とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

1944

2010-08-18 22:53:57 | 日記
1944







 もし、生まれた直後からの記憶が大人になってからも完全に残っていれば、人間はもっと違う生き方をするかもしれない。
 しかし、残念ながら想起できる記憶は3歳くらいからである。だから写真の姿や両親の話などを総合して人生の出発点の状況を自分で形作るしかない。だが、写真もないし、語ってくれる肉親もいないという人が世界にはたくさんいる。
 1944。この数字を斐川町の図書館の絵本コーナーで見つけたとき、私はその場に釘付けになった。「わたしが1944年に生まれたことはたしかです。でも、誕生日がいつであるのかはわかりません。生まれたときにつけられた名まえもわかりません。」。そう語っている人は、ドイツでその年に生まれたある女性である。ユダヤ人の彼女は生後二、三か月のときに、ダッハウの強制収容所に向かう貨物列車の小窓から母親の手によって外に捨てられる。それを見つけた人がある女性に赤ん坊を預ける。その女性は命がけでその子どもを家族として育てる……。
 「お母さまは、自分は『死』にむかいながら、わたしを『生』にむかってなげたのです。」。成長してからその人は列車の小窓から我が子を投げ捨てるときの母親の心情をそのように想像して語っている。夫とともに死に向かって走っていることを察知した母親の究極の決断が「汽車から外にほうりなげ」ることだったのである。
 1944年3月5日。私が生まれた日である。家には生後数か月だと思われる写真がある。母に抱かれて玩具の太鼓を持って甘えたような笑顔で写っている。食糧事情が極めて悪い日本であったが、母乳に恵まれていたそうで丸々と肥っている。……捨てられた赤ん坊と私。この境遇の違いは……。私は胸を締め付けられるような気持ちがした。
 私が出合った絵本は、『エリカ・奇跡のいのち』(文/.ルース・バンダー・ジー 絵/ロベルト・インノチェンティ 訳/柳田邦男)という絵本である。
       (2006年投稿)

「お」は何処へ……

2010-08-18 22:51:00 | 日記
「お」は何処へ……



「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に……」。これは、かの『源氏物語』の書き出しの部分である。私たち国語の教員は、「御(おほん)時」を「帝の御代」という風に訳し、「御時」を天皇に対する敬意を表す尊敬語として生徒たちに教えていた。この「御」という語が今話題になっている。
 「御」という語は、「お堀」、「ご飯」、「御仏(みほとけ)」、「御身(おんみ)」という例でも分かるように、現代では「お」、「ご」、「み」、そして「おん」という読み方がある。その「御」のつく言葉であるが、二月二日の文化審議会(阿刀田高会長)の答申では、従来、丁寧語として分類されていた「お酒」、「お料理」などの単に上品な感じだけを表現する言葉を「美化語」として区別している。また、従来の謙譲語を「謙譲語Ⅰ」と「謙譲語Ⅱ(丁重語)」に分類した。結果として、敬語の種類が、従来の尊敬語、謙譲語、丁寧語の三種類から五種類になっているのである。
 この答申が教育現場で実施されるまでには、「学習指導要領」の改定を経なければならないので、即座に国語の文法体系が変わるというわけではない。ただ、そうでなくても子どもたちは文法を嫌う傾向にあるので、この方向で進めると、国語嫌いを増やすのではないか、と私は危惧する。そして今、私の頭の中は、「お紅茶」、「おジュース」のような言葉も「美化語」かどうか、という議論が付随して起こるのでは……、という期待と、いや、それは甘いぞ、何でも「お」を付けたがる風潮を助長するのでは……、という予想が交錯している。
 一国の大切な文化である「敬語」の根本を見直そうとする最近の動きを、私は静観できないような気持ちでいる。     (2007年投稿)

立秋の日に

2010-08-18 22:45:03 | 日記
立秋の日に



 「おい、ナメタケとーにえかこい」。そう誘われると、もう何は差し置いても出かけたくなった。「ナメタケ」とか「ノメタケ」とか言っていたキノコは、「ナメコ」のことだろうと思うが、今でもよく分からない。
子どものころの秋の山遊びの一つにきのこ狩りがあった。マツタケ山には荒縄が張り巡らしてあって藪の中に入ることは出来なかったが、その他のキノコ採りはお目こぼしにあずかっていたようである。
 その遊びが懐かしくて、数年前の秋にその里山に行ってみた。しかし、何かの施設が立てられていて、それらしき所を見つけることが出来なかった。未練があったので、再度その場所を確かめるために、この前の立秋の日に反対側のコースから登ってみた。すると、あったのである。ナメタケではない。椎の巨木である。数本ある。昔、その木の下の落ち葉を掻き分けると、ぬるぬるした茶色の小さい頭がびっしり並んでいた。でも、今は随分様子が違う。竹である。林中ぎっしり竹が生え茂って、椎の木に勢いがない。こりゃだめだ。林がめちゃくちゃになっている。
私は諦めて、見通しが利く山の上のほうに登った。すると、ゴルフ場、娯楽施設、大型農道が山の斜面に出来ていて、昔の面影を失っていた。そして、山陰道の工事が進んでいて、あちこちに巨大な橋脚が立ち並んでいる。ひっきりなしにダンプカーが出入りしていて、工事現場では、たくさんの人が汗だくで働いていた。
私は、里山のてっぺんに立ち、変わり行く故郷の山々を眺めた。そして、この国はどこへ行こうとしているのか? などと寂しく思いながら家路についた。ナメタケのことなどはすっかり忘れていた。       (2005年投稿)


年賀葉書

2010-08-18 22:43:49 | 日記
年賀葉書



 退職後の年賀状は枚数を少なくしようと思っていたが、結局昨年末はいつもの通りの枚数を投函した。元日を迎えて届いた賀状を読むと、例年の顔ぶれが揃っていたので私は不義理を免れて安堵した。
 年賀葉書は日本独特の風習だと思っていたが、いつの年だったか、中国からも届いたことがある。サイズはやや大判で日本と同じように抽選番号が付いていた。中国の大学で日本語の指導をしておられたN氏からのものであった。届いたのは二月の中ごろだったかと思う。ご存知のように日本の正月に当たる「春節」は旧暦の元日である。一年中で一番大切な祝日と聞いている。今年は二月九日であるから、故郷中国に向かう「民族大移動」がもう始まっている頃だろう。
 さて、その中国から届いた賀状のことだが、絵柄が印象的であった。大きな桃を小さい子どもが持ち上げている姿が描いてあったのである。桃は不老長寿や邪気を払う力を持っている縁起のいい樹木で、『詩経』には結婚前の若い女性を桃に喩えて祝う「桃夭(とうよう)」という詩がある。この詩の「背後に厄ばらいを願う古代風俗」(『鑑賞中国の古典⑪詩経・楚辞』角川書店より)がうかがえる。『日本書紀』にもイザナギノミコトが、追ってくる悪鬼を桃の実を投げて追い払ったことが記されている。現在の桃の節句も、もともとは桃の実の霊力にあやかった行事である。日本文化の基盤に中国文化の色彩が感じられるのである。
 日本の年賀葉書にも、日本固有の伝統的なめでたい絵柄を刷り込んではどうだろうか。
                                (2005年投稿)

夜行反射材

2010-08-18 22:41:33 | 日記
夜行反射材



 昭和四十年代に私は新聞社の「声」などと名付けられている投書欄に何度となく投稿していた。自分の意見、主張などが掲載されると快い達成感を感じた。採用になれば図書券が送られてくる場合もあった。
 あるとき私は、夜間の歩行者の事故防止のために、車のライトで光るシールのようなものを衣服に付けてはどうだろうか、それが普及すれば夜間の人身事故は減少するだろう、という意見をまとめて送った。ところが、見事不採用となった。ある中央紙だった。
 現在、交通事故の原因の七十㌫は認知ミスだと言われている。夜間に限定するとその比率は増すと考えられる。だから、様々な夜行反射材が普及しつつある。タスキは夜間のウォ―キングには欠かせないものになった。腕や足首に巻きつけるもの、カバンに貼り付けるもの、小さいものでは靴のかかとに取り付けるものなどとバラエティーに富んでいる。実際、車で夜間に走っていると、遠くからでもだれかがいるということが認知できる。夜間工事現場で仕事をしている人、交通整理をしている人はきちんと着用していて、まことに見つけやすい。
 我が家の自転車にはもう購入時に車輪とペダルに反射材が取り付けてあった。また、散歩用の夜行反射タスキも購入した。
そういう普及状況を見るにつけ、私はかつての没原稿のことを思い出す。不採用になったのは、そのころは車が少なくて夜間の歩行者の人身事故が少なかったからかも知れない。しかし、もしあの時私の意見が採用になっていたら、普及に一役買って、救われた命もあったのでは……。私はふと思うときがある。(2005年投稿)