とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」630 雨音はショパンの調べ 小林麻美 with C-POINT

2019-04-30 01:06:25 | 日記
この映像・音響は編集が素晴らしく、傑作の動画だと思います。「1977年のパルコCM「淫靡と退廃」で、細い体や暗さが受け入れられた。」。この表現は本人にとって本意ではないと思われますが、媚びていないということを理解すると何とか受け入れられます。とにかく異質。だからこそ輝いているのです。


雨音はショパンの調べ 小林麻美 with C-POINT



小林 麻美(こばやし あさみ、1953年11月29日 - )は、日本のモデル・元歌手・元女優。本名、田邉 稔子(たなべ としこ)。旧姓、小林。
東京都大田区大森出身。普連土学園中学校・高等学校卒業。夫は田辺エージェンシー社長の田邊昭知。


来歴・人物

生家は大森新地近くにあり、父親は国鉄の信号機などを設計する技術者、母は美容師で共働きであった。7歳違いの姉がいる。15歳の時、骨髄炎から急性肝炎を併発して1年間入院療養をする。高校一年の時、少女雑誌のモデルにスカウトされ、2、3回その仕事をこなした後、1970年、ライオン歯磨のコマーシャルガールに選ばれる。しかしこの時、テレビコマーシャルの撮影でスキーを行った時に複雑骨折してしまい、長期休業。小林をあてにしてのれん分けまでしたその事務所は、1ヶ月で消滅してしまう

1972年、18歳の時、東芝レコードから「初恋のメロディー」で歌手デビュー。同期に麻丘めぐみ、五十嵐じゅんら。「初恋のメロディー」はオリコン18位を記録したが、当時のアイドルに多く求められた、明るく無邪気に笑顔を見せる天真爛漫さとは対極にあるような、殆ど笑顔を見せずにうつむき加減、猫背で気だるそうに歌う小林の姿は異質にも映り、暗い印象を持たれた。1976年までに年に1枚程度のシングルをリリースするが売り上げは伸びず、アイドル歌手としては不向きとみた事務所の方針で歌手活動は自然消滅となる。
小林の名が浸透したのは1970年代後半、資生堂、パルコなどのCMに起用されてから。特に1977年のパルコCM「淫靡と退廃」で、細い体や暗さが受け入れられた。

その後に所属した主な芸能事務所は、田辺エージェンシー。
1984年に8年ぶりに歌手として、海外のカバー曲「雨音はショパンの調べ」をリリースし、大ヒット曲となった。だが当時、歌番組で歌ったことは一度も無かった。但し小林本人はラジオ番組で「私自身は全く断ってないのよ。テレビで歌いたかったのに」と主張したことがある。

公称167cmと長身で華奢と言えるほど細い身体、ゆるくウェーブのかかったワンレングスの長い髪、溌剌と話さず物静かで寡黙、陰のある表情が印象的で、そのアンニュイな雰囲気が都会的と言われて人気を得た。 都会的でファッショナブルな女優という認知であったため、『真夜中の招待状』ではタイトルシーンを含めて計27回、一分の隙もないコーディネートで登場している。
1991年、所属していた事務所の社長の田邊昭知と結婚、家庭に入るため芸能活動から引退した。

2016年7月20日発売のファッション誌「Kunel」9月号(マガジンハウス)の表紙を突如飾り、同誌で新連載「伝説のおしゃれミューズ」をスタートさせる事となり、25年ぶりに芸能界へ復帰することとなった。 (「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」629 りんごの花咲く町

2019-04-28 00:58:51 | 日記
何と、こういう映像があったとは。感激です。「愛染かつら」の主人公の名前を貰ったんですね。いや、ほんとに相応しいお方です。・・・昭和ですね。


りんごの花咲く町



高石 かつ枝(たかいし かつえ、1946年(昭和21年)7月18日‐)は昭和期の歌手。本名伊藤 宏子(旧姓山崎 宏子)。


来歴

神奈川県横須賀市出身。

幼少の頃より童謡歌手としてテイチクで活躍し、1960年(昭和35年)より万城目正歌謡音楽院で本格的に歌謡曲を勉強した(ちなみに、万城目正は、高石のデビュー曲「旅の夜風」の作曲者である)。また、小学校5年生のとき、ある服飾雑誌の少女ファッション・モデルに応募して合格、このときの合格者の中に、小学校4年生だった和泉雅子がいたという。

1962年(昭和37年)、松竹「愛染かつら」の再映画化に際し、ヒロインの名前をとった歌手「高石かつ枝」募集に合格。同映画主題歌「旅の夜風」で日本コロムビアからデビュー。この後、同曲でコンビを組んだ藤原良と数枚のデュエット曲をリリースしている。
1963年(昭和38年)、白川由美主演の東宝映画「林檎の花咲く町」に女子高校生の役で出演し、人気を確立した。彼女が歌う同名の主題歌もヒットし、年末の第14回NHK紅白歌合戦に初出場した。

この年、華々しくデビューした舟木一夫が学生服で出場、高石かつ枝もセーラー服で出場して話題になった。 この第14回紅白は映像が現存し、高石の歌唱シーンも含め全編がNHKBS-2で再放送されている。
この年、十和田湖の乙女の像の完成にちなんで作られた詩人・佐藤春夫による「湖畔の乙女」のレコード化が10年目にして企画され、高石かつ枝によりレコーディングされた。佐藤春夫自ら指導するなど、コロムビアも力を入れた企画であったが、高石のクラウン移籍問題で中絶。その後、「湖畔の乙女」は、本間千代子によりリリースされた。又、舟木一夫とのデュエットで「東京新宿恋の町」もレコーディング予定されていたが、同移籍問題で中止となり、結局舟木一夫単独で吹込まれ1964年(昭和39年)4月コロムビアより発売されている。

1964年(昭和39年)2月、北島三郎、五月みどり、小林旭、守屋浩らとともに新興会社・日本クラウンに引き抜かれて移籍。日本クラウン在籍の1年余の期間に16枚のシングルをリリースした。これは、同年デビューした西郷輝彦のシングル発売枚数を上回り、北島三郎と並ぶ実績である。だが、1965年(昭和40年)6月、当時政財界をゆるがせた疑獄事件吹原産業事件の渦中にあった吹原社長から自宅の提供や宝石の贈与、レコード5000枚の買い取りなどを受けていたことが発覚した。6月23日、日本クラウンは契約破棄を通告し[7][8]、高石は一時芸能界から追放された。

その後、テイチクに移り1965年(昭和40年)11月から1968年(昭和43年)9月にかけて十数枚のシングルをリリースしたが、目覚しいヒットには恵まれなかった。1968年(昭和43年)、設備機器メーカー(現株式会社チャンピオン)の御曹司だった伊藤祐吉と結婚、芸能界を引退した。伊藤はプロ野球の王貞治の早稲田実業学校時代の同級生で、彼女のショーにゲスト出演した王の仲介があったといわれている。

長いブランクを経て、1980年(昭和55年)に「女絵」を、また、1984年(昭和59年)に中国残留孤児を歌った「風の子守唄」をコロムビアから出している。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」628 蒼い星くず  加山雄三

2019-04-27 05:14:19 | 日記
この曲は若くして死んだ弟が大好きな曲でした。・・・弟。今どこでどうしているでしょうか。たまらなく会いたくなりました。会ったらたくさん、たくさん謝りたいと・・・。姿を見せてくれよ。笑ってくれよ。


蒼い星くず  加山雄三



加山 雄三(かやま ゆうぞう、1937年4月11日 - )は、日本の俳優、シンガーソングライター、タレント、ギタリスト、ウクレレ奏者、ピアニスト、画家。本名は池端 直亮(いけはた なおあき)。ニックネームは若大将。作曲家としてのペンネームは弾 厚作(だん こうさく)。血液型A型。


経歴

父は俳優の上原謙(池端清亮)、母は女優の小桜葉子(池端具子)。妹は池端亮子。母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視である。

神奈川県横浜市神奈川区幸ヶ谷の家に生後8か月まで、次の東京都大田区田園調布には1歳9か月までいた。幼少期に大腸カタルを患い病弱だったため、子煩悩な父・上原謙は息子のために、自然環境の良い神奈川県茅ヶ崎へ引っ越した。加山が覚えているのは、この茅ヶ崎の家からである。海と茅ヶ崎駅の中間辺りにあって平屋の日本家屋だった。お手伝いさんは必ず2人はいた。茅ヶ崎市の実家には31歳で結婚するまで過ごした。

茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校、茅ヶ崎市立第一中学校、慶應義塾高等学校から慶應義塾大学法学部政治学科へ進み卒業後の1960年春に東宝へ入社。同年『男対男』で映画デビュー。当時、同じく有楽町にあった渡辺プロにも一時期在籍。

1961年、「夜の太陽」で歌手デビュー。NHK『NHK紅白歌合戦』出場17回。代表曲多数。後のフォークソングやニューミュージック全盛時代に先立つ、日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在であり、また日本ではじめて多重録音を手がけた歌手でもある。

ソングライターとしてのペンネームは、加山が尊敬している團伊玖磨と山田耕筰を足して2で割った弾厚作(だんこうさく=ドン・コサック)であり、同名義で作曲(稀に作詞もある)している、日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のテーマソングである「サライ」・「勇気のカタチ 〜私を変えてくれたあなたへ〜」は谷村新司が作詞し、加山が作曲したものである。

1964年6月10日、日刊スポーツに『波乗り日本第一号 加山雄三 サーフボード作る』と載る。
1965年12月に映画『エレキの若大将』主題歌として発売された「君といつまでも」は350万枚の大ヒットになり、1966年の第8回日本レコード大賞の大本命とされていたが、結局大賞は同曲に比べ売り上げ面で劣る橋幸夫の「霧氷」が受賞することとなり、「君といつまでも」は特別賞に留まる。

俳優としてはそれまでの宝田明に代わって東宝の若手看板スターとして大活躍、娯楽映画の『若大将シリーズ』が大ヒットし代表作となるが、一方で黒澤明、成瀬巳喜男、岡本喜八といった名匠の作品にも多く出演している。ブロマイドは女学生を中心に爆発的な売れ行きを記録した。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」627 大利根無情 三波春夫

2019-04-26 11:36:07 | 日記
田端義夫の「大利根月夜」(昭和14年)もいいですが、この曲も聴かせます。大友柳太朗の殺陣も素晴らしいです。昔の時代劇全盛時代を今懐かしく思い出しています。

大利根無情 三波春夫


大利根無情(おおとねむじょう)は、1959年6月に発売された三波春夫のシングル。


概要

天保15年(1844年)8月6日、下総国笹川(現在の千葉県香取郡東庄町笹川)の大利根河原で起きた大利根河原の決闘で飯岡助五郎との大利根河原の決闘に笹川繁蔵方の助っ人として参加し、ただ一人闘死した平手造酒を題材とした楽曲である。

本楽曲が発売された1959年のテイチクの歌謡曲(流行歌)レコード売上で1位を記録した。

NHK紅白歌合戦では、本楽曲が発売された当年は歌唱されなかったものの、紅白20回記念の「名曲紅白」として開催された1969年の「第20回NHK紅白歌合戦」で初めて歌唱され、その後も1973年の「第24回NHK紅白歌合戦」、1984年の「第35回NHK紅白歌合戦」の合計3回歌唱された。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」626「コーヒーショップで」 あべ 静江

2019-04-22 23:39:24 | 日記
「両親は結婚を反対されて駆け落ちした。」何と、こういうイメージの美人歌手誕生までにそういう両親の波乱万丈の人生があったのですね。私はこういう清潔な印象の歌手に魅かれていました。弁論部 !? いやいや、そういう強い一面もあるのですね。初めて知りました。


「コーヒーショップで」 あべ 静江




あべ 静江(あべ しずえ、本名:阿部 静江、1951年11月28日 - )は、日本の歌手、女優。
三重県松阪市中町出身。血液型はA型。三重高田高校、東海学園女子短期大学(現在の東海学園大学短期大学部)卒業。母方の高祖父は伊勢新聞創業者の松本宗一、曽祖父は代議士の松本恒之助。
社団法人日本歌手協会理事。現在の所属事務所はバルシカ。ニックネームは『しーちゃん』


略歴

実家は中町商店街(現よいほモール)の阿部小間物店。大正元年創業で羽織紐、帯揚げ、帯締めなどの和装小物、化粧品などを扱っていた。阿部家の菩提寺は松阪市中町の曹洞宗龍松山養泉寺。父親はラジオ三重の専属ミュージシャン。ヴァイオリン、ピアノ、ギター、アコーディオンなどを演奏出来た。母親は東海ラジオの専属歌手。NHKのど自慢大会で優勝してデビューする筈だったが静江を身篭ったので断念した。両親は結婚を反対されて駆け落ちした。小学生時代から子役として名古屋のテレビ局でドラマに出演していたが、中学時代にいったん芸能界から退く。

「社会勉強になる」という祖父の薦めで三重県立松阪工業高等学校の定時制に進学。学校は楽しかったが生活パターン等の事情から8ヶ月で高田高校に編入学した。高田高校では校内弁論大会で生徒の覇気のなさを訴えたのをきっかけに弁論部に誘われ、その活動に熱中した。他校に出向いた弁論大会では、ヤジに応酬して制限時間を過ぎても話し続けたために、力づくで演壇からおろされたこともあったという。

東海学園女子短期大学在学中に東海ラジオの人気DJとなり、1973年5月25日、“フリージアの香り”のキャッチフレーズで、キャニオンレコードから『コーヒーショップで』で歌手デビュー。同デビュー曲はオリコンでベスト10内にランクされ、自身最大のヒット曲となった。同年12月31日放映の第15回日本レコード大賞では同曲で新人賞を受賞した。

1973年9月25日の『みずいろの手紙』も続けてヒット、翌1974年12月31日には、当曲で『第25回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。シングル16枚、アルバム8枚を発表した。
映画『トラック野郎・爆走一番星』、テレビドラマ『真夜中のあいさつ』や『青春ド真中!』でのマドンナ(ヒロイン)役や、『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』では千葉真一の恋人役を演じるなど女優としても活躍した。ギャグ漫画『がきデカ』の主要キャスト「あべ先生」こと「あべ美智子」の役名・キャラクター設定はあべがモデルである。

2007年8月には、NHK総合テレビ放映の『思い出のメロディー』で、同年8月1日に死去した作詞家・阿久悠を追悼し『みずいろの手紙』を歌唱。ほか2010年4月20日には、同じくNHKテレビの『NHK歌謡コンサート』でデビュー曲の『コーヒーショップで』を披露するなど、懐メロの歌番組にも度々出演している。

現在では映画、舞台、テレビ、CM等で活躍中。また、あべの出身地である三重県松阪市での地域イベントにも積極的に参加している。
かなりのゲームフリークで、Nintendo Switchを始めとしたゲーム機やその関連の充電器を常に持ち歩いている。(「Wkipedia」より)