とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

笑顔は私を勇気付ける

2010-10-30 22:58:20 | 日記
笑顔は私を勇気付ける



 一日に何回かは笑いたいと思っている。腹筋がよじれるほど。
 しかし、笑うような出来事が少ないのが現実である。社会情勢、政治、経済等々暗くなるような出来事が多い。
 ところが、最近続けて素晴らしい笑顔を見させていただいた。
 女子バレー連勝!!
 いやいや、これはすごいですね。木村選手を中心とする日本チームが飛び上がって喜んでいる姿を見ていると、私は自分のことのように嬉しくなった。私は、スポーツの中ではバレーに一番関心がある。自分がやっていたこともあるし、生徒を指導したこともあるからである。昔のことだけど。
 また、スケートの新人村上佳菜子選手のこぼれるような笑顔。特にSPで見せた笑顔は最高でした。日本にもこういう肩の力が抜けている選手がいたことが意外だった。スケートに希望の光を見たような気がした。
 また、将棋で史上最年少で三冠となった里見香奈さん。清水王将から次々とタイトルを奪いました。このお方は島根の出雲の出身。和田投手、錦織圭選手も活躍しているが、この里見香奈さんは安定した実力を示し、どんどん力をつけている。頼もしい限りである。花束を抱えて素晴らしい笑顔を見せていた。
 連ドラ「てっぱん」の「あかり」の涙と笑顔。これも私をひきつけてやまない。こんな前向きな女性の生き方を見ていると、おいおい、どうした男は、と考えてしまう。
 ついでに、このドラマで際立ったベテランの演技を見せて、存在感を感じさせるのがおばあさん役の藤純子である。私は、昔、近衛十四郎の『柳生武芸帳』シリーズ(1961 - 1963年)に女剣客として出ていて新しい女優としての魅力を感じていた。その後は任侠ものに出て人気が増してきた。いわゆる「緋牡丹博徒」の姐御としてのイメージが心に焼きついていた。
 しかし、このドラマでは頑固で一途なおばあさんとして登場する。私は以前のイメージとの落差を感じて最初はええっ!!という感じで、馴染めなかった。しかし、何と、すごい役者である。複雑な過去を背負った女性役を見事にこなしている。めったに笑顔を見せないが、こっそりと笑顔を見せる、その姿がいい。
 いやいや、男性にも素晴らしい笑顔を見せたお方がいろいろおられた。ドラフトで注目されていた斉藤投手、男子体操選手団。いい笑顔でした。
 こういう笑顔が日本を明るくする。私は、次の笑顔を楽しみにしている。
 
 

出品者の知識は?

2010-10-29 22:58:08 | 日記
出品者の知識は?




 相変わらずオークションの作品の画面を眺めている。時には面白いことを発見する。
 「版画・能(仮題)」とタイトルがあり、平安末期の装束の女性像が描かれていた。袴を着けていて、髪は床まで伸びている。座ってはいるが、手には舞い扇を持ち、左側には小鼓が置かれている。だから、「能」とは違うのではないのか、と私は思った。能を女性が舞うことがあったのか? 私はよく分からないが、全体の雰囲気は「能」らしくない。白拍子が舞い支度をしているような感じである。
 それから、落款を見ると、「鞆○」とある。聞いたことのある雅号だな、と私は思った。二文字目は何だ?よくよく見ると、「音」とも読める。すると、「鞆音」だ。えっ! 鞆音!
 私は驚いた。小堀鞆音だ! こぼりともとだ! 四千円。こりゃ廉い。もしかして印刷かも……。などと一人ではしゃいでいた。
 それにしても、出品者はもっと勉強しなくてはいけないな。と私は自分のことは省みずにそう思ったのである。今まで見た作品の中には、作品の署名がひどく崩してあって、「達筆すぎて読めません」と断って、作者不明として出品してある作品もあった。その中にすばらしい作品が隠れていることがある。銀汀。小林銀汀もそうだった。かの種田山頭火の友人(俳人)である。
 私はお金を持て余しているわけではない。月々の小遣いを節約して入札しているのである。だから、その出品者の無知ということが、私の手助けになっていることもある。貧者の助け神である。

イタチ

2010-10-29 22:43:27 | 日記
イタチ



 一生に一度しか訪れない瞬間だったかもしれない。ある朝いつものように私が新聞を取りに玄関に出かけ、抜き取ってそのまま立ちながら拾い読みしていた。すると、私の足もとをするりと通りすぎたものがあった。私があっと思ったときには、その生きものは家の前の歩道脇の側溝に出てその蓋の穴を覗いた。そして長い首を立てて周囲を伺っていた。
 イタチだった。長い首を伸ばして、小さな頭をもたげ、愛くるしい表情で身の周りの安全を確かめている様子だった。細長い胴体、短い足、長い尻尾。茶色のふわふわした毛に包まれたその姿は私の眼を釘付けにした。初めて間近で見た驚きで私はしばらく息を凝らして見入っていた。ほんの十数秒くらいの時間だったと思うが、長い長い時間が過ぎたように感じられた。
 台所に帰って妻にそのことを話した。妻は二三回見たことがあるという。私は車の中で道路を横切る姿を何度か見たことがある。すばやい身のこなしであっという間に横切って逃げていった。あるときは無残に潰れて道路脇に転がっているのを見た。しかし本当は人懐こい性質の小動物かもしれないと私は思った。
 日本画家の誰かがイタチが首をもたげてちっこい丸い眼で辺りの様子を伺っているその姿態の特徴を旨く画面に定着させていた。私はその絵の作者を思い出そうとした。しかしどうしても思い出せなかった。イタチはその絵の通りの格好を私にして見せてくれたのである。私は初めてその画家の目の確かさに気づいた。
 生きものにはその生きもの独特のポーズというものがある。その瞬間に生きものの美しさが凝縮されて表出するものだと改めて思った。


忙しい日々

2010-10-27 22:47:51 | 日記
忙しい日々



 昨日あたりから急に冷え込んできて、我が家でも冬支度を始めた。この冷え込みの中、水害の後始末や突然の積雪と闘っているお方もいらっしゃるようである。とにかく最近の気象状況は異常としか言いようがない。
 そんな日に私はあれこれと仕事をしていた。現役時代よりも忙しい感じで、ありがたいことだと思った。そんなこんなで、このブログのの書き込みも大分失礼してしまった。申し訳ないと思っている。
 こんな日々に私を慰めてくれた催しがあった。ある著名な(文化勲章を受けた)お方の講演である。いや、そのお方の話はまたの機会に譲るとして、今回はその会で合唱した歌の話をしたいと思う。
中高年の集いなので、歌と言っても昔の童謡とか唱歌である。みんなで歌うと、急にはればれとした気持ちになる。懐メロはいい。心が洗われる。
 

 ♪ いつかきた丘 母さんと
   一緒にながめた あの島よ
   今日も一人で 見ていると
   優しい母さん 思われる

 この歌詞を読んで、ああ、あの歌だと思われるお方を私は尊敬する。私は初めてこの歌詞に接した気がしたのである。
 この歌詞は「みかんの花咲く丘」(加藤省吾 作詞)の3番である。私は2番までしか知らなかった。いや、忘れていたのかもしれない。だから、新鮮な感じがしたのである。いや、はっきり言うと、涙が滲んできた。母を思い出したのである。以前も書いたが、私は、バイクで忙しく働いて米や新聞の配達をして私たちを養ってくれた母は仏様のような気持ちがしている。
 先ほど忙しいなどと言ったが、その忙しさは例えようがなかった。目が不自由な父の代わりに身を酷使して、命がけで働いていた。私は、そういうことを忘れはしない。リュウマチが嵩じて亡くなったが、その病気も無理をしたからである。
 だから、私は、忙しいなどと甘えたことを言ってはいけない気がしている。ありがたいことだ。そう思って頑張っているのである。
 さて、そういう私は、母と一緒に宍道湖を眺めたことがあったか。丘の上からでなくてもいい、並んで眺めたことが。いや、ない。どう思い出してもない。しかし、この歌をみんなと一緒に歌っていると、なんだか、昔、そういうことをしたような気持ちになったのである。歌は実に不思議な力を持っている。

 
 
 
 

時計の振り子

2010-10-23 23:02:43 | 日記
時計の振り子



 「振り子時計の基本的な仕組みは、時針を回す動力にぜんまいばねや錘など(後に電動も)を用い、その動きを一定の時間で動く振り子で制御して時を刻む仕組みとなっている。しかし、振り子を用いているため揺れに弱く、船など乗物の上では使用できない。また地震などの揺れによっても時計が止まってしまい、地震があると往々にその時刻をとどめる証拠となる。」(Wiki)
 振り子時計の振り子の動きは制御されているから動きが一定になる。ところが、人間の心の振り子は完璧には制御できない仕組みになっている。これが厄介千万である。
 例えば右に大きく振れたとする。すると、その反動として左にも大きく振れる。これが激しくなるとどういうことになるのか。ますます大きく左右に振れて、振り子が悲鳴を上げるようになる。
 この心の状態を統御するのが理性であろうと思う。ところが、この理性というのが当てにならない。バランス感覚をしばしば失う状態になるのである。こんなことを言うと人間は壊れやすいということになって、不安感を募らせることになるので言った本人もいい気持ちがしない。
 分かりやすく言うと、心に大きな負荷をかけると、その程度によってはその状態に絶えられる理性が働く。しかし、それにも限界があって、その限界を超えるとそれから一時的にも逃げようとする心の動きが発生する。心の振り子の揺れが大きすぎると、その反動が大きく発生してしまう。右に大きく揺れすぎると、今度はその反動として左にも大きく揺れることになる。
 たばこが止められない。酒が日増しに多くなっていく。賭け事にはまって動きがとれなくなる。こういう例を挙げればきりがない。極端な場合は法を犯したり、倫理的な矩(のり)を越えることにもなる。
 人様に迷惑をかけない程度の心の振れは世間が許してくれるが、その範囲内の心の振れでも場合によっては体を壊したり、お金で行き詰ったりする。
 たくさんの人間と付き合いながら、しかも自分をコントロールするゆとりがある。人は大海に浮かんでいる小舟のようなものである。沈まないように舵をしっかりとらなくてはならない。そういう強さを秘めている。これは非常に大切なことである。
 私がこのブログを書き続けられるのは、実は心を常にコントロールしたいという気持ちが働いているからである。