とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」773 千賀かほる「真夜中のギター」

2023-12-31 01:17:11 | 日記
シンプルな哀調が素直に心に染み込んできます。みんな寂しがり屋。千賀さんの素のこころがそのまま滲み出ていて忘れられない曲です。思わず涙がこぼれてきました。(その他多数の懐かしい曲が収録されています。編集者に感謝します。ありがとうございます。)

あの頃の 10Songs - 8 【#L40】


千賀 かほる(ちが かおる 1948年9月25日[1] - )は日本の女性歌手である。鹿児島県大島郡知名町出身。本名:村上千賀子。

人物・経歴
1948年(昭和23年)9月25日生まれ[1]。神戸市の高校を中退後、日本歌劇学校を経てOSK日本歌劇団に入団した。

1969年に『真夜中のギター』でデビュー。同曲で第11回日本レコード大賞新人賞を受賞した。この曲はフォークソングの名曲として親しまれ、後世まで多くのアーティストにカバーされている(真夜中のギター#カバーを参照)。

1971年のシングル曲「雲は旅びと」は、NHK『みんなのうた』で放送された。

近年は『思い出のメロディー』(NHK)、『木曜8時のコンサート~名曲!にっぽんの歌~』(テレビ東京、2016年2月25日放送)など、懐メロ系の歌謡番組に出演している。(Wikipediaより)

あちこち「SYOWA」772 紙ふうせんー冬が来る前に

2023-12-18 15:29:58 | 日記
今は冬。もっと早くアップすべきでした。いい曲ですね。忘れられません。名曲です。切ないです。私の残り少ない命を思うとよけいに切ないです。忘れません。

紙ふうせんー冬が来る前に


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紙ふうせん

ジャンル フォークソング
活動期間 1974年 - 現在
レーベル
東芝EMIキングレコードCBS・ソニーウエストウイングスレコードFFA
事務所 企画制作紙ふうせん
共同作業者
赤い鳥
Hi-Fi Set
公式サイト 紙ふうせん Official Web Site
メンバー
後藤悦治郎
平山泰代
紙ふうせん(かみふうせん)は、1974年(昭和49年)に結成された日本のフォークデュオである。関西を中心に息の長い活動を続けている。

メンバー
名前 生年月日 出身地 備考
後藤悦治郎(ごとう えつじろう) 1946年4月29日(77歳) 兵庫県尼崎市
平山泰代(ひらやま やすよ) 1947年3月28日(76歳) 広島県広島市

経歴
フォークグループ「赤い鳥」のメンバーであった、後藤悦治郎と平山泰代が、「赤い鳥」解散直前に結婚し、解散後に夫婦デュオ「紙ふうせん」として活動を始めた。

2人は兵庫県立尼崎北高等学校の卒業生で、高校時代は同級生であったがほとんど交流がなく、大学入学後に再会した。大学は後藤が京都外国語大学、平山は武庫川女子大学である。

1977年(昭和52年)11月にリリースされた「冬が来る前に」では、翌1978年(昭和53年)に掛けてメジャーヒットを飛ばし、紙ふうせんの代表曲となった。曲を自作するだけではなく、フォークソングの原点を探ろうと民謡など各地の伝承歌の取材を続けている。

「冬が来る前に」の大ヒットにより、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』(1978年2月13日放送)へ出演した時は、サプライズで以前向かいに住んでいた縁で大村崑夫婦から花束をもらった。またTBSテレビ『ザ・ベストテン』(1978年3月9日放送)では、この日8位にランクされたのが唯一の出演となった。

赤い鳥時代の楽曲では「竹田の子守唄」をはじめ、近年は合唱曲としても有名となった「翼をください」、芹洋子の歌でもヒットした「赤い花白い花」、紙ふうせん以降は「いかつり唄」「霧にぬれても」などが知られる。1979年(昭和54年)にスタートした朝日放送テレビ(ABC)の情報番組『おはよう朝日です』の初代主題歌「朝の空」は、15年間にわたって使用された。

1991年には西口美之(西口善之)[1]と青山智美を加えた4人編成のTSU-BA-SAを結成し活動。アルバムを2枚発表したが、その後は再び紙ふうせんに戻っている。

2005年(平成17年)にはNHK教育TVの『趣味悠々〜紙ふうせんのあの素晴らしいフォークをもう一度』の講師として出演。後藤悦治郎は蕎麦通としても知られ、また熱心な阪神タイガースファンで「関西に移って一番良かったのは後楽園球場から遠くなったこと」だと音楽番組の中で冗談を飛ばしている。西宮市甲子園口に在住し、関西テレビ『よ〜いドン!』で月亭八光が訪問している。(Wikipedia)


あちこち「SYOWA」(番外) 中島みゆき、名曲「糸」「ファイト!」「時代」など圧巻の歌声を披露! 劇場版ライヴ・ヒストリー 2007-2016 歌旅~縁会~一会

2023-12-12 16:48:11 | 日記
消されるかなあ。これも。今までたくさん消されてきました。黒くなった画面を見るにつけ、悲しくなりました。ああ、これもかも。でも、私は続けます。一時でもかつての唄を聴いて楽しんでもらいたいからです。

中島みゆき、名曲「糸」「ファイト!」「時代」など圧巻の歌声を披露! 劇場版ライヴ・ヒストリー 2007-2016 歌旅~縁会~一会


中島 みゆき(なかじま みゆき、1952年〈昭和27年〉2月23日[2] - )は、日本のシンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。北海道札幌市出身[2]。本名は中島 美雪(読み同じ)。1975年にシングル「アザミ嬢のララバイ」でデビューした。公式ファンクラブ名は『なみふく』。

オリコンにおいて、4つの年代にわたってシングルチャート1位を獲得した唯一のソロ・アーティストであり、他のアーティストへの提供曲が、5つの年代にわたってオリコンシングルチャート1位を獲得している(後述参照)。また、自身の歌唱も含めると、作詞・作曲を手掛けた作品が5つの年代にわたってオリコンシングルチャート1位を獲得したことになる。

経歴
幼年期 - デビュー前
祖父は帯広市議会議長などを務めた中島武市[3]で、初代大蔵次官である郷純造男爵の甥。父・眞一郎は北海道帝国大学医学部出身の産婦人科医で中島産婦人科院長。札幌市に生まれ、5歳の時に岩内に引っ越し、11歳までを岩内で過ごす。帯広に移り、市立帯広小学校を卒業、市立帯広第三中学校に入学する。1966年の夏には体調不良の母親が実家で一時療養するのに合わせて山形市に移り、市立第六中学校に通うが、高校受験のため4カ月で帯広に戻る。その後、帯広柏葉高校、藤女子大学文学部国文学科卒業[2]。

高校3年時の文化祭(第20回柏葉祭・1969年9月1日)で初めてステージを踏む。この時歌ったオリジナル曲は、「鶫の唄」。大学時代は放送研究会に所属し、ローカルラジオ局でスタッフのバイトなどをする。北海道大学フォークソングのメンバーと交流を持ち、活発に音楽活動を展開、「コンテスト荒らし」の異名をとった。「フォーク音楽祭札幌予選」では「私の窓から」を歌っている[注 1]。1972年には「フォーク音楽祭全国大会」に出場し、「あたし時々おもうの」で入賞している。この時の音源は大会実況版としてLP化されている[注 2]。

後年、コンテストに出場したのは交通費や弁当代が支給されるので、バイト代わりであったと述べている。大学卒業後は帯広に帰り、家業を手伝うかたわら、アマチュア活動を続ける。ジャズ喫茶オーディオのマスター、渡辺晃が主催した「自由集団」の企画で多くのステージを踏んでいる。 デビュー前に地元では既に多くのファンを獲得しており、オリジナル曲は既に100曲以上存在していたが、それらの一部は現在でも音源化はされていない(後述の「未音源化楽曲」を参照)。

デビュー - 1970年代後半
1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による『第9回ポピュラーソング・コンテスト』に「傷ついた翼」が入賞した[4]。9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコードからレコードデビューを果たす。1975年10月の『第10回ポピュラーソング・コンテスト』に「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞し[5]、11月の『第6回世界歌謡祭』でもグランプリを受賞した[6]。「時代」は12月に2作目のシングルとして発売。これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一に見出される[7]。その後中島は川上を現在に至るまで師父のように仰いでおり、中島のアルバムには、今日に至るまで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD 川上源一」と記載されている。ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージシャンが多い中で、中島はヤマハをそのまま自分の拠点としている数少ないミュージシャンである。

1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表。その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けている。同年には研ナオコに提供したシングル「LA-LA-LA」と「あばよ」が大ヒット、ソングライターとしての名を世間に知らしめる。同年大晦日『第27回NHK紅白歌合戦』で研ナオコが「LA-LA-LA」で出場、一挙に認知度を広める[注 3]。翌1977年には歌手としても「わかれうた」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにした。作詞家・作曲家としても、先述の研ナオコに提供した「かもめはかもめ」をはじめ、桜田淳子「しあわせ芝居」、増田けい子「すずめ」など数多くのヒット曲を世に送り出し、大きな成功を収めた。

数少ない出演番組の一つとして1977年から放送された『コッキーポップ』がある。その中で披露された「時代」では第6回世界歌謡祭グランプリ受賞の様子がインサートされ、「この空を飛べたら」においては加藤登紀子と共演している。

歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められている。1981年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングルカットされなかったにもかかわらず中島の初期の代表曲の一つとなっている[8]。『親愛なる者へ』以降、1985年発表のアルバム『miss M.』までの8枚のスタジオ録音アルバムは連続でオリコンのアルバムチャートで1位を獲得している。1977年発表のアルバム『あ・り・が・と・う』から1996年発表のアルバム『パラダイス・カフェ』までの22枚のスタジオ収録アルバムは連続で同チャートで10位以内を獲得している。

1980年代
1979年、ニッポン放送『中島みゆきのオールナイトニッポン』(月曜1部)がスタートし、番組においての軽妙な語り口がリスナーの間で大きな人気を集めた。1980年代前半にはミュージシャンとしてさらに大きな人気を集めており、1981年のシングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位を獲得し、1982年の年間チャートでも6位を記録、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『寒水魚』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達した。1983年には柏原芳恵に提供した「春なのに」が大ヒットし、第25回日本レコード大賞の作曲賞を受賞した。

以降アルバム・セールスは下降線を辿り、1980年代中期から後期にかけてはサウンド・アプローチや作風そのものについてもひたすら模索する時代が続いた。甲斐バンドの甲斐よしひろやクリスタルキングなどをプロデューサーに迎えてアルバムを制作したり、テッド・ジェンセンやラリー・アレキサンダーなどによるニューヨークでのミキシングなどに臨んでいる。1985年発表のシングル「つめたい別れ」ではスティーヴィー・ワンダーの吹くハーモニカを大々的にフィーチャーしている。中島は後年になって模索に励んだ1980年代中期[注 4]を振り返り、「御乱心の時代」と称している。自らのレコード・セールスが伸び悩む一方で、職業作家としては工藤静香の「MUGO・ん…色っぽい」、「黄砂に吹かれて」などの作詞を担当した[注 5]。

「御乱心の時代」は、1988年のアルバム『グッバイガール』のプロデュースを手がけた瀬尾一三との出会いによって収まることとなる。中島にとって「これまで自分がやってきたあらゆるスタイルに対処してくれる」という瀬尾は適任らしく、現在に至るまでの全てのオリジナルアルバムでアレンジ、プロデュース、演奏に携わっている。1989年からは、瀬尾が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台「夜会」(やかい)をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようになる。「夜会」は中島にとってのライフワークともいえる舞台となり、1998年に一旦、年一回の公演という形を終了し、その後は不定期で上演されている。

1990年代
1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやCMとのタイアップによってミリオンセラーを記録するシングルが後を絶えなかった。中島みゆきも例に漏れず、ドラマ『親愛なる者へ』の主題歌「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録している。なかでも安達祐実主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空と君のあいだに」は147万枚のセールスを記録した。1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、中島にとっての最大級のベストセラーである。

この時期のアルバムはシングルほど芳しい成果を上げるわけではなかったものの、1980年代後半よりも安定した成績を収めた。『EAST ASIA』から『パラダイス・カフェ』までの5作は全て20万枚以上のセールスとなっている。1996年にはベストアルバム『大吟醸』がオリコンのアルバムチャートで1位を獲得し、日本における女性ソロアーティストのアルバムチャート1位獲得の当時の最高齢記録を更新した[注 6]。

1989年から始めた舞台「夜会」に自身がかけるウェートはより大きくなり、1995年以降に上演されたものは書き下ろしの新曲を中心に構成され、より大掛かりなものへと変貌を遂げた。

1999年には文部科学省の国語審議会委員を務めた[9]。この審議会の委員を務めた(シンガー・ソングライター)歌手は中島みゆきだけである。

2000年代以降 -
2000年には25年にわたって在籍したポニーキャニオンを離れ、当時創設されたばかりで自らが取締役・主要株主として経営にも参画するミニ・メジャーのレコード会社・ヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍。以降現在に至るまでヤマハから作品を発表している。

移籍後最初にリリースされた中島のシングルが、NHKのテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の主題歌「地上の星/ヘッドライト・テールライト」である。中島の作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週にわたってランクインするという驚異的な記録を打ち立てた。

発売当初は話題にならなかったが、『プロジェクトX』の人気が高まるとともに注目され、アルバム『短篇集』には、1曲目が「地上の星」、ラストが「ヘッドライト・テールライト」という構成で収録された。このアルバムの発売にあたっては、ジャケットの仕様をめぐり岩波書店からクレームがつき[注 7]、発売直前になって急遽デザインが差し替えられるというハプニングも起こった。

このロングヒットをきっかけに中島は2002年の第53回NHK紅白歌合戦に出場。『プロジェクトX』内でもとりあげられた黒部ダム(黒部川第四発電所)からの中継で「地上の星」を歌った。このときに初めて「動く中島みゆき」を見た人も多く、番組中最高の歌手別視聴率(52.8%:ビデオリサーチ調べ/関東地区)を記録。極寒の中で極度の緊張から2番の歌詞を間違えたにもかかわらず反響は大きく、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は翌年1月、発売から2年半近くを経てシングルチャートナンバーワンに輝いた。これはオリコン始まって以来のリリース後最長期間(130週)を経た1位獲得記録である。同時に、1970年代 - 2000年代まで4年代連続の1位獲得となった。

2005年12月28日には『プロジェクトX』の最終回に出演[10]。スタジオで同番組エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を熱唱した。その影響で2006年1月16日、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は、2004年2月2日以来のオリコンシングルチャート100位圏内返り咲き(66位)を達成。通算オリコンシングルチャート100位圏内チャートイン記録を183週に延ばした。

1990年代前半から本格的に行うようになった海外でのレコーディングは2000年代からは主流となっている。近年では、アレンジ等にベックの父親として知られるデヴィッド・キャンベルや、ヴィニー・カリウタ、ニール・スチューベンハウス、マイケル・トンプソンなどといった有名スタジオ・ミュージシャンを迎えてアルバムを制作するのが毎年恒例となっている。

1998年に一旦休止した「夜会」は2000年から再び不定期で行われるようになり、2006年の「Vol.14 24時着00時発」は、東京においてはこれまでのシアターコクーンではなく青山劇場で、大阪では初めてシアターBRAVA!において上演された。

2006年、第56回芸術選奨 文部科学大臣賞を受賞した。「コンサートツアー2005」が評価されてのこと。シンガーソングライターとしては初の受賞者。同年には、TOKIOに提供した「宙船(そらふね)」の作詞が評価され、第48回日本レコード大賞の作詩賞を受賞した。

2007年8月から新設のヤマハミュージックアーティスト(現:ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)がマネジメントを行う。秋には2年ぶりの全国ツアー「コンサートツアー2007」が行われた。

2009年11月3日、紫綬褒章を受章[11]。中島は受章に際して、

「 思いがけずうれしいことの表現に『棚からボタ餅』と申しますが、今の私の気持ちは『棚から本マグロ』くらいの驚きでございます。ふつう、何かを頂けそうな場合には2度くらいは辞退して、それでもとおっしゃるならちょうだいするのがマナーなのでございましょうが、褒章となりますと『ふつう』ではないことですので、辞退なんかしたら二度とこんな機会はないかもと思いまして、即座に『いただきます!』と、お返事してしまいました。 」
—[12]

とコメントした。

2010年10月から2011年1月まで3年ぶりの全国ツアー「中島みゆきTOUR2010」が27公演9会場で行われた。このツアーから各公演の様子を伝えるTwitterを開始した[注 8]。

2012年10月から2013年2月まで全国ツアー「中島みゆき縁会2012〜3」が27公演12会場で行われた。また、2013年11月から12月まで「夜会工場」と称するガラコンサートを開催した。

2014年9月よりNHK連続テレビ小説『マッサン』の主題歌として「麦の唄」が使用され、同年12月31日の第65回NHK紅白歌合戦にも出場し、同曲を歌った。中島にとっては2002年以来12年ぶり、2回目の紅白歌合戦出場となった。


2023年9月15日に公開されるアニメーション映画『アリスとテレスのまぼろし工場』の主題歌に『心音(しんおん)』が採用された[13]。中島にとって、キャリア初のアニメソングとなった[14]。(Wikipediaより)


あちこち「SYOWA」771 岩崎宏美 - 聖母たちのララバイ - 1982

2023-12-09 18:34:41 | 日記
いや、安定した歌唱力、引き込まれます。声質に奥行きがあり、体全体で唄っているという印象です。聖母。すべての女性は聖母です。今になってもその思いは変わりません。

岩崎宏美 - 聖母たちのララバイ - 1982



岩崎 宏美(いわさき ひろみ、1958年11月12日 - )は、日本の女性歌手。愛称はヒロリン。岩崎良美は妹。東京都江東区深川出身。所属事務所は芸映プロダクションから、後にスリー・ジーに移籍。レコード会社はビクターから、インペリアルレコード(テイチクエンタテインメント)に移籍。元夫はミュージカル俳優の今拓哉。


芸能界デビュー
1975年4月25日、「天まで響け岩崎宏美」のキャッチフレーズでシングル「二重唱 (デュエット)」にてデビュー。同期デビューの女性歌手では小川順子、太田裕美、岡田奈々、片平なぎさなどがいる。2枚目の「ロマンス」が90万枚近い大ヒットとなり、「心のこり」の細川たかしとともにこの年の新人賞を多数受賞する。また同年末の第26回NHK紅白歌合戦に、紅組歌手のトップバッターとして初出場を果たし「ロマンス」を歌唱した。

1976年3月、3枚目のシングル「センチメンタル」が第48回センバツ高校野球大会の入場行進曲に初めて選ばれる。後に妹の良美も1986年に「青春」(テレビアニメ「タッチ」副主題歌)が第58回センバツ高校野球大会の入場行進曲に選出されており、姉妹ともに同大会入場行進曲に選ばれた唯一の歌手となっている。堀越高等学校在学中は、午前中は高校に通って授業を受け、午後からは芸能活動という日々で、都内の仕事場へはプロダクションの送迎車ではなく自力で電車移動していた。

1977年3月に堀越高等学校を卒業。同期生には森昌子、岡田奈々、池上季実子などがいる。同年秋に発売された初のバラード「思秋期」がヒットし、第19回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。1979年7月にはロックミュージカル『ハムレット』にオフィーリア役で出演した(中野サンプラザホール、ハムレット役は桑名正博)。

ドラマ主題歌のヒット
日本テレビ系の2時間ドラマ『火曜サスペンス劇場』(1981年9月放送開始)の主題歌として、1982年に発売された「聖母たちのララバイ」が発売後2週目でオリコンチャート週間売上1位を獲得し、80万枚を売り上げる大ヒットとなった。同年11月には日本歌謡大賞を受賞する。

また翌1983年3月には同曲が、第55回センバツ高校野球大会の入場行進曲として再び採用された。

「聖母たちのララバイ」の作曲者は、発売当初は木森敏之とクレジットされていたが、発売2年前に公開された米映画『ファイナル・カウントダウン』BGMの一つ「ミスター&ミセスタイドマン」(Mr. and Mrs. Tideman) との類似性が指摘され、後に「木森敏之・John Scott」と併記されることになった。このため日本レコード大賞では外国人作家が関係する楽曲は選考対象外であったことから、同年末の第24回日本レコード大賞ではノミネートに至らなかった。

『火曜サスペンス劇場』では1981年9月から1987年11月までの6年間にわたり、「聖母たちのララバイ」「家路」「橋」「25時の愛の歌」「夜のてのひら」の5曲が主題歌として採用された。その後も1992年10月から1993年9月にかけて「愛という名の勇気」が主題歌となった。(Wikipediaより)


あちこち「SYOWA」770 ロミオとジュリエット 1968年

2023-12-06 17:36:25 | 日記
伝説の美人女優。いつまでも語り続けられることでしょう。布施明さんと結婚。これも記憶に残っています。

ロミオとジュリエット 1968年


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オリヴィア・ハッセー
Olivia Hussey
(2007年)
本名 Olivia Osuna
生年月日 1951年4月17日(72歳)
出生地 アルゼンチンの旗 アルゼンチン・ブエノスアイレス
国籍 イギリスの旗 イギリス
職業 女優
ジャンル 映画、舞台、テレビ番組
配偶者 ディーン・ポール・マーティン(1971年 - 1978年)
布施明(1980年 - 1989年)
デヴィッド・アイズリー(1991年結婚、現夫)
主な作品
『ロミオとジュリエット』
『暗闇にベルが鳴る』
『ナイル殺人事件』
『サイコ4』
『IT/イット』

オリヴィア・ハッセー(Olivia Hussey [ouˈliviə ˈhʌsi], 1951年4月17日 - )は、イギリスの女優。アルゼンチンのブエノスアイレスの生まれ。オリビア・ハッセーの表記の方が一般的である。映画雑誌『スクリーン』ではオリビア・ハッシーと表記していた。

来歴
父はアルゼンチンの有名タンゴ歌手オズヴァルド・リボ(1927〜2015)。2歳の時両親が離婚し、8歳で母の母国イギリスに渡る。

ドラマ・スクールで学び、ロンドンの舞台に立っていたところをフランコ・ゼフィレッリ監督に見出され、1968年、ウィリアム・シェークスピア原作の映画『ロミオとジュリエット』で人気女優となるが、その後は役に恵まれず、テレビ出演が主となっている。

2003年、映画『マザー・テレサ』(Madre Teresa)で「この役を20年間待ち続けた」というマザー・テレサの役を演じ、スクリーンに復活を遂げた。「シェイクスピアのジュリエットを演じ、聖母マリアを演じ、マザー・テレサを演じることができたなんて幸運としか言いようがない」と語った。

プライベート
私生活ではディーン・マーティンの息子のディーン・ポール・マーティンと1971年に結婚し、1973年に男児をもうけたが、1978年に離婚。カネボウ化粧品のCMに出演した際、そのCM曲「君は薔薇より美しい」を歌った歌手の布施明と1980年に結婚。1983年に男児をもうけたが1989年に離婚している。その後、ヘビーメタルバンドジェフリアのヴォーカルのデヴィッド・アイズリー(David Glen Eisley)と結婚。1993年にのちに女優となるインディア・アイズリーをもうけた。