とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 12 新聞販売店

2016-03-30 23:41:57 | 日記
新聞販売店の朝 三豊市の朝を支える人々2006


 昭和30~40年代にAの家は産経新聞の販売店もしていました。屋根の上にはブリキの大きな看板が立ててあり、一目でわかりました。当時の商品は、米穀、肥料、タバコ、飼料、新聞と多岐にわたっていました。ですから、母親は過酷な仕事をこなしていました。バイクで国鉄駅まで新聞の荷物を取りに行き、広告を素早く挟み込み、まだ暗いうちに配達に出かけました。配達員を一人雇っていましたが、半分以上は母親が配達していました。

チラシ入れ


 チラシは前夜にセットしてありましたが、当日の本紙に挟み込む作業は時間との戦いでした。Aと妻は勤めがあるので、しかも父親はできないし、祖母は家事で手いっぱいで当日の仕事は母親と雇いの人との二人の作業でした。雇いの人が急用で休まれると一人でこなしていました。休刊日は昔は年間2日しかなかったので、母親は休みなく機械のように働いていました。
 大晦日は織り込みの量が多くて、家族みんなが手伝っていました。紅白歌合戦を横目で見ながらの作業でした。Aは商売をしている家に産まれたことを恨めしく思うこともありました。雨の日も、風の日も、雪が降ってもこの仕事はは続きました。母は並みの女性ではないとAは思っていました。
 ところが、60代後半から母親にリュウマチの症状が現れ、次第に全身が不自由になりました。それでも、何のこれしきと頑張っていました。そして古希を過ぎると配達もままならなくなり、とうとう寝込んでしまいました。そして・・・死の床に・・・。
 母が残したメモには自分の一生が書き綴られていました。その中に「自分は不幸な女だった」と記してありました。チラシ入れの映像を見ると当時の切羽詰まった日々の記憶がAには蘇ってきます。

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あちこち「SYOWA」 11 白い道

2016-03-23 00:14:35 | 日記
みんなのうた 白い道


 人は歌とともに生き、四季それぞれに似合ったメロディーを胸のうちに秘めている。私にも冬のテーマ曲がある。渋滞と凍結の中、神立橋を渡る苦しさから私を救ってくれた曲である。
 その年の冬も猛烈な寒波が当地を襲ってきた。橋(北神立橋かどうか思い出せない)の東西はいつもの通り何キロもの渋滞。私は車の中で白い巨大な冷凍マグロのようになって並んでいる車の列を眺めていた。すると突如、この閉所から、いや、私を取り巻くすべてから逃れたい!      という衝動を抑えきれなくなってきた。そこへカーラジオから軽やかな若い女性歌手の歌声が流れてきた。「どこまでも白い/ひとりの雪の道/遠い国の母さん今日も/お話を聞いてください……」
 メロディーに聞き覚えがあった。ヴィヴァルディの協奏曲集「四季」の中の第四番「冬」に違いなかった。車窓の外に広がる凍結した出雲平野を白く貫いている大小の農道を見つめながら曲を聴いていると、衝動的な気持ちがしだいに癒されるのを感じていた。
 後でその曲のことを調べてみた。NHKの「みんなのうた」の「白い道」だった。私がその時聞いたのは定時の放送ではなかったかもしれない。だが、歌詞の全体が分かった。三番の初めは、「あしたもこの道/歩きますひとりで/母さんが歩いたように/風の中も負けないで……」。「遠い国」へ旅立った優しい「母さん」を偲びながら、「白い道」を踏みしめて、私も「母さん」のように生きていきます。そういう娘の決意を爽やかに謳いあげた曲であった。
 ……私はその時、渋滞の車列の中で、新聞や米の配達をしながらバイクでひた走って父亡き後も働き続けている母の姿が、凍てついた白い農道の中から浮かび上がってくるのを感じていたのである。その母は、平成九年に「遠い国」の人になってしまった。(2005年投稿)

ヴィヴァルディ 「四季」より「冬」 高音質 FULL


これは原曲です。

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あちこち「SYOWA」 10 Aの恋人たち

2016-03-21 22:33:29 | 日記


 
 山川惣治作画のこの漫画は、アフリカのケニアを舞台に、孤児になった日本人少年ワタルが仲間のマサイ族の酋長やジャングルの動物たちと冒険をする物語です。1951年10月7日から1955年10月4日まで「産業経済新聞」(現:産経新聞)に連載されていました。Aは先ずその絵のリアルさに驚きました。また、主人公ワタルの友達となるケートという少女にあこがれていました。新聞の他の記事には関心はなく、ただこの連載漫画だけは食い入るように見ていました。日本人と野性的な外国人の少女との取り合わせに子ども心ながらジンとくるものを感じていました。初恋と言ってもいいほどの気持ちだったとAは思い出します。

女優 吉永小百合: SAYURI  ・ " Cats - Memory "


 「拳銃無頼帖 電光石火の男」(1960年、日活、木戸礼原作、松浦健郎脚色、野口博志監督作品)という赤木圭一郎主演の映画にかわいい女の子が出ているという噂が学生間に広まっていて、見たい、見たいと誘い合ってAも小倉の映画館に行きました。出てきました。出てきました。Aは思わずため息を漏らしました。上の動画の中に喫茶店の場面が出てきますが、そこのウエイトレスの節子という役柄でした。実はこの映画が吉永小百合の映画初出演の作品でした

◆T14. 赤胴鈴之助 上高田少年合唱団


 このラジオ番組は、1957年にラジオ東京 (現TBSラジオ)でドラマ化され、公募で選ばれた当時(昭和32年)渋谷区立西原小学校6年生の吉永小百合や藤田弓子が出演しました。後に参議院議員となる当時15歳の山東昭子も語り手として出演していて、回によっては生放送や公開録音もありました。
 この番組の中で千葉周作の娘の千葉さゆりが登場します。まことに初々しい声でAはどんな人だろうかと想像していました。上の日活映画の美少女が演じていたということに気付くのはずっと後のことでした。

新諸国物語 紅孔雀


 「紅孔雀(べにくじゃく)」は、北村寿夫原作の新諸国物語の1作として書かれた小説。1954年にNHKで、ラジオドラマ化され、以降、映画やテレビで映像化されました。



 その中に久美という女性が登場しますが、Aはその声に魅かれ、どんな方だろうかと想像していました。後映画化されて久美なる女性を見て一層魅かれてしまいました。勿論ラジオの声優とは違っていたのですが、高千穂ひづるの野性的な立ち居振る舞いにぞくぞくしていました、プロマイドを買って、引き出しの奥にしまって、家族がいないときに出して見ていました。

聞いて下さい私の人生(動画)★藤 圭子


 藤 圭子が活躍するのは、1960年代末から1970年代初頭にかけてです。この歌い手はその美貌もしかりだが、不世出の才能を持っているとAは思っていました。スタジオに彼女が入るとスタッフたちはそわそわしたと言われています。それほどの美貌の持ち主でした。惜しくも早世しましたが、唄った声と映像は我が国の歌謡史に永遠に残っていくとAは信じています。宇多田ヒカルの「ヒカル」という名前には、彼女の母が目が不自由だったからそういう苦労をさせないようにという思いが込められているそうです。Aは飲み屋で酔っぱらうとすぐに彼女の歌を唄いました。またかぁ。周りの人たちはそう言いました。でもめげずに歌い続けました。中でも上の唄は好きでした。

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あちこち 「SYOWA」  9 パイナップル

2016-03-10 00:33:09 | 日記
異国の丘


 Aは昭和19年の生まれ。ということは父親は第1回目の召集が解除され昭和18年ごろは家にいたことになります。その後第2回目の召集があり、鹿児島県都城に行くことになりました。そこで病を得て、所謂傷痍軍人として別府で療養していました。家には白衣を着たたくさんの兵隊が写っている写真があります。都城には明治41年(1908)より旧陸軍連隊本部が置かれ、軍とのつながりが強かったのですが、太平洋戦争末期には特攻基地が設けられ、特攻機が飛び立って行きました。また、市街地も空襲により大きな被害を受けました。父は所謂特攻隊員ではありまんせでした。
 父親の階級は陸軍主計伍長でした。国内の浜田連隊では最初は速射砲の部隊に所属していましたが、のち試験を受け主計として糧秣廠に所属し主計として旧満州に出征しました。業務は主として軍隊の食糧、衣服、日用品等の調達・管理・加工でした。


 糧秣とは、「糧」が兵士の食糧、「秣」が軍馬の餌のことを意味し、つまりレーションと飼料にあたる。ここで行われていた業務はそれらの調達・配給・貯蓄である。それに加えて牛肉缶詰や搗精(精米)作業つまり製造も行われ、更に精米や缶詰の試験・検査の技術的な研究も行われていた。
 糧秣廠は、本廠が東京深川越中島に、支廠は大阪天保山・札幌苗穂・満州に置かれる。本廠の派出所あるいは出張所も存在した。その中で宇品は大阪とともに初期から存在した支廠の一つにあたる。また広島には糧秣の他、被服支廠と兵器支廠と陸軍3支廠が揃っていた。
 現在は一部建物が広島市郷土資料館として用いられている他、モニュメントとして部分的に残されている。[Wikiより] 


家には父親の軍隊時代の写真がたくさんあります。中でも自転車に乗って仕事をしている写真とどこか日本軍が征服した都市の瓦礫の上で首のとれた仏像と並んで写っている写真は引き伸ばしてパネルに貼って保存してあります。他にも軍服姿の写真や仕事着で写っている写真が数十枚写真帳に貼ってあります。表紙には金文字で浜田連隊入隊記念と記してあります。浜田連隊から貰ったアルバムだと思われます。
 父は前線での実戦の経験は少ないようでした。しかし、食糧の補給を絶つために糧秣廠が攻撃されたこともあると思われます。ですから常に戦える準備はしていたことでしょう。
 父が体験した戦争はどのようなものだったか。Aは幼いころよく父親にねだって聞き出していました。その時の父親が語る戦争体験は自分の使命感に燃えていた姿を色濃く投影させていました。階級の上下が厳しく、上官が通ると直立不動の姿勢をとって敬礼したそうです。星一つの差が絶対的な意味を持っていたことをAは興味深く聞いていました。それから、銃には菊のご紋が付いていて、銃を持って演習するときはそのご紋を傷付けないように気を使ったそうです。また、兵隊が敵の銃弾を受け死ぬときは「天皇陛下万歳」と叫ぶように言われていても、そういう時には大概の兵隊は「お母さーん」と言って倒れたとか言っていました。前線で怖くて退却するとその場で銃殺されたとも言っていました。銃の引き金を引く時は「暗夜に霜の降るごとく」静かに落ちいて引いたそうです。父親は敵を、人を、殺しただろうか。Aはそのことが気になっていました。しかし、そのことは具体的には話しませんでした。あくまで自分が見た経験として話していました。
 旧満州の冬は過酷でビール壜が破裂して困ったと言っていました。Aは戦場にビールがあったのが不思議でなりませんでした。父親の話にはよく「くーりー[苦力]」という言葉が出てきました。仕事を進める上で中国人をたくさん使っていたのではと思っていました。戦後間もないころ戦友が訪ねてきました。その戦友は父の焦点が定まらない目に気付くと「お前どうしたんだ」と言って涙を流していました。一晩泊まって帰って行きましたが、何回も何回も「悲しい、悲しい」と呟いていました。
 Aは父親が鹿児島から帰ってきた日のことを忘れることはありません。母親の実家で遊んでいると、母が「お、お父さんが帰ったきた」と叫びました。玄関まで走っていくと、軍服姿の父が直立不動の姿勢で敬礼をして「ただ今帰りました」と大声で言いました。Aは一瞬ひるんで抱きつくことができませんでした。「何にもないので、これしか持って帰っていません」と父親は背嚢の中から缶詰を数個取り出しました。母親が缶切りで開けるとパイナップルが黄色く輝いていました。この情景は夢のような映像と後日母親から聞いた事実とを合わせてAは記憶の奥底に今でも大切にしまっています。昭和20年10月の出来事でした。
 
 
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あちこち 「SYOWA」 8  コメの配達

2016-03-01 23:37:23 | 日記
清平橋米店


上のような動画を見ると、コメ粒の流れに見入って、しばしAは何も言えなくなります。

 戦後まもなく製麺工場をやっていたことは以前述べましたが、その後、精米してコメを販売する米屋に転業しました。と言っても祖父は早死にしていましたし、父は目が見えなくなりましたので、他の女と子どもが主たる労働力でした。それでも父は精米の仕事を手探りで何とかやっていました。ですから小学校時代のAは学校から帰るとコメの配達を手伝いました。
 子ども自転車を買って貰い、荷台を頑丈なものに付け替えて貰って木綿袋に15キロくらいを乗せてよろよろと走らせていました。高学年になると、紙袋で配達するようになりました。慣れると30キロくらいは配達出来ました。子どもにとっては相当の目方でしたがそれでも持ちこたえて配達していました。
 当時のことを思い出しても苦しいとか辛いなどとは思っていなかったようです。むしろ楽しい仕事でした。と言うのもいろんな家の中の様子を見ることが出来たからです。造り酒屋の家はずっと奥まで広い土間が続いていて木製の大きくて頑丈な米櫃が置いてありました。30キロのコメを抱えて運び、糸をほどいて持ち上げて零れないように流し込みます。酒の仕込みの時期には杜氏さんが泊まり込みで仕事しておられたので数回往復しました。代金を現金で頂いたときはいい働きをした満足感でいっぱいになりました。その家は大口消費者でしたから奥さんが愛想がなくてもウキウキしました。
 中には駄賃としてお菓子を新聞紙に包んでくれる家がありました。今度はどんなお菓子だろうかと想像しながら運びました。親切な御婆さんでした。辛かったのはあまり豊かそうではない家への配達でした。代金をなかなか出してくれないのです。あちこちから集めてやっと出してくれました。時には今度の配達の時に一緒にしてねと言われたときもありました。
 今夜炊くコメがないから早く持ってきてといつもの家から電話がありました。父はその家から電話がかかると「あそこのおばさんは出来が悪いけんのー」と愚痴をこぼしていました。
 ある日、こんなことがありました。
 20キロを木綿の袋に詰めて出かけたのですが、着いて荷台を見るとコメが半分くらいになっていました。いつもより軽いなあと思っていたので合点しました。コメが一筋道路に線を描いて続いていました。コメの袋の端が車輪のスポークに擦れて穴が開いていました。しかしどうしよう。叱られる。困った。そう思っていると、玄関からおばさんが出てきて「ありゃ、大変だ」と呟きました。「いいけん、いいけん、お金をあげるけん。黙ってかえー(帰る)だわ」と言ってお金をくれました。Aは「帰ってまた持ってきます」と言いましたがそのおばさんは「いいけん、いいけん、黙っとーだわ」と言いました。Aは帰ってから勇気を出して母に言いました。母は「しかたがない。親切に甘えるわけにはいかないからねえ」と言ってまた20キロ計って持たせてくれました。・・・お陰で地域の家のほとんどの人が顔見知りになりました。(子どものころは確か尺貫法だったと思いますが、分かり易いのでメートル法で表しています)

 今はAの家はコメの商売はしていませんが、Aはコメと聞くといろいろなことを思い出すのです。
 
 
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