とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

源九郎判官義経

2010-08-13 23:42:16 | 日記
源九郎判官義経




 歴史上義経のように謎や伝説の多い人物は珍しい。にもかかわらずその魅力はいよいよ深まるばかりである。NHKの大河ドラマを観ていても私の血が騒ぐ。私はふとその訳を考えることがある。
 夏草や兵どもが夢の跡
芭蕉は奥州平泉の高舘から四囲の風景を望んだ。そのとき込み上げてきた感慨に涙しながらこの一句を成した。高舘は義経が自刃した所である。「兵ども」は義経主従を指している。しかし、「ども」という突き放した表現が私には気にかかる。身分や肩書きを捨てた芭蕉の心の底に戦を厭う気持ちが潜んでいたかもしれない。
 では、義経のその「夢」の究極はいかなるものであったか。これはやはり武士(もののふ)としての功名に関わるものであったに違いない。兄頼朝を凌いで天下人になることだったのか。それは知る由もない。しかし、いずれは武蔵坊弁慶とともに衣川の合戦で最期を迎える。しかも庇護されていた藤原氏の軍勢を敵に迎えつつ。無念極まりない。その末路をだれも知っている。だから、ドラマや歌舞伎の中でいかに人間的な魅力を備えていても、いかに目覚しい新戦法で勝ち戦を遂げても、頼朝に付き従う凛々しい武者姿に、そこはかとない陰翳を私たちは感じる。非業の死という悲劇性を背景にしてたち現れているからこそ輝いて見えるのである。
 私たちには悲劇を好む深層があるかもしれない。夢半ばに死す。これを潔しとする心が。
蝦夷の地に逃れたという伝説をもし肯定すれば、義経像は地に堕ちてしまう。
                                  (2005年投稿)

 

バナナとパイン

2010-08-13 23:37:05 | 日記
バナナとパイン



 戦中産まれで戦後育ちの私は、食べ物が乏しい時代に育った。だから、初めてバナナを食べたときのことは忘れることが出来ない。終戦直後だった。父の知人が奇妙な果物を持ってきてくれた。黄色く細長い棒のような形をしていた。皮をむいてくれた。私がかじると、「おいおい、一遍に食ったらたらいけんじ。ちょんぼしわて(少しずつ)、なめーやに食うだわや(舐めるように食べなさいよ)」という言葉。言われた通りに私は食べた。ねっとりしていて、甘かった。
 パイナップルは確か父が二度目の応召から帰還するときに土産に持って帰ってくれたのでないかと思う。シロップ漬けの缶詰で、缶切りで開けるとひまわりのような形の輪切りにした果肉が出てきた。綺麗な色とその形だけが記憶の奥に残っている。そのときどんな味がしたか、私はよく覚えていない。よくぞそういう時期に食べられたものだと思っている。
 ところが、六十の坂を越した今の年齢になっても、それらの果物が栽培されている所を見たことがない。
 バナナは一時芭蕉ではないかと思っていた。花の後で小さい実が重なってぶら下がっているのを見て、島根のような土地は寒いから大きくならないのだと思っていた。パイナップルは泰山木の実だと信じていた。小学校の前庭に大木があり、初夏になると白い大きな花が咲いていた。散ると実が小さいパイナップルのような形で残った。甘い香りがした。これも寒いから大きくならないのだと思っていた。
 バナナとパイン。今ではそんなに珍しい果物ではなくなった。食べても子どものときのような喜びが湧かない。これは哀しいことである。しかし、死ぬまでに一度だけたくさん栽培されている所を見たいものだと思っている。そのときどんな気持ちが湧くだろうか? いや、その前に私はその土地に行くことが出来るだろうか? (2005年投稿)

古物への愛着

2010-08-13 12:07:53 | 日記
古物への愛着



 私の身辺には三十年以上も使っている愛用品が幾つかある。ラジカセ、扇風機、カメラなどである。何でも気に入れば使い続ける。車も買えば十年間は必ず乗ることにしている。この性癖は販売店泣かせでもある。
 中でもカメラは数年前に下の娘に渡すまで五十年以上も家にあった。K社の蛇腹式小型カメラで、小学校のときに親戚の人から貰ったものである。だから同じカメラで子どもの頃から撮り続けた写真が、長い歴史を物語ってくれるのである。
 朝晩拝む仏壇には、父、母、祖母の小さい遺影が飾ってある。これも実家の中庭から子どもの頃私が写したものである。ある日その三枚を組み合わせて見ていると、在りし日の実家の縁側とそれに続く廊下が見事に再現されていることに気づいた。新築したために昔の面影を失った懐かしいかつての我が家のたたずまいをお陰で毎日見ている。
 今まで一番困ったのはフィルムだった。写真機がどんどん進化し、私が使っている機種の専用フィルムも作られなくなった。止む無く私はあるメーカーのカラーフィルムをケースに少し細工をして使っていた。それまではモノクロ写真だけ撮っていたので、カラーには対応するか不安だった。しかし鮮明なカラー画像の写真が撮れたのである。私は感激した。写真機はシンプルな蛇腹式に限ると私は今でも一人で思っている。
 機械はシンプルなほど長い期間使えるものである。経済発展に貢献している新製品の開発競争をすべて否定はしないが、長年の使用に耐える商品には使用者の情が乗り移る。ものを作る人たちにこの気持ちを伝えたいと切に思っている。(2005年投稿)

2010-08-13 12:03:17 | 日記




 今回のタイトル「鮎」は丹羽文雄が昭和七年『文藝春秋』に発表し文壇に名乗りを上げた作品名である。先日、訃報に接し、私はかなり落ち込んでしまった。享年百歳。その一生は想像に余りあるものがある。
 私は小倉での学生時代に『現代文学 丹羽文雄集』(芸文書院)でこの作品に出会った。昭和三十七年のことである。友達から薦められて、早く読みたいと密かに思っていた。
 主人公の津田信太郎がまだ幼い頃、母和緒は家出してある男の世話になっている。和緒は家庭を顧みない多情な女であった。ある日、その男の正妻が死んだのを契機にその男から入籍の話を持ちかけられ、和緒は津田に相談する。場所はとある料亭である。久しぶりの母子の対話がぎくしゃくした。挙句の果て煮え切らない津田の態度に母は激怒して体ごと息子にぶつかっていき、暴力の限りを尽くす。しかし津田は却ってその振る舞いに女性を感じる。そういう修羅場の余韻が残る座敷へ鮎の魚田(ぎょでん)が運ばれてくる……。
 その和緒は丹羽文雄の母がモデルと言われている。常に男との愛憎の渦中に身を置く作中の女の性(さが)は、取りも直さず母の生き方そのものであった。その母への思いを描くことが彼の仕事の核となっていた。また、「女形作家」の異名をとる作者の描く女性は、女性が描く以上に女性らしいとも言われていた。
私は「鮎」を読んでからというもの、小説のえもいわれぬ魅力の虜(とりこ)になった。私も書いてみたい。そういう気持ちがしきりに湧いてきた。そして、技法的なことは、これも丹羽文雄の名著『小説作法』(文藝春秋新社)に学んだ。
 「海棠(かいどう)と夕顔に雨が降っていた」。「鮎」の見事な書き出しである。「小説は、最初の一行が決定するといつても過言ではない」と右の作法書で述べている。その言葉から、もの書きの厳しさと心意気を私は今でも感じている。(2005年投稿)