とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」776『賣糖歌/花腔版』(飴売りの歌/コロラチュラソプラノ版) 李香蘭 映画「萬世流芳」主題歌 1943年/民國32年

2024-01-21 01:47:12 | 日記
戦時下の歌姫李香蘭。日本人であるのに中国人として巧みに中国語を操る美女。貴重な映像です。下記Wikipediaを読んで数奇な運命を知り、感動しました。Wikipediaに感謝しています。

『賣糖歌/花腔版』(飴売りの歌/コロラチュラソプラノ版) 李香蘭 映画「萬世流芳」主題歌 1943年/民國32年


山口 淑子(やまぐち よしこ、1920年〈大正9年〉2月12日[3] - 2014年〈平成26年〉9月7日[1])は、日本の歌手、女優、政治家である。本名は大鷹 淑子(おおたか よしこ、旧姓:山口)。 翊教女学校卒[1]。

さまざまな名前で活動し、中華民国と満洲国・日本・戦後の香港で李 香蘭(り こうらん、リ・シャンラン)、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国ではシャーリー・ヤマグチ(Shirley Yamaguchi))の名で映画、歌などで活躍した。日本の敗戦を上海で迎えた彼女は、中国人として祖国を裏切った漢奸の容疑で、中華民国の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した。

帰国後は、旧姓(当時の本名)山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をした[1]が、1958年(昭和33年)に結婚のため、芸能界を引退し、1969年(昭和44年)にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者としてマスメディア界に復帰、1974年(昭和49年)3月まで務めた。1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間、参議院議員を3期務めた[1]。2006年に日本チャップリン協会[4](会長大野裕之)の名誉顧問に就いた。

生涯
誕生からデビューまで
祖父は士族出身の漢学者であり、その影響で父親は親中国的であった。父親は1906年に中国に渡った。

1920年(大正9年)2月12日に、中華民国奉天省(現在の中華人民共和国遼寧省)奉天近郊の北煙台で生まれた。南満洲鉄道(満鉄)で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄と福岡県出身の母・アイ(旧姓石橋)の間に生まれ「淑子」と名付けられる。本籍は佐賀県杵島郡北方町(現:武雄市)。

生後まもなく撫順(現:中華人民共和国遼寧省)に引っ越しをした。父親は撫順の満鉄研修所で日本人職員に北京語を教えていた。この影響で、幼少期から、父親の方針で中国語に親しんだ。撫順炭鉱襲撃事件や楊柏堡事件、平頂山事件の影響もあり、撫順を離れることになった。このとき、匪賊の処刑を目撃している。

13歳の頃、家族で奉天(現:瀋陽市)へ移住した[注釈 1]。隣人で父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春(中国語版)将軍[注釈 2]の、義理の娘分(乾女児)となり、「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得た。「香蘭」という名は、父親の俳号由来である。その後、のちに天津市長になった潘毓桂とも義理の娘として縁を結んだ。中国の旧習では、元来縁を深めるために互いの子供を義子とする習慣があった。これは実際に戸籍を移す法的な養子という関係ではなく、それぞれの姓で互いの子女に名前を付けあうなどのものである。

奉天の女学校に転入するはずだったが、欠員がないため、一時的に奉天女子商業学校に通うことになる。この頃、肺浸潤を患い、一ヶ月の入院と半年の休学をすることになる。自宅静養の間、医者の勧めで歌を習うことになる。奉天に住む幼なじみのユダヤ系白系ロシア人であるリューバ・モノソファ・グリーネッツの母からの紹介を受け、白系ロシア人と結婚したイタリア人オペラ歌手のマダム・ポドレソフのもとに通うことになる。発声試験では不合格になるが、リューバの必死の懇願もあり、ここで声楽を習うようになった。

この後、マダムの紹介で満鉄直営のヤマトホテルで行われる秋のリサイタルの前座を務めることになる。そこで、和服を着て「荒城の月」「シューベルトのセレナーデ」「イッヒ・リーベ・ディッヒ」「ソルベージュの歌」を歌った。このリサイタルには奉天広播電台(放送局)の企画課長が来ており、歌手として目にとまることになる。

「中国人スター・李香蘭」として

1939年の兵庫県西宮市でのコンサート

1940年(昭和16年)、歌舞伎座にて

1940年、日満合作映画「支那の夜」に主演

日劇七周り半事件の様子(1941年)

資生堂石鹸のポスター(1941年)

1932年(昭和7年)、満洲国誕生と共に開局した奉天政府局は、新満洲歌曲という番組を企画していた。日本語も中国語も堪能であり、またその絶世の美貌と澄み渡るような歌声から、この番組の歌手に抜擢された。1934年(昭和9年)、淑子は「潘淑華」の名(潘毓桂の義子としての名前)で北京のミッション・スクールである翊教女学校(翊教女子中学(中国語版))に編入し、1937年(昭和12年)に卒業した。

日中戦争開戦の翌1938年(昭和13年)には満洲国の国策映画会社・満洲映画協会(満映)から中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューした[3]。映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本や満洲国で大人気となった。そして、流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていた[5]。また、この頃「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子との親交があった。 日中戦争中には満映の専属女優として日本映画に多く出演し、人気を得た。人気俳優の長谷川一夫とも『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』で共演した。1941年(昭和16年)2月11日の紀元節には、日本劇場(日劇)での「歌ふ李香蘭」に出演し、大盛況となった。大勢のファンが大挙して押し寄せ、日劇の周囲を7周り半もの観客が取り巻いたため、消防車が出動・散水し、群衆を移動させるほどの騒動であったと伝えられている(日劇七周り半事件)[6]。

1943年(昭和18年)6月には、阿片戦争で活躍した中国の英雄・林則徐の活躍を描いた長編時代劇映画『萬世流芳(英語版)』(151分)に、林則徐の弟子・潘達年の恋人(後に妻)役で主演した。この映画は、中華電影股份有限公司、中華聯合製片股份有限公司、満映の3社による合作で、阿片戦争敗北100周年記念に作られた映画であった。中国全土で映画が封切られるや、劇中、彼女が歌った主題歌「賣糖歌」と挿入歌「戒煙歌」は大ヒットした上、映画『萬世流芳』自体も、中国映画史上初の大ヒットとなったのである。また内容は、阿片戦争の相手国であったイギリスを当時の日本に見立てて、中国民衆の抗日意識を鼓舞するものだった。

『萬世流芳』の大ヒットにより中国民衆から人気を得た李香蘭は、上海から北京の両親のもとへ帰郷し、北京飯店で記者会見を開いた。 当初、この記者会見で彼女は自分が日本人であることを告白しようとしていたが、父の知人であった李記者招待会長に相談したところ、「今この苦しい時に、あなたが日本人であることを告白したら、一般民衆が落胆してしまう。それだけはやめてくれ」と諭され、告白を取りやめた[6]。この記者会見が終わりかけた時、一人の若い中国人新聞記者が立ち上がり、「李香蘭さん、あなたが『白蘭の歌』や『支那の夜』など一連の日本映画に出演した真意を伺いたいのです。あの映画は中国を理解していないどころか、侮辱してます。それなのに、なぜあのような日本映画に出演したのですか? あなたは中国人でしょう。中国人としての誇りをどこに捨てたのですか」と質問した。これに対し彼女は、「20歳前後の分別のない自分の過ちでした。今は後悔しています。あの映画に出たことを後悔しています。今後、こういうことは決して致しません。どうか許してください」と答えるや、記者会見会場内からは大きな拍手が沸いたという。


「五大歌后」、左から白虹、姚莉、周璇、李香蘭、白光、祁正音(1940年代)
記者会見と前後して、上海の百代唱片公司で収録した「夜来香」「海燕」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「第二夢」などがヒットした。このうち汪兆銘政権(南京国民政府)による愛国歌曲「防空歌」は、中国人の祖国防衛意識をかきたてた。また、1945年(昭和20年)6月23・24・25日に上海・静安寺路(現・南京西路)の大光明大戯院Grand Theatre(現・大光明電影院)で行われたリサイタルでは、ヒット曲「夜来香」を含む中・日・欧米の歌曲などが披露され、観客の喝采を浴びた。そして人気の勢いは留まることを知らず、李香蘭は、周璇、白光、姚莉、呉鶯音らと共に上海灘の「五大歌后」の1人に数えられた[6]。

それまで、李香蘭は満洲国と日本のスターだったが、映画『萬世流芳』とその主題歌「賣糖歌」、挿入歌「戒煙歌」そして「夜來香」「海燕」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「第二夢」などのヒット曲により、中華民国でも人気スターとなった。そして『萬世流芳』の後、『香妃』という映画が企画されたものの、撮影開始前に終戦を迎え、上海での映画出演は1本に終わってしまった。また歌においては、1945年(昭和20年)にカップリングで吹き込み発売された「第二夢」と「忘憂草」とが、中国での最後の収録曲となった。なお「第二夢」は2012年、中国で蒼井そらによりリヴァイヴァルされ、現代の中国人にも創唱者は李香蘭であるということが知れわたった。その「第二夢」は、台湾のトップ・シンガー費玉清が、「夜來香」「何日君再來」「只有你」等と共に、台湾は元より東南アジアや中国大陸各都市でのコンサートでも歌い継いでいる。

帰国
李香蘭は中国人と思われていたため、日本の敗戦後、中華民国政府から漢奸(売国奴・祖国反逆者)の廉で軍事裁判にかけられた。そして、李香蘭は来週上海競馬場で銃殺刑に処せられるだろう、などという予測記事が新聞に書かれ、あわや死刑かとも思われた。しかし奉天時代の親友リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の戸籍謄本が届けられ、日本国籍であるということが証明された。

結果、漢奸罪は適用されず、国外追放となった[5]。無罪の判決を下す際、裁判官は「この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸を裁くことにあるのだから、日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。それは、中国人の名前で 『支那の夜』 など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」と付言を加え、李香蘭は「若かったとはいえ、考えが愚かだったことを認めます」と頭を下げて謝罪した[6]。

1946年(昭和21年)2月28日、李香蘭と似ても似つかぬように化粧を落とし、もんぺ姿で引揚船に乗船しようとしたが、中華民国側の女性出入国管理官に李香蘭と見破られ、再度収容所に連れ戻された。10日後に誤解は解け、1か月後の3月末に今度こそ出国できることになった。李香蘭は乗船するや否や、一旦は便所に身を潜めたが、船が港を離れてからデッキで遠ざかる上海の摩天楼を眺めていると、船内のラジオから聞こえてきたのは、奇しくも自分の歌う「夜来香」だった[5]。

女優「山口淑子」として

山口淑子(1952年、映画『風雲千両船』)
帰国した後、翌年には旧姓(当時の本名)「山口淑子」に戻って銀幕に復帰、日本映画を中心に活躍した[3]。主演作では、池部良と共演した1950年(昭和25年)の『暁の脱走』などが名作として名高い。『わが生涯のかがやける日』では森雅之と、『醜聞』では三船敏郎と共演している。

またアメリカに渡り、アクターズ・スタジオの講師から演技を学び、シャーリー山口(Shirley Yamaguchi)の名でハリウッド映画に主演したり[3]、ブロードウェイでのミュージカルにも主役で出演した。その際に受けたインタビューで山口は「キスの勉強にやって参りました」と渡米の理由を述べている[要出典]。その頃ニューヨークで彫刻家イサム・ノグチと知り合い、1951年に結婚した。鎌倉の北大路魯山人の邸宅敷地内にアトリエと住まいを構えたが、1956年(昭和31年)に離婚する。

1952年(昭和27年)から1958年(昭和33年)にかけてはイギリス領香港で映画『金瓶梅(中国語版)』『神秘美人』『一夜風流』に主演し、中国語圏で「李香蘭」の名を復活させた。また同時に、香港の百代唱片公司で十数曲の主演映画の主題歌を吹き込み、映画と共にリリースしてヒットさせる。それらは今日もスタンダード・ナンバーとして、「三年」「梅花」「小時候」「十里洋場」「分離」「只有你」等が、世界の中国人・華人の間で歌い継がれている。

女優引退、司会者として復帰

1958年(昭和33年)に、駐ビルマ日本大使館の三等書記官で国連大使の加瀬俊一の秘書官も務めた日本人外交官の大鷹弘(のち駐フィジー・スリランカ・ミャンマー特命全権大使を歴任、1928年 - 2001年)[7]と再婚し、20年にわたる女優業を引退する。引退直前には原節子の呼びかけにより、芸能生活20周年記念映画として『東京の休日』が製作された。それは三船敏郎、池部良、越路吹雪などの東宝オールスターが出演する豪華なものとなった。そしてこの映画が最後の出演映画となった。

その後はマスコミに一切姿を見せなかったものの、1969年(昭和44年)に、「山口淑子」の名でフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者になり、芸能界へのカムバックを果たす。番組ではベトナム戦争中の南ベトナムやカンボジア、中東などの海外取材も行う。1973年(昭和48年)には日本赤軍の重信房子とのインタビューに成功した[8][注釈 3]。参議院議員当選後の1975年(昭和50年)に自民党議員団の一員として北朝鮮を訪問、国家主席金日成と面会している[9][10]。1979年(昭和54年)に朝日放送が製作した番組『こんにちは!北朝鮮 山口淑子レポート』の企画で再度、金日成と面会している[11]。

参議院議員へ転身

1974年(昭和49年)、田中角栄首相の要請で自由民主党から第10回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し、初当選した[12]。国会では「大鷹淑子」の名で活動した[2][13]。田中派に所属。1980年(昭和55年)、再選。1984年(昭和59年)2月、日本愛玩動物協会会長就任(2004年より名誉会長)[14]。1986年(昭和61年)、3期目の当選を果たす。

1987年(昭和62年)7月4日、竹下登、金丸信らによる新派閥「経世会」が結成され[15]、田中派は竹下派、二階堂グループ、中立系の3派に分裂する。山口はそのうち中立系に属した[16]。1990年(平成2年)2月の衆院選直後、旧田中派中立系の所属議員は山口と後藤田正晴の2人だけとなった[17]。それから間もなくして後藤田は無派閥となり、山口は6月7日に宮沢派に移った[18][13]。

環境政務次官(福田赳夫内閣)・参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長・参議院外務委員長・自民党婦人局長などを1992年(平成4年)に引退するまで歴任した。1993年(平成5年)11月3日、勲二等宝冠章受章[19]。

政界引退後は1993年から98年まで天理大学非常勤講師を務める傍ら、『女性のためのアジア平和国民基金』の呼びかけ人となり、同基金の副理事長を務めた[20]。

死去
2014年9月7日、心不全のため、東京都千代田区一番町の自宅で死去した[21]。94歳だった。叙正四位[22]。

主な出演映画
「李香蘭」時代(戦前・戦中)

『支那の夜』長谷川一夫と共演

『サヨンの鐘』
蜜月快車(1938年、満映)
富貴春夢(1939年、満映)
冤魂復仇(1939年、満映)
東遊記(1939年、東宝、満映)
美しき犠牲(原題・鉄血慧心 1939年、満映)
白蘭の歌(1939年、東宝、満映)
支那の夜(1940年、東宝・中華電影公司)
孫悟空(1940年、東宝)
熱砂の誓ひ(1940年、東宝、華北電影公司)
君と僕(1941年、朝鮮軍報道部)
蘇州の夜(1941年、松竹)
迎春花(中国語版)(1942年、満映、松竹)
黄河(1942年、満映)
戦ひの街(1943年、松竹)
萬世流芳(英語版)(1943年、中華電影公司・中華聯合製片公司・満映)
サヨンの鐘(1943年、松竹、台湾総督府)
誓ひの合唱(1943年、東宝、満映)
私の鶯(1944年、東宝、満映)(1984年発見, 1986年東京で上映)
兵隊さん(1944年、朝鮮軍報道部)
野戦軍楽隊(1944年、松竹)
「山口淑子」時代(戦後)
わが生涯のかがやける日(1948年、松竹)
情熱の人魚(1948年、大映)
流星(1949年、新東宝)
人間模様(1949年、新東宝)
果てしなき情熱(1949年、新世紀プロ・新東宝)
帰国(ダモイ)1949年、新東宝)
初恋問答(1950年、松竹)
暁の脱走(1950年、新東宝)
女の流行(1950年、松竹)
醜聞(1950年、松竹、黒澤明監督)…西条美也子
東は東 Japanese War Bride (1951年、アメリカ映画、Shirley Yamaguchi名で主演)
風雲千両船(1952年、東宝)
霧笛(1952年、東宝)
戦国無頼(1952年、東宝)
上海の女(1952年、東宝)
抱擁(1953年、東宝)
土曜日の天使(1954年、東宝)
金瓶梅(中国語版)(1955年、香港 ショウ・ブラザーズ 李香蘭名で主演)
東京暗黒街・竹の家 House of Bamboo (1955年、アメリカ映画、Shirley Yamaguchi名で主演)
Navy Wife(英語版)(1956年、アメリカ映画 Shirley Yamaguchi名で出演)
白夫人の妖恋(1956年、東宝、香港 ショウ・ブラザーズ)
神秘美人(1957年、香港 ショウ・ブラザーズ 李香蘭名で主演)
一夜風流(1958年、香港 ショウ・ブラザーズ 李香蘭名で主演)
美しき哀愁 アンコール・ワット物語(1958年、連合映画・東宝)
東京の休日(1958年、東宝)
主なテレビ・ラジオ番組
山口淑子の時間(ラジオ東京、1952年)
3時のあなた(フジテレビ、1969年4月 - 1974年3月)
にっぽんの歌(NETテレビ、1973年4月 - 1974年3月)
徹子の部屋(テレビ朝日、1991年8月12・13日)
世界・わが心の旅 「李香蘭 遥かなる旅路~中国、ロシア」(ハイビジョン試験放送、1998年11月29日/NHK衛星第2、1999年1月9日)
山口淑子・激動の半生〜わが内なる李香蘭〜(BS朝日、2002年3月27日)
ハイビジョン特集・世紀を刻んだ歌「何日君再来~アジアの歌姫が紡いだ愛の歌」(NHKデジタル衛星ハイビジョン、2006年4月19日/NHK衛星第2、2006年9月1日)
歴史大河スペシャル・女たちの中国(日本テレビ、2008年7月21日)
報道発 ドキュメンタリ宣言「昭和史最大のスクープ 男装の麗人・川島芳子は生きていた! 2時間スペシャル」(テレビ朝日、2009年4月13日)
楽曲
満洲・日本
我們的青春(映画『蜜月快車』挿入歌、中国語、百楽唱片版)
甜蜜的新婚(映画『蜜月快車』挿入中国語、百楽唱片版)
滿洲姑娘(中国語)
桃源春夢(映画『富貴春夢』主題歌、中国語、百楽唱片版)
滿園春色
冤魂復仇(映画『冤魂復仇』主題歌、中国語、百楽唱片版)
鐵血慧心(映画『鐵血慧心』主題歌、中国語、百楽唱片版)
天涯路(中国語、百楽唱片版)
時代姑娘(中国語、百楽唱片版)
望春曲(中国語、百楽唱片版)
幻想的你(中国語、百楽唱片版)
樂しい滿洲
握手の日滿支
関東軍凱旋歌(百楽唱片版)
滿洲國國歌(中国語、百楽唱片版)
日本國國歌(百楽唱片版)
愛國行進曲(百楽唱片版)
何日君再來(中国語)
樂しい朋友
さらば上海
夜悲曲(中国語、百楽唱片版)
陽春小唄(日本語)
陽春小唱(中国語、百楽唱片版)
中華民國國歌(中国語、百楽唱片版)
薔薇處處開(中国語、百楽唱片版)
夢の太湖船
離別了姑娘(日本語)
青い月の夜に
故郷之春天(朝鮮語で歌唱)
大日本帝國國歌(百楽唱片版)
蘇州夜曲(映画『支那の夜』挿入歌)映画の中で歌唱
支那の夜(映画『支那の夜』主題歌)映画の中で歌唱
心に咲く花/日滿支親善歌
興亞三人娘/日滿支親善歌(奥山彩子・白光 共唱)
紅い睡蓮(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
夕月乙女(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
荒城の月(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
夜霧の馬車
北京の子守唄
濱邊の歌
宵待草(明治大学マンドリン倶楽部演奏)
さうだその意氣(霧島昇・松原操 共唱)
月下の胡弓
黒き寶
花占ひ
さくら咲く國
旅人の歌
港つばめ
春鶯曲
蘇州の夜(映画『蘇州の夜』主題歌)
乙女の祈り(映画『蘇州の夜』挿入歌)
迎春花(映画『迎春花』主題歌)
若き日の夢(映画『戦ひの街』主題歌)
花の生命(霧島昇 共唱)
花白蘭の歌(楠木繁夫 共唱)
母は青空(映画『誓ひの合唱』挿入歌)
サヨンの歌(映画『サヨンの鐘』主題歌)
私の鶯(映画『私の鶯』主題歌)
新しき夜(映画『私の鶯』挿入歌)
ペルシャの鳥(映画『私の鶯』挿入歌)映画の中でロシア語で歌唱
台湾軍の歌(映画『サヨンの鐘』の中で歌唱)[23]
天涯歌女(映画『野戦軍楽隊』挿入歌、中国語で歌唱)[24]
情熱の人魚(映画『情熱の人魚』主題歌)
月に寄せて(映画『情熱の人魚』挿入歌)
懐かしのタンゴ
夜来香(映画『上海の女』『東京の休日』の中でも歌唱)
思い出の白蘭
東京夜曲(映画『東京夜曲』主題歌)
愛の花びら〜ラヴィ・アン・ローズ〜
珊瑚礁の彼方に
ロンドンデリーの歌
何日君再来(映画『上海の女』挿入歌)
ふるさとのない女(映画『上海の女』挿入歌)
春風春雨(映画『上海の女』挿入歌)
郊外情歌(映画『上海の女』挿入歌)
花はなんの花(五木の子守唄)
花のいのちをたれか知る
沙漠の太鼓
愛の誓い
暗い部屋
歩きましょう
蘇州夜曲(映画『抱擁』挿入歌)
黒い百合(映画『抱擁』挿入歌)
七人の侍(映画『七人の侍』主題曲)
とこしえに(映画『ライムライト』主題歌)
しらとり韶(映画『白夫人の妖恋』主題歌)
中国(中華民国)と戦後の香港レコーディングを含む
大東亞勝利之歌(黄世平 共唱)
賣糖歌(中国映画『萬世流芳』主題歌)
戒煙歌(中国映画『萬世流芳』挿入歌)
賣糖歌(花腔版)
百代進行曲
恨不相逢未嫁時(上海録音版)
花香爲情郎
夜來香
海燕(黄飛然、黄源尹 共唱)
忘憂草
第二夢
防空歌(黄明・黄天 共唱)
天涯歌女
山谷中玫瑰
郊外情歌
進酒杯莫停
青春一去不復囘
春風春雨
明月之夜
不要告訴我
空閨残夢
青春讃歌
為甚麼要煩惱
綠野之春(香港映画『新西廂記』挿入歌)
蘭閨寂寂(香港映画『金瓶梅』挿入歌)
烏鴉配鳳凰(香港映画『金瓶梅』挿入歌)
身世飄零(香港映画『金瓶梅』挿入歌)
梅花(香港映画『神秘美人』挿入歌)
分離(香港映画『神秘美人』挿入歌)
歌舞今宵(香港映画『神秘美人』挿入歌)
三年(香港映画『一夜風流』挿入歌)
小時候(香港映画『一夜風流』挿入歌)
情枷愛鎖(香港映画『一夜風流』挿入歌)
十里洋塲(香港映画『一夜風流』挿入歌)
他總有一天囘來(香港映画『一夜風流』挿入歌)
恨不相逢未嫁時(香港録音版)
只有你
河上的月色
心曲(チャップリンの映画『ライムライト』主題曲「エターナリー(テリーのテーマ)」)
アメリカ
August Moon(「さくらさくら」、映画『八月十五夜の茶屋』挿入歌、米MGMレコード/日本コロムビア)
作詞
「憧憬(あこがれ)」(テイチク・1979年、歌・菊池章子、作曲・遠藤実)
著書
『誰も書かなかったアラブ “ゲリラの民”の詩と真実』サンケイ新聞社出版局、1974年4月1日。NDLJP:12180031。[25]
『中国に強くなる本 挨拶から食事まで 9億人の隣人と仲よくする法』かんき出版、1979年5月10日。NDLJP:12176894。
『李香蘭 私の半生』(藤原作弥共著)新潮社、1987年、 のち文庫
『戦争と平和と歌 李香蘭心の道』東京新聞出版局、1993年(東京新聞・中日新聞で今日も続く夕刊連載自伝「この道」の山口分をまとめたもの)
『次代に伝えたいこと 歴史の語り部李香蘭の半生』天理教道友社、1997年
『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』日本経済新聞社、2004年
日本チャップリン協会・大野裕之篇『チャップリンの日本』2006年3月、親交のあったチャップリンの思い出を語っている。ハリウッド時代の写真も多く収録。
三好和義『四千年の楽園 中国世界遺産』小学館、2008年※序文を寄稿
インタビュー・対談
『対話集・宗教に聞く』毎日新聞社、1995年(毎日新聞に掲載された中山善衞との対談「戦争・平和・信仰」を収録)
『21世紀のアジアと日本』成文堂、2002年(西原春夫との対談)
『ドキュメント時代を拓いた女性たち』中公新書ラクレ、2002年
『語るには若すぎますが』河出書房新社、2003年(『週刊朝日』掲載インタビューを収録)
受賞歴
第38回日本アカデミー賞 会長特別賞[26] (Wikipedia)

あちこち「SYOWA」775 三船 敏郎 Toshiro Mifune - When words are not necessary

2024-01-13 17:28:55 | 日記
日本の映画史上にこの上ない偉業を成し遂げた世界の三船、そして黒澤。この編集者はたくさんの作品の中で見せる三船敏郎の一瞬の表情を編集して一つの物語に仕立てています。わたしは深甚の敬意を表します。これを見れば科白はないが作品に応じた人間性を演技していることがよく分かります。三船敏郎のすべてが凝縮されていると感じました。監督黒澤明の生命が脈打っています。ありがとうございました。

三船 敏郎 Toshiro Mifune - When words are not necessary


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

みふね としろう
三船 敏郎

1954年
本名 三船 敏郎
生年月日 1920年4月1日
没年月日 1997年12月24日(77歳没)
出生地 日本・膠州湾租借地(現・中国山東省青島市)
死没地 日本・東京都三鷹市
国籍 日本
身長 175 cm
血液型 O型
職業 俳優・映画プロデューサー・映画監督
ジャンル 映画・テレビドラマ
活動期間 1947年 - 1997年
配偶者 吉峰幸子(1950年 - 1995年)

主な作品
日本映画
『銀嶺の果て』/『醉いどれ天使』
『野良犬』/『羅生門』
『七人の侍』/『宮本武蔵』
『蜘蛛巣城』/『無法松の一生』
『隠し砦の三悪人』/『日本誕生』
『悪い奴ほどよく眠る』/『用心棒』
『天国と地獄』/『赤ひげ』
『太平洋奇跡の作戦 キスカ』
『日本のいちばん長い日』/『黒部の太陽』
『連合艦隊司令長官 山本五十六』
『日本海大海戦』/『上意討ち 拝領妻始末』
『風林火山』/『新選組』
『待ち伏せ』/『制覇』
『男はつらいよ 知床慕情』
『千利休 本覺坊遺文』
海外映画※日本との合作含む
『価値ある男』/『太平洋の地獄』
『レッド・サン』/『ミッドウェイ』
『1941』/『武士道ブレード』
テレビドラマ
『大忠臣蔵』/『荒野の素浪人』
『荒野の用心棒』/『将軍 SHŌGUN』
受賞

三船 敏郎(みふね としろう、1920年〈大正9年〉4月1日 - 1997年〈平成9年〉12月24日)は、日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。本名は同じ。第二次世界大戦後の日本映画を代表する俳優のひとりで、黒澤明監督作品への出演で知られる。国際的にも知名度が高く、1960年代以降は日本国外の映画にも出演した。1961年と1965年にはヴェネツィア国際映画祭で男優賞を受賞した。

この項は詳細に解説されていたが、長くなるので勝手ながら以下は省略しました。

あちこち「SYOWA」774 東海林太郎・没後50年波瀾万丈SP

2024-01-05 18:03:39 | 日記
歌手とはこういう人を言う。燕尾服で直立不動。ただ声のみで観客を引き付ける。どこかに銅像が立っているとか。行ってみたい気もします。東海林。しょうじ。この名前も忘れません。

東海林太郎・没後50年波瀾万丈SP


東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日[1] - 1972年(昭和47年)10月4日)は、秋田県秋田市出身[2]の流行歌手。

戦前から戦後にかけて活躍し、ロイド眼鏡をかけて燕尾服を着用して直立不動の姿勢で歌う特徴があった[1]。

経歴
生い立ち~南満洲鉄道入社
東海林は1898年(明治31年)に秋田県秋田市台所町(現:千秋矢留町)で生まれた[1]。保戸野尋常小学校を卒業後、1908年(明治41年)に父・大象が秋田県庁を退職して南満洲鉄道へ入社するのに伴い、両親が満洲へ向かう中、太郎は秋田に残って祖母・カツの下で生活する。秋田県立秋田中学校在学時にヴァイオリンに魅せられ、満洲に滞在する父・大象に懇願するが逆鱗に触れてしまい、断念している[要検証 – ノート]。1916年(大正5年)に卒業後[1][2]は早稲田大学商学部予科へ入学し[1]、研究科において佐野学の下でマルクス経済学を学ぶ[要出典]。卒業間近の1922年(大正11年)には庄司久子と結婚した[1]。

1923年(大正12年)に太郎は早稲田大学研究科を修了し[1]、同年9月に父・大象と同じく南満洲鉄道へ入社する。庶務部調査課に配属されて勤務するが[1]、太郎も「満洲に於ける産業組合」を脱稿するがあまりにも左翼的として、1927年(昭和2年)に鉄嶺にある図書館勤務へ左遷された。太郎は結局、満洲や鉄嶺で音楽の夢を捨てることが出来ず、1930年(昭和5年)に南満洲鉄道を退職して帰国した[1]。帰国後は、1931年(昭和6年)に弟・三郎と共に東京・早稲田鶴巻町で中華料理店を経営する一方で、妻・久子と離婚したのちに渡辺静と再婚した[1]。

流行歌手に

1938年(昭和13年)に行われた「上海の街角で」のスチール。左は佐野周二。
音楽の夢を捨てられずに満洲から帰国した太郎は、歌手の基礎となる声楽を下八川圭祐に師事し[1]、時事新報社主催の「第2回音楽コンクール」の声楽部門で「我恨まず」(ロベルト・シューマン)、仮面舞踏会からのアリア「レナートの詠唱」を独唱して入賞を果たす[1]。その後は流行歌手へ転向し[1]、ニッコーレコードでの「宇治茶摘唄」の吹き込みが流行歌のレコードとして最初のものとなった[1]。1933年(昭和8年)にプロとして大日本雄辯會講談社レコード部と専属契約を結び、「河原月夜」「山は夕焼け」などを吹き込んだほか、放送オペラにも出演して「椿姫」ではロイド眼鏡をかけている風貌から医師の役を演じた。

その後も東海林の勢いは留まることを知らず、日本ポリドール蓄音機株式会社で吹き込んだ「赤城の子守唄」が1934年(昭和9年)2月に新譜で発売されると空前の大ヒットとなり、さらに同年には「国境の町」もヒットするなど、東海林は流行歌手としての地位を不動のものとした。そのままポリドールと専属契約を結んでからは、澄んだバリトンを活かして「むらさき小唄」「名月赤城山」「麦と兵隊」「旅笠道中」「野崎小唄」「すみだ川」「湖底の故郷」などのヒット歌謡を次々に世へ送り出して戦前の歌謡界を席巻、東海林太郎時代を到来させた[1]。また東海林は、「谷間のともしび」などの外国民謡においても豊かな歌唱力を示した。第二次世界大戦開戦後はテイチクへ移籍するが依然として勢いが衰えることは無く、「贅沢は敵だ」という日本国内のスローガンを掲げて戦時色が濃くなっていく中でも「あゝ草枕幾度ぞ」「琵琶湖哀歌」「戦友の遺骨を抱いて」などのヒット曲を吹き込んでいる。

東海林の歌唱スタイルは燕尾服を着用して直立不動の状態であるが、このスタイルは剣豪・宮本武蔵を彷彿させるとしている。「一唱民楽」という言葉の如く「歌は民のため」という信念を持っており、常に真剣勝負という気持ちで歌唱する東海林の魂は激動の昭和を生き抜いた精神を表している。東海林は生前、「マイク1本、四方が私の道場です。大劇場であろうとキャバレーの舞台であろうと、変わりありません」と述べていた。

戦後の不遇~歌手協会会長として
第二次世界大戦の終戦後は、戦前のヒット曲が軍国主義に繋がるとしていわゆる「国粋的なヤクザもの」が禁止され、歌っていた東海林自身も進駐軍から睨まれるなど、不遇の時代が続いた。1946年(昭和21年)にポリドールへ復帰し、最初の作品は戦前からのヒット作と関係が深い赤城を舞台とした「さらば赤城よ」だった[1]。

ベテランの域に達していた東海林はその後、1953年(昭和28年)に日本マーキュリーレコードへ重役歌手(相談役)として移籍し[1]、地方公演を中心に活動を続ける。人気も徐々に回復していき、1957年(昭和32年)には東京・浅草の国際劇場において「東海林太郎 歌謡生活25周年記念公演」を開催する。1963年(昭和38年)には任意団体(当時)「日本歌手協会」を設立して初代会長に就任し[1]、空前の「なつかしの歌声ブーム」(いわゆる「懐メロ」番組)にも出演するなど戦後の東海林太郎ブームを牽引した。こうした功績が評価され、1965年(昭和40年)には紫綬褒章を、1969年(昭和44年)には勲四等旭日小綬章をそれぞれ歌手として初めて受章している[2]。

突然の死去
1972年(昭和47年)9月26日14時30分頃、東京・立川市内の知人宅に滞在していた際に調子の悪そうな歩き方を見せる東海林を心配したマネージャーから「調子が悪いのではないか」と問われ、「自分の身体は自分が一番よく知っている。眠たいだけだよ」と返答して横になるが、そのまま意識不明の重体に陥った[3]。翌日には立川中央病院に緊急入院し、次男と妹の手を握りながら数人のファンに見守られ、同年10月4日8時50分、脳内出血によって死去した[1]。73歳没。没日付で正五位に叙せられ、勲三等瑞宝章を授与された[1]。葬儀は史上初めての「音楽葬」だった[1]。

東海林の人生は常に病との闘いの日々だった。1948年(昭和23年)に直腸癌の診断を受けて最初の手術を行って[1]からは、1955年(昭和30年)・1964年(昭和39年)・1969年(昭和44年)と計4回に及ぶ手術で直腸を全摘[1]・オストメイトとなり、その都度に周囲から「再起不能」と言われながらも、楽屋で衣装を身に着ける際には晒できつく腹を巻き付け、投薬による副作用で顔色が変わってしまう場合は化粧を施してステージに上がるなど、病魔を克服しながらの人生だった。

第二次世界大戦前後から死の直前までは、従来は別荘として使用していた長野県軽井沢町の家に在住していた[4][5]。当時を知る地元の住民によれば、東海林はボランティア精神が豊富な人柄で、地域の婦人会長だった女性から頼まれれば、地元の小学校や自治会館などで気さくにコンサートを開催したという[4]。現在では、東海林が居住していた家は凸版印刷の保養所として使用されているとのことである(保養所の広報より[6])。

受賞・受章歴
1965年 - 紫綬褒章[2]、第7回日本レコード大賞特別賞(昭和40年)[1]
1969年 - 勲四等旭日小綬章(昭和44年)[2]
1972年 - NHK放送文化賞(昭和47年)[1]
死後

1972年 - 勲三等瑞宝章(昭和47年)[1]、第3回日本歌謡大賞放送音楽特別賞[1]
代表曲
「絵傘日傘」(1933年)
「キャラバンの鈴」(1933年)
「夢の龍胆」(1933年)
「赤城の子守唄」(1934年)
「国境の町」(1934年)
「月形半平太の唄」(1934年)
「山は夕焼け」(1934年)
「谷間のともしび」(1934年)
「明日はあの山」(1934年)
「城ヶ島夜曲」(1934年)
「旅は鼻唄」(1934年)
「女の友情 - 綾乃の子守唄」(1934年) - 映画「女の友情」主題歌
「母をたづねて」(1934年) - 映画「母の手」主題歌
「旅笠道中」(1935年)
「野崎小唄」(1935年)
「お駒恋姿」(1935年)
「むらさき小唄」(1935年)
「椰子の実」(1936年)
「お夏清十郎」(1936年)
「湖底の故郷」(1937年)(Wikipedia)