオリジナル曲を作る程度の活動だった。そんな中、ニッポン放送主催「VIVA唄の市」に出場するも、落選して諦めていたところ、「再度挑戦しませんか?」というハガキが来た。受験について悩んでいた時期で、バンドも活動していなかったので、個人で当時流行っていたフランス語の「ただ愛に生きるだけ」でオーディションを受ける。次の予選までの間に、「オリジナルで出たほうがいい」というアドバイスから、真剣に曲作りをして、「しまふくろうの森」を完成させる。1972年7月の予選当日は雪が降って、風邪を引いて体調も悪く、会場では友達がたくさん来てくれて、会場票の影響もあって入賞したのかと本人は思っていたが、実際は曲がよかったとの評価だった。そのまま全国大会でも入賞。
同年11月、エレックレコードよりアルバム「そっと私は」、シングル「心の中の」を出す。その後、ピピ&コットに参加。解散後は、キングレコードに移籍し、1976年3月に「ひとり寝のララバイ」をリリース。同年7月にリリースした「どうぞこのまま」が翌年にかけてロングヒットした。
1993年に二人目の子どもを授かった辺りは、夫の佐藤準も忙しい時期で、子育てと仕事の両立を目指すもうまくいかず、そういった関係から夫婦中もぎくしゃくして、離婚調停が続いていた。1995年頃、ひどい貧血と、月経の際に大量の出血があるなど続き、地元の病院で診てもらったら、卵巣嚢腫であることがわかった。即入院の上、手術を受ける。無事に手術は終わり、入院期間中に知り合った同室の女の子に音楽を教えることになり、そこから口コミで生徒が増えた。父も母も教育関連の仕事をしており、そこで育った環境から、「教育者の遺伝子」が覚醒したのかもしれない。
2009年12月31日、『第42回年忘れにっぽんの歌』(テレビ東京)に生出演。
その後アーティスト仲間からの誘いで、音楽専門学校の講師に就任し、洗足学園音大の客員教授として、作詞作曲などを講義する。2018年にはアルバム「レトロモダン~誘い」を発売し、ライブ活動も行っている。
(「Wikipedia」より)
どうぞこのまま
丸山 圭子(まるやま けいこ、1954年5月10日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身のシンガーソングライター、作詞作曲家。洗足学園音楽大学客員教授。
人物
1954年5月10日、埼玉県浦和市岸町(現:さいたま市浦和区)出身。
3歳からピアノも習っていたが、中学に入ってフォークソングが盛り上がりをみせていく中、友達のギターを借りて、ジョーンバエズから始まって、五つの赤い風船、ベッツィー&クリスなどを弾き語る。その頃はまだ音楽よりもスポーツが中心の毎日だった。
高校に入り、あるときにどうしてもギターが欲しくなり、丸井でローンで買ったギターを自宅に持って帰ったら、母親はびっくりしたという。友達3人で「サンデースプリング」というバンド名で練習していくも、当時はフォークギターを持つだけでも、問題視される時代で、職員室に呼ばれたという。カバー中心で練習して、遊びでオリジナル曲を作る程度の活動だった。そんな中、ニッポン放送主催「VIVA唄の市」に出場するも、落選して諦めていたところ、「再度挑戦しませんか?」というハガキが来た。受験について悩んでいた時期で、バンドも活動していなかったので、個人で当時流行っていたフランス語の「ただ愛に生きるだけ」でオーディションを受ける。次の予選までの間に、「オリジナルで出たほうがいい」というアドバイスから、真剣に曲作りをして、「しまふくろうの森」を完成させる。1972年7月の予選当日は雪が降って、風邪を引いて体調も悪く、会場では友達がたくさん来てくれて、会場票の影響もあって入賞したのかと本人は思っていたが、実際は曲がよかったとの評価だった。そのまま全国大会でも入賞。
同年11月、エレックレコードよりアルバム「そっと私は」、シングル「心の中の」を出す。その後、ピピ&コットに参加。解散後は、キングレコードに移籍し、1976年3月に「ひとり寝のララバイ」をリリース。同年7月にリリースした「どうぞこのまま」が翌年にかけてロングヒットした。
1993年に二人目の子どもを授かった辺りは、夫の佐藤準も忙しい時期で、子育てと仕事の両立を目指すもうまくいかず、そういった関係から夫婦中もぎくしゃくして、離婚調停が続いていた。1995年頃、ひどい貧血と、月経の際に大量の出血があるなど続き、地元の病院で診てもらったら、卵巣嚢腫であることがわかった。即入院の上、手術を受ける。無事に手術は終わり、入院期間中に知り合った同室の女の子に音楽を教えることになり、そこから口コミで生徒が増えた。父も母も教育関連の仕事をしており、そこで育った環境から、「教育者の遺伝子」が覚醒したのかもしれない。
2009年12月31日、『第42回年忘れにっぽんの歌』(テレビ東京)に生出演。
その後アーティスト仲間からの誘いで、音楽専門学校の講師に就任し、洗足学園音大の客員教授として、作詞作曲などを講義する。2018年にはアルバム「レトロモダン~誘い」を発売し、ライブ活動も行っている。
(「Wikipedia」より)