とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

誰も撮らない風景

2011-01-31 23:02:07 | 日記
誰も撮らない風景






 私の写真の腕はたいしたことはない。ただ長い間撮り続けていただけである。怠け怠けして。だから一向に旨くならない。
 いや、ここでそんな言い訳をするのではない。撮りつづける私の風景は、誰も撮らないだろうと思われる風景である。上の写真もそんな風景で、宍道湖の西岸に流れ込む農業用水の水路である。葦のような枯れ草に覆われた水路は水を満々と湛えていて、澄んでいる。私はこういう風景に出会うと、もうたまらないほどジンときて、立て続けにシャッターを切る。
 恐らく宍道湖を西側から撮る者は少ないと思われる。亡くなった弟は西岸から朝日を撮り続けた。しかし、私は怠け者で、早起きが大の苦手である。だから、宍道湖にカメラを向けるのはいつも昼である。
 この写真は随分前のものなので、今こういうところが残っているかどうか分からない。でも、いつまでも私の心に焼き付いている。近く出かけようと思うが、もしなくなっていたら、がっかりするだろう。
 いつまでも残したい風景。それを発見するために私はまた宍道湖に出かける。そうしているうちに私は、……。
 
 

黄泉の穴

2011-01-29 22:30:28 | 日記
黄泉の穴



 洞穴の外から撮影した写真



 洞穴の内側から撮影した写真




 随分昔の話だが、昭和48年の夏、『出雲国風土記』に登場する「黄泉の穴」とされる洞窟がある旧平田市猪の目町の海岸に出かけた。『中国新聞』の企画シリーズ「島根の詩」の取材が目的だった。
 現場に到着して大きな横長の洞窟を発見したときは、はっと息を呑んだ。思ったより規模が大きく、日本海に向かって吠えている獣の口に見えたからである。
 この地は昭和23年に漁船の船置き場として工事をした際、堆積土を取り除いたときに発見された洞窟で、その堆積土から遺物が発見されたという。弥生時代から古墳時代にかけての人骨が十数体。腕には貝輪がはめられ、稲籾入りの須恵器などの副葬品が埋められていたそうだ。また古代の生活が分かる木器、貝類、獣骨、灰なども見つかっている。また、1700年前の女性の白骨が状態よく発掘されたそうである。『古事記』には「黄泉比良坂(よもつひらさか)」と言われるあの世とこの世との境目を示す地名が出てくる。出雲の国の地にあの世を設定した発想には、当時の中央の勢力の政治的な意図が表れていると思われる。
 洞窟は幅30m、奥行きは30m位。奥へ行くと天井が低くなってくる。入り口付近は船着場になっていて、その先は狭く暗くなっている。奥からはと水が滴るような音もする。
 先日『山陰中央新報』にこの場所の写真が載っていて、ふと気づいたことがある。それは、入り口付近に現在は小さい祠があるが、私が行ったときは、写真のように説明の看板だけで、そういったものはなかった。
 私は、即刻次のような詩を作って写真とともに中国新聞社に送った。


     黄泉の洞穴

  地に
  地虫が穴を穿てば
  黄泉の国に雫をもたらす
  地層は
  太古のままの横穴
  海人部の原始の火は
  絶えず紅い
  巌から垂れる闇の血の
  したたりをうけ
  洞穴がにわかに蘇る朝
  そこに海洋の神々の
  末裔が
  終わりを知らぬ
  舞いを始める
  風と
  波と
  雲を忘れた
  濃密な空洞の中
  幾千のさんざめきが
  湿地を這う


 海に向かっている洞穴だから海洋の神々との関係があると言われていたので、自然とこういう詩になった。今改めて読み返しても私は違和感を感じない。いい詩ではないが、雰囲気が私は気に入っている。

 


馬酔木に寄せて

2011-01-23 14:47:10 | 日記
馬酔木に寄せて



 来し方や馬酔木咲く野の日のひかり    水原秋桜子
  

 春はまだか !! 今年はほんとに待ち遠しいですね。我が家の馬酔木は春の準備を着々と続けています。見習いたいと思いました。
 今世の中はすべての部面で曲がり角に立っています。日本は、いや、世界は、同様に大きく左か右に旋回しようとしている。それを食い止めようとしてもだめなんですね。世界的な規模で動いているからです。そんな中、政治的にも経済的にも自国の、自分の属する団体の利益誘導だけを必死に行なおうとしているお方たちがいることは確かです。こういう動きをとるお方は、将来のいずれの頃か分からないけれど、手痛い仕打ちを食らうでしょう。
 資源の奪い合いもそうです。限りがあるということを承知していても極限まで奪い合いをする。地球を食べつくすまでこの争いは続くでしょう。地球がだめになるということを知っていても進めようとする。だめになったらどうするの。人類は自然を征服するなんてできないのです。
 馬酔木はそういう人類の愚かさを目の当たりにして、何かを我々に示そうとしています。それは言葉で表せるものではないのです。蕾を作り花を咲かせる。ただそれだけです。それが宇宙の意志の表現だとは言いません。無償です。無為です。ただ咲こうとしているだけです。花無心に蝶を集む。蝶が来ようが、鳥が来ようが、人間が花を千切ってしまおうが、何も言いません。金剛不壊。これですね。花が美しいのは、超然としているからです。
 馬酔木の蕾を見ていて、私は、生きることはこういうことだと思いました。

 
 
 

グラスに注目 !!

2011-01-19 22:41:19 | 日記
グラスに注目 !!


 
 長らく絵とつきあっていると、面白い事実を発見します。その中の一つの例をここにご紹介いたします。次の画像はある同じ画家の同じ場面を描いた絵の一部分を比較したものです。
 どこが違うか一目瞭然ですね。


  


  


 ワインなのかカクテルなのかよく分かりませんが、上は色がついてないけれど下は赤い色がついていますね。しかと私も確認しました。
 これは重大な問題に繋がる可能性があります。
 つまり、同じ画家が二つの作品を描いたとき、一つには色が不明な洋酒を注いだけれど、もう一つの作品には真っ赤な洋酒を注いだということになりますね。この事実は配色のバランスの上からそうしたのかどうかという問題に繋がりますね。
 何だかややこしくなりましたね。
 仮説ですが、この二つの作品は別の人物が描いたということもありうるわけですね。
 この仮説が真実に繋がるとすれば、どちらかが贋作か模作ということになる訳です。
 いや、前置きが長くなりました。私は、下の作品は確かに真作だということを確かめました。とすると、上の作品は贋作かもしれないということになりますね。
 画家が同じような絵柄で複数の作品を描くということはあると思います。しかし、作品の筆運び、雰囲気からしてこの二つは別人の作品と分かります。こう断定すると、いろいろな問題が派生しますので、これくらいにしておきます。
 事実私は贋作というものにひどく痛い目に遭ったものの一人です。贋作があるということが非常に憎いのです。贋作専門に作っている集団があることは容易に想像できるのです。
 とにかく、絵と向かい合うのも闘いなのです。

カサブランカ

2011-01-17 23:14:46 | 日記
カサブランカ





 我が家にこんな絵があります。恐らくユリのカサブランカだと思われます。まだ額縁がないので、ほこりにまみれています。かわいそうでしかたがないのです。でも、額縁といってもP15サイズともなると、1万円くらいはします。私は、だから、ほったらかしにしているのです。
 作者は、田中擴和。一時宮本三郎に師事した画家です。
 私は、この絵を今年は表舞台に出そうと思って眺めているところです。ということは、思い切って額に入れるということです。そして、玄関に掲げる。やっと一人前になる。嬉しい楽しみです。
 それにしてもどうしてそういう洒落た名前がついたのでしょうか。
 カサブランカはモロッコの商業・金融の中心地。アフリカ有数のグローバル都市でもあります。カサブランカとはポルトガル語、スペイン語で「白い家」を意味するといいます。
 そういえば映画もありました。
 調べてみると、第二次世界大戦にアメリカが参戦した1942年に製作が開始され、同年11月26日に公開されたフランス領モロッコのカサブランカを舞台にしたラブロマンス映画です。監督はマイケル・カーティス。配給はワーナー・ブラザーズ。1943年に第16回アカデミー作品賞を受賞。監督のマイケル・カーティスは監督賞を、脚本のジュリアス・J・エプスタイン、フィリップ・G・エプスタイン、ハワード・コッチの三名が脚色賞を受賞しています。
 何といってもそのキャストがいいですね。ハンフリー・ボガート(リック・ブレイン)とイングリッド・バーグマン(イルザ・ラント)。
 で、その花のことですが、実はは逆輸入種だったんですね。日本で自生しているユリ科の植物の数多くの種類をブレンドしてつくられたようです。カサブランカは、オリエンタル・ハイブリットを代表する花だそうです。カサブランカを生み出す交配で主要な役割を果たしたトカラ列島口之島原産のタモトユリは、自然状態ではほぼ絶滅してしまっているそうです。


 カサブランカの語源は、「白い家」なのだから、その美しい白い花を見て、地中海の海辺の白い家を想像すると、確かに同じイメージでは・・・?とまれ、一つひとつの花は清楚でお洒落な花ですね。初夏から夏にかけて白い花が咲きます。しかし、我が家にはその花が今玄関に生けてあります。季節感がなくなったのですね。
 それにしても、この作品は1969年作です。花が日本に入ってきたのはもっと以前ではないでしょうか。この花はずいぶん昔から日本で作られていたように思われます。いやはや、この絵からいろんなところへ話が飛躍しました。ごめんなさい。