とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」(番外) SARD UNDERGROUND「負けないで」LIVE TOUR 2021

2024-05-28 02:05:58 | 日記
ZARDではなくてSARD。ここに意味がある。Zをひっくり返すとS。私は謙虚さと受け取りました。それにUNDERGROUND。地下。かなりひねってますね。しかし、坂井泉水さんが3人になって生き返ったという気持がして感激しました。girlsbandというとプリプリを思い出します。ご活躍をお祈り申し上げます。

SARD UNDERGROUND「負けないで」LIVE from "LIVE TOUR 2021 [Cheers!]"


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

SARD UNDERGROUND

メンバー

神野友亜
(しんの ゆうあ) 2000年9月14日(23歳)
滋賀県彦根市 ボーカル

作詞
杉岡泉美
(すぎおか いずみ) 1999年12月15日(24歳)
兵庫県 ベース

コーラス
坂本ひろ美
(さかもと ひろみ) 1995年12月29日(28歳)
島根県松江市キーボード

コーラス
旧メンバー
赤坂美羽
(あかさか みゆう) 1999年(24 - 25歳) ギター
コーラス 2021年5月27日に体調不良により脱退。

サポートメンバー
車谷啓介(くるまたに けいすけ) / ドラム
岩井勇一郎(いわい ゆういちろう) / ギター

来歴
ZARDのトリビュートバンドで、バンド名は「ZARD」の「Z」を反転させたことから名付けられた。

2019年2月3日にZARDのカバーでの初LIVEを大阪で開催し、同年7月にZARDの「マイ フレンド」をカバーした音源が「東北・みやぎ復興マラソン2019」のイメージソングに起用され、9月18日にZARDのカバーアルバム『ZARD tribute』でデビュー。


2020年2月10日には1stシングル『少しづつ 少しづつ』が発売され、表題曲は読売テレビ・日本テレビ系テレビアニメ『名探偵コナン』のエンディングテーマとして2020年1月4日から7月18日までの計12話で使用されていた。また、J SPORTSで中継された『高校バスケ ウインターカップ2019』のテーマソングにZARDの「負けないで」と「マイ フレンド」のカバーが使用された。2020年6月3日には2ndシングル『これからの君に乾杯』が発売され、表題曲はMBS『+ music』4-6月のテーマ曲に起用されていた。

2021年5月28日、公式サイトにて、赤坂美羽が体調不良により2021年5月27日付で脱退、専属契約も解消したと発表した。あわせて、2021年7月に発売予定としていたアルバム『夏の終わりに…』についても、赤坂の脱退を理由に発売延期を発表した。以降の活動は、神野、杉岡、坂本の3人で活動する。

2021年6月1日にファンクラブ「SARD FUNCTION」発足を予定していたが、当日の14時過ぎに公式ツイッターより、発足を2021年7月1日以降に延期する旨がツイートされた。

2021年9月1日、1stオリジナルアルバム『オレンジ色に乾杯』発売(延期となっていたアルバム『夏の終わりに…』は発売中止の扱い)。

あちこち「SYOWA」805 Yellow Magic Orchestra -「君に、胸キュン。」 (Official Music Video)

2024-05-23 15:54:41 | 日記
坂本龍一。というと哲学者のようなミュージシャンという印象ですね。実に「教授」ですね。「ライディーン」はイーガールズが音をバックにパフォーマンスしました。三人だけどオーケストラみたいな莫大なエネルギーを発揮しますね。TMとはまた違うパワー集団です。尊敬しています。(敬称略)

Yellow Magic Orchestra -「君に、胸キュン。」 (Official Music Video)


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概要
Yellow Magic Orchestra(イエロー・マジック・オーケストラ)という名称は、細野が1970年代後半に提唱していたコンセプト「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも、黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)でも、そのどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱した「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド[3]」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。

当時、シンセサイザーを駆使した音楽としては世界的に、すでにドイツのタンジェリン・ドリームやイギリスのエマーソン・レイク・アンド・パーマー、日本の冨田勲などが有名であり、1978年のディーヴォの「頽廃的美学論」やクラフトワークの「人間解体」にも電子楽器の導入は明らかであった。そこでYMOは電子楽器・シンセサイザー音楽の路線をとりつつ東洋趣味をそれと分かる形で歌詞・アレンジ・コンポジションの全てに入れた。プロモーションで黄色人種経由であることを主張(強調)し、バラエティ番組やコント番組などにも多く出演し積極的に露出を増やしていき、認知度を高めた。ライブでは、電子的感覚を強調するためにヴォコーダーを通した声で挨拶する。

クラシック、レゲエ等様々な音楽性を柔軟に取り入れている反面、ポストパンク的なシンプルさや攻撃性とは無縁である。このためテクノ御三家の一角としてムーブメントを支えたP-MODELの平沢進は後年「あれはフュージョンだと思っていた[4]」と、自分たちの音楽性とは乖離があった旨を述べている。


テクノカット
YMOは、そのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライブでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その形状が中国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」(本多三記夫考案)と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげなし)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されている。

メンバー
YMOは、元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は流動的にする考えを持っていた[5]が、ライブなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自体は結成からメンバー死去までこの3人である。

下記の担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライヴ、テレビ番組ではこれら以外のパートを担当することもあった。坂本龍一は、ライヴでドラムスを披露する曲もある。

細野晴臣(エレクトリックベース・シンセベース・コーラス)
エイプリル・フール、はっぴいえんど、ティン・パン・アレーを経て、YMOを結成。YMOのリーダー・プロデューサーであり、シンセサイザーとコンピュータを用いるYMOの音楽スタイルを打ち出した。宗教や民俗学など神秘主義的な趣味があり、それらもYMOに影響を与えている。ライヴではほぼベーシストに徹し、曲によってはシンセサイザーをベース代わりに演奏していた。YMO散開後は特にアンビエント、エレクトロニカ等のジャンルを取り入れている。

高橋幸宏(ドラムス・ボーカル)
サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てYMOに参加。1978年6月21日のオムニバス・アルバム『PACIFIC』収録の「コズミック・サーフィン」や、1979年のMAKOTO HIGHLAND BAND『INJECTION』など、コンピューターのビートと同期した上で、グルーヴを生み出すドラムを初めて演奏したドラマーとなった。YMOの楽曲では、大半の楽曲でリード・ボーカルを担当。ファッション・デザインの技能を生かしてYMOではステージ衣装のデザインを手掛けた。YMO散開後はソロ活動とともに、様々なミュージシャンとのコラボレーションやプロデュース業を展開している。音楽の方向性の相違などで険悪になりがちだった細野と坂本の間を取り持つ立場でもあった。サディスティック・ミカ・バンド時代、ロキシー・ミュージックの前座としてロンドンでライブを行ったことがあり、結成当時メンバーで唯一、日本国外でのライブを経験していた。2023年1月11日死去。70歳没。

坂本龍一(キーボード・シンセサイザー・コーラス)
幼少時よりピアノと作曲を学んだ。音楽的素養の土台はクラシック音楽だが、高校時代にジョン・ケージを聴き、それが伝統的クラシック音楽を根本から破壊していることに衝撃を受けた。他の多様なジャンルも聴き音楽的幅を広げつつ、東京芸術大学作曲科に進学し民族音楽学の深さに衝撃を受け同大学を卒業。同大学院に進学し、修士論文(提出作品)として管弦楽作品を提出し同大学院を修了。当人は作曲や編曲が自身の本業だと思っている(ピアノ演奏が本業と思ったことは一度もない)。理論派で弁が立ち、学生時代は学生運動の風が吹き荒れており、制度的なものを拒絶し解体する運動を行った。「教授」という愛称は大学院時代に高橋が名付けたもの。大学在籍時からスタジオミュージシャンとして活動(大滝詠一や山下達郎のアルバムに参加)した後、YMOに参加した。YMOでは松武秀樹とともにレコーディングにおいて楽曲を構築する重要な役割を果たし、またライヴでは楽曲のアレンジを一手に引き受けた。YMO散開後は映画音楽で成功するなどのソロ活動を展開し、母校の客員教授もつとめた。2023年3月28日死去。71歳没。(Wikipedia)

あちこち「SYOWA」804 TM Network - Get Wild (Rare Live Recording!)

2024-05-22 01:13:15 | 日記
東京ドームでのコンサート。子供たちを連れていきました。まだ小学生だったかな。でも、わたしは入口で終わるまで待っていることになりました。チケットがなかったのです。「あんた刑事さんだろ?」ダフ屋らしき人が問いかけました。「違うよ」そう答えても信じているようでした。だから、私はトイレに隠れて待っていました。長い時間でした。子供たちは出てくると私がいないので泣き出しそうになっていました。ですから。TMと聞くとトイレを思い出します。・・・・・・しかし、このメンバーはすごい。

TM Network - Get Wild (Rare Live Recording!)


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TM NETWORK
別名
TMN
Takashi Utsunomiya/Tetsuya Komuro/Naoto Kine
出身地 日本の旗 日本 東京都多摩地域
活動期間
1983年 - 1994年
1996年
1999年 - 2008年
2012年 - 2015年
2020年-
レーベル
Epic/Sony RecordsTRUE KiSS DiSCRojam Entertainmentgaball screenavex traxM-TRESSony Music Labels
公式サイト FANKS intelligence
メンバー
小室哲哉(シンセサイザー・キーボード)
宇都宮隆(ボーカル)
木根尚登(ギター・キーボード)
TM NETWORK(ティーエム・ネットワーク)は、小室哲哉(シンセサイザー・キーボード)、宇都宮隆(ボーカル)、木根尚登(ギター・キーボード)の日本のスリーピース音楽ユニットである。

概要
1984年4月21日にシングル「金曜日のライオン (Take it to the lucky)」及びアルバム「RAINBOW RAINBOW」でデビュー。1987年2月26日リリースの4枚目のオリジナルアルバム「Self Control」で初のオリコンアルバムチャートベストテン入りを果たす。同年4月8日リリースの10枚目のシングル「Get Wild」で初のオリコンシングルチャートベストテン入りを果たす。同年7月1日発売のベストアルバム「Gift for Fanks」で初のオリコンチャート1位を獲得。1990年、名義を「TMN(ティーエムエヌ)」へリニューアル。その後、デビュー10周年となる1994年4月21日に「プロジェクト終了」宣言、同年5月18日・19日のライブ『TMN 4001 DAYS GROOVE』をもって終了。1999年には再びTM NETWORKとして再始動。LP、カセットを含めたシングルとアルバムの売上総数は公称1600万枚を突破している


あちこち「SYOWA」803【カラー映像】昭和天皇-戦後の全国巡幸

2024-05-14 18:08:27 | 日記
敗戦後の混乱の中、かくも熱烈に歓迎する国民。天皇制を残したダグラス・マッカーサーの決断は間違っていなかった。神から人へ。そして全国巡幸。わが島根にも来られた。そして斐川にも。私もお姿を拝見した。大変な人出だった。たくさんの大人たちの隙間から覗いてみていた。戦争は終わった。そう実感した。

【カラー映像】昭和天皇-戦後の全国巡幸


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昭和天皇の戦後巡幸(しょうわてんのうのせんごじゅんこう)は、戦後(第二次世界大戦における日本の降伏後)の混乱期と復興期に当たる1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月までの間に、第124代天皇の昭和天皇が行幸して各地を巡った(巡幸)ことである。

概要
第二次世界大戦の終結後、昭和天皇自身の発案により[1]、1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月まで、8年半をかけて全国各地(米国統治下の沖縄を除く、全46都道府県)を行幸した。

当初は日帰り又は短い旅程であったが、次第に10日~数週間に及ぶ長い旅程のものに変化した。行幸は天皇単独で行われることが多く、香淳皇后が同伴したのは1947年(昭和22年)の栃木県行幸、1954年(昭和29年)の北海道行幸の際の2回のみである(静岡県へは同一旅程であるが、皇后単独で沼津市に行啓)。

行幸先各地では、奉迎場(学校・公営グラウンド・駅前など大勢が集える広場)や特産品天覧会場が準備された。行在所(宿泊先)も、各地の公的機関や旧家の邸宅のみならず、保養地の温泉旅館・ホテル等も選ばれている。

1946年(昭和21年)11月13日、終戦連絡中央事務局は連合国軍最高司令官総司令部に対し、巡幸時の国旗掲揚の可否を照会したが「好ましいものではない」との回答を受けた。1949年(昭和24年)1月1日、国旗掲揚が許可されるようになった[2]。



昭和天皇御野立所の石碑(出雲市斐川町荘原 昭和22年11月30日)

あちこち「SYOWA」802 日米開戦はなぜ避けられなかったのか | 新・ドキュメント太平洋戦争

2024-05-13 23:51:21 | 日記
昭和19年生まれの私は、戦中世代ではなく、戦後世代である。戦争については父から聞いた私的な見解の解説だけであった。今になって改めてどうしてもここで真実を知りたいと思ったのです。

[NHKスペシャル] 日米開戦はなぜ避けられなかったのか | 新・ドキュメント太平洋戦争 1941 開戦(前編) | NHK


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太平洋戦争(たいへいようせんそう、英語: Pacific War)は、1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで行われた戦争であり、第二次世界大戦の局面の一つである。

日本などの枢軸国とアメリカ、イギリス、中国などの連合国の間で行われた戦争であった。実際には以前から日中戦争(支那事変)が続いており、その継続としての側面もある[15][16]。日本は1945年8月15日に連合国に対して降伏し、国民にも終戦が伝えられた。その後9月2日に日本政府が降伏文書に署名し、戦争は正式に終結した。なお、これ以降もソ連軍による日本侵攻など戦争状態は一部で継続した。

その後、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により占領され、戦後民主主義へ移行、連合国による日本占領は7年にわたり続いた。(Wikipedia)