とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」765【デビュー曲】松田聖子 裸足の季節(1980年)SEIKO MATSUDA

2023-10-31 02:31:00 | 日記
初めからもう完成していますね。さすが聖子ちゃん。声質、髪型、笑顔。聖子文化を創り出しました。「ポスト◎◎」という言葉は当てはまらないですね。

【デビュー曲】松田聖子 裸足の季節(1980年)SEIKO MATSUDA



松田 聖子(まつだ せいこ、1962年3月10日 - )は、日本のアイドル・歌手・シンガーソングライター・女優。

所属事務所はfelicia club(フェリシアクラブ)。身長160cm、体重42kg(身長、体重は公式サイト2008年12月25日のデータより)。福岡県久留米市荒木町出身。血液型A型。

概説
日本を代表するアイドル歌手。1970年代を代表するアイドルだった山口百恵が引退すると交代するようにデビュー、まもなくヒット曲を連発しただけではなく、髪型や、後には生き方など、さまざまな面で日本の大衆文化に大きな影響を与えるカリスマ的な存在となった。

1970年代を代表するアイドル山口百恵が引退した年の1980年4月に「裸足の季節」でレコードデビュー。伸びのある歌声で注目され、リリースしたレコードが次々とヒットを記録する1980年代を代表するアイドルとして活動した。類い稀な声質と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい仕草や容姿とが相まって人気を獲得し、トレードマークの「聖子ちゃんカット」と呼ばれるヘアスタイルを模倣した若い女性たちが当の街中に溢れかえった。後に中森明菜と人気を争うようになり、当時を知るファンの間では音楽番組における順位争いや、「聖子と明菜のどちらが好きか」という議論が語り草となっている(中森明菜は、歌番組でこの類の話題が出るとき、「聖子ちゃんのアルバム持ってますよ」とかわしていた。また、歌番組で『白いパラソル』を自己流の振り付けで歌ったり、アルバムで『瑠璃色の地球』をカバーしており、ライバル歌手としてではなく、切磋琢磨する同士としての認識が強かった)。

芸能界が「百恵引退後のアイドル像」を模索する中で、百恵の「実人生とアイドル像を限りなく一致させる」方針とは正反対の「ドレスを着飾ったアイドルの原点」を演じるという方向性を取り、実際に衣装や容姿に自身の主張を通していた(『聖子ちゃんカット』も自身が行きつけの美容室で相談しながら作り上げたものである)。聖子のアイドル像は、百恵の徹底した「脱アイドル」以前にあった「アイドルの原点」を表現する事にあり、これが若者の支持を集めたのではないかと評されている。百恵が引退した1980年10月の時点で、デビュー半年後の聖子は既に「ポスト山口百恵」の筆頭として認知されるに至っていた。

出版プロデューサーの但馬オサムは「容姿だけでなく歌の表現力でも1980年代のアイドル歌手としては突出したものを持っていた」と評価しており、歌の下手なアイドルでも通用した「かわい子ちゃん歌手」の時代からの転換を象徴していた。声量に関しても特筆すべきものがあり、初期の楽曲の作詞を手掛けた三浦徳子は初めて聖子の歌声を聴いた時を振り返って「いくらでも声が出るんで驚きました。マイクなんかいらないくらい」とコメントしている。また、三浦が「母音をしゃくりあげるような歌い方」と表現する特徴的な歌唱法は同じく初期の楽曲の作曲を手掛けた小田裕一郎から受けたレッスンの影響によるもので、彼の歌い方にそっくりだという。

聖子を発掘してプロデュースしたCBS・ソニーディレクターの若松宗雄は、聖子の魅力について第一に声質を挙げ、透明感と強さ、その中に娯楽性とある種の知性を感じたと語っている。絶頂期は多忙なスケジュールから曲のレッスンを受ける時間はなく、レコーディング当日に楽曲を聴いて即収録に挑んでいた。プロデューサーからもとにかく勘が良いと言われており、2〜3回デモを聞いただけで曲調を覚えて歌えるようになっていたという。若松は聖子の上げた売り上げを惜しみなく有能なスタッフや新技術へと投入し、オリジナルアルバム「Pineapple」は1982年10月1日には世界初のCDとして発売された50タイトルの中に名を連ねている。1983年発売のアルバム「ユートピア」からデジタルレコーディングが行われるようになり、デジタルレコーディングの先駆者となった。マルチトラック・レコーダーには後にCDマスタリングのスタンダードとなるソニーのPCM-3324が導入され、CD時代を見据えた準備を他のアイドルよりも数年早く開始していた。1983年には過去作品も含めて音質にこだわったCD、マスターサウンドLP、メタルマスターCTが発売された。

楽曲の記録としては、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート第1位を獲得した。これはピンク・レディーが当時持っていた9曲連続を大幅に塗り替える記録であり、1980年代当時「アイドル四天王」と呼ばれた南野陽子・中山美穂・浅香唯・工藤静香の1位獲得記録の合計を上回るものであった。この記録は、CDバブルを迎えた2000年に破られるまで11年10か月間保持していた。

デビュー初期の曲は、主として三浦徳子の作詞・小田裕一郎の作曲によるものだったが、6枚目のシングル「白いパラソル」以降は作詞に松本隆が起用され(19枚目のシングル『ハートのイアリング』まで)、作曲家の選択も含め松本のプロデュース色が濃くなっていった。編曲は2枚目のシングル「青い珊瑚礁」から大村雅朗が主体となり、アルバム曲を含めた多くの楽曲を担当した。1980年代の作曲家は財津和夫、松任谷由実(『呉田軽穂』名義)、細野晴臣などニューミュージック系の作家が多かった。こうしたシンガーソングライターの起用について若松は、かつて自身が担当したキャンディーズと吉田拓郎のコラボの成功が念頭にあり、「独創的なシンガーソングライターとアイドルのコラボは予想を超えた新しい世界を生み出す」という判断からだったと述べている。(Wikipediaより)

あちこち「SYOWA」(番外)宇徳敬子 【 想い出の九十九里浜 】 BEING LEGEND LIVE TOUR 2012

2023-10-23 17:21:55 | 日記
宇徳さんを改めて見て、すごい美人だと思いました。この唄は題名が場所を特定していてイメージがすぐ浮かんできます。やあ、実に、限りなくいい曲が鮮明に次々と思い出されます。B.B.クィーンズ(コーラス担当)、Mi-Ke(リードボーカル担当)

宇徳敬子 【 想い出の九十九里浜 】 BEING LEGEND LIVE TOUR 2012


画面に表示されているYouTubeからご視聴ください。

Mi-Ke ●想い出の九十九里浜


宇徳 敬子(うとく けいこ、1967年4月7日 - )は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家、ラジオDJ、モデル。所属事務所はユーケードリーム(旧 ビーロック)、レコードレーベルはUK Sweet。

鹿児島県出水市出身。学生時代に保育士と幼稚園教諭の資格を取得している。1/fゆらぎ(エフぶんのいちゆらぎ)の声の持ち主[1]。

作詞・作曲の他、ビーイング系アーティストのバックコーラス・コーラスアレンジを多数務める。

GIZA系アーティストのバックコーラス担当時にはSecil Minami、Cesil Minami、Cecile Minami(セシル・ミナミ)名義でも活動した。

B.B.クィーンズ(コーラス担当)、Mi-Ke(リードボーカル担当)のメンバー。

人物・来歴
短大時代に訪れた原宿で複数の芸能プロダクションからスカウトを受け、その中の1社だったスターダストプロモーションに所属し芸能活動をスタート。

モデル・タレント活動を経て、1990年にB.B.クィーンズのコーラス担当で歌手デビュー。その後、B.B.クィーンズの活動と並行して1991年に同グループのコーラス担当村上遙、渡辺真美と共に音楽ユニット・Mi-Keとして活動を開始。Mi-Ke時代、“ケーリン”の愛称で親しまれ、同グループの「サーフィン・JAPAN」のカップリング曲「チョット・ダウン」においてケーリン名義で作詞・作曲を手がけている。

歌手デビュー前は、同事務所に所属していたZARDの坂井泉水やラジオパーソナリティの加藤美樹らとレッスンを受けていた。坂井との関係性に関しては「言葉にするのは難しく、複雑」と述べている。

多重コーラスを得意とし、コーラスアレンジも自ら手掛ける。自身以外にも他のアーティストへの楽曲提供やバック・コーラス(コーラスアレンジも宇徳が殆ど行っている)などを務めた楽曲がこれまでに数多く存在し、スタジオ・ミュージシャンとしても幅広く活躍している。

1993年8月、シングル「あなたの夢の中 そっと忍び込みたい」でソロデビュー。

ソロ名義での最初の仕事は『ソニック・ザ・ヘッジホッグCD』への参加である。

1994年にリリースされた1stアルバム『砂時計』はオリコンチャート1位を獲得した。他のビーイング所属アーティストと同じく、ソロ転向後はメディアには一切出ないという事務所の方向性だったため、ライブ活動や音楽番組出演はあまり行わず、1990年代は楽曲制作が中心の活動を続ける。

2003年からは主に大阪のhills パン工場を中心にしてライブ活動を開始し、高岡亜衣、スパークリング☆ポイントの楽曲も手がけた。

しばらく新作のリリース活動が途絶えていたが、2006年11月22日には4枚目のオリジナル・アルバム『よろこびの花が咲く〜True Kiss〜』を、前作『満月〜rhythm〜』より8年3ヶ月ぶりにリリース。同年10月からラジオ番組「宇徳敬子のTrue Kiss」が2ヶ月間に渡って放送され、2007年にも10月よりラジオ番組「OCEAN CALEDONIAN BLUE 2007」が2ヶ月間に渡って放送された。

その後はブログを中心とした活動にとどまっていたが、2010年7月にTwitterを開始し、同年8月にはUstream上で“happywayradio”の配信を開始した。Ustreamでの配信は、3ヶ月限定の計6回だった。

2010年9月9日、公式HPのリニューアルと同時に所属事務所の変更が発表される。同年12月18日には約3年ぶりのライブであり初のワンマンライブとなる「Premium Christmas Live Starting Over 〜HAPPY WAY〜」を開催。同年7月7日のブログ上での約束及び願いを実現する事になった。

2011年2月24日、B.B.クィーンズの結成20周年限定再始動が発表。同年12月23日、東京・日本橋三井ホールにて「UTOKU KEIKO Concert2011“WOMAN”」を開催。2012年1月27日、hills パン工場にて「WOMAN2」を追加公演。同年4月7日には東京・六本木スイートベイジルにて「宇徳敬子 Birthday LIVE 2012〜UK❤Sweet〜 at STB139」を開催。この年からNHK-FMの音楽番組『Music Line』のMCを担当した。

2012年9月に公式ファンクラブ「UK❤FAMILY」を設立。

2013年4月6日・7日にファンクラブ限定で一泊二日のツアーイベント「宇徳敬子 バースデーライヴ 2013 in 沖縄」を沖縄で開催。

2015年4月21日に公式YouTubeチャンネルを開設。

2017年1月10日からラジオ日本「加藤裕介の横浜ポップJ」番組内のコーナー『宇徳敬子の♡ハッピー愛ランド♡』がスタート。

2018年8月、ソロデビュー25周年を迎える。同年8月8日、初のセルフカバー・アルバム『スローライフと私〜Organic Cafe〜』を発売。同年8月18日から東名阪ツアー「宇徳敬子 25th Anniversary スローライフと私~Organic Cafe~」を開催(8月18日名古屋(名古屋ブルーノート)、8月25日大阪(Music Club JANUS)、10月7日東京(SHIBUYA PLEASURE PLEASURE))。

2018年12月24日、「宇徳敬子 25th Anniversary スローライフと私〜Let it go! UK Xmas Party!!〜」を開催。

2019年4月6日・7日ツアーイベント「宇徳敬子 25th Anniversary Memorial Tour in Okinawa ~Birthday Live~」 を沖縄で開催。

2022年、出水市観光大使に就任。

2023年7月7日、Official YouTube Sub Channel「UKの ゆるふわ〜ふわふわチャンネル」を開設。同年8月4日、ソロデビュー30周年を迎え、30周年イヤーをスタート。同年8月4日、8月8日、「30th Anniversaryミニイベント」を開催。同年8月8日、「きれいだと言ってくれた(セルフカバーバージョン)」をデジタルリリース。同年9月8日、エスコンフィールドHOKKAIDOにて自身初の「国家独唱」を務める。(Wikipediaより)

あちこち「SYOWA」(番外) E-girls /「Love ☆ Queen」「Show Time」「Making Life! 」

2023-10-20 16:59:00 | 日記
どうして解散したのか。私は未だに理解できないでいます。今このレベルのチームを作ろうと思っても不可能。チーム力、歌唱力。すべてにわたって最強のレベルでした。私はまこにと悲しくなっています。ステージでのこのパワーは他のチームでは無理。

E-girls /「Love ☆ Queen」「Show Time」「Making Life! 」(a-nation 2018)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

E-girls

概要

グループ名について

E-girlsの“E”は、所属事務所の先輩であるEXILEに由来する。
グループ名の表記は1stから3rdシングルまでは「E-Girls」であったが、4thシングルから「E-girls」となった。「e-maのど飴」のタイアップ曲が「e-girls」となった時期があった。

活動方針について

3rdシングルから全員参加ではなくなった。
「VOCAL BATTLE AUDITION 3」の参加者で結成したEGDは2ndシングルから、合格者で結成したbunnyは3rdシングルから一部のメンバーがE-girlsに参加していった。4thシングルでbunny・EGDという表記が消えた。
2013年から2017年まで所属事務所運営のダンススクールEXPG内に、E-girlsの下部組織として育成・修行の場となるグループ、Rabbits(高校1年以上)、Bunnies(中学3年以下)を設けていた。2015年1月27日に正式に発表された。E-girls→下部組織→EXPGといった「E-girls Pyramid」に伴い、メンバーの構成は毎年見直され異動していた。

略歴

2011年4月24日、イベント『E-Girls SHOW』を開催。LDHに所属する3つの女性グループDream、Happiness、Flowerを中心に構成されるプロジェクトとして始動。
12月28日、シングル『Celebration!』でデビュー。

2017年7月15日 - 7月16日、『E-girls LIVE 2017 〜E.G. EVOLUTION〜』をもってDreamが活動終了し、3つのグループを中心としたプロジェクトとしても終了。11人組の1つのグループとして始動。

2019年12月22日、2020年末をもってのグループ解散を発表。
2020年12月28日、配信ライブ『LIVE×ONLINE BEYOND THE BORDER E-girls LAST LIVE』を最後に解散した。

メンバー

解散時のメンバー
SAYAKA(Happiness)
楓(Happiness)
藤井夏恋(Happiness、元ShuuKaRen)
YURINO(元Happiness、元スダンナユズユリー)
須田アンナ(元Happiness、元スダンナユズユリー、元EGD)
鷲尾伶菜(元Flower)
坂東希(元Flower)
佐藤晴美(元Flower)
石井杏奈(元bunny)
山口乃々華(元bunny)
武部柚那(元スダンナユズユリー 、元bunny、元Rabbits)[19]
活動中に脱退したメンバー
Sayaka(元Dream)
MIMU(元Happiness)
木津玲奈(元EGD)
水野絵梨奈(元Flower)
杉枝真結(元Happiness)
武田杏香(元bunny)
武藤千春(元Flower)
萩尾美聖(元bunny、元Rabbits)
稲垣莉生(元bunny、元Rabbits)
生田梨沙(元EGD、元Rabbits)
中嶋桃花(元Bunnies)
渡邉真梨奈(元EGD、元Rabbits)
市來杏香(元Flower)
Erie(元Dream)
Shizuka(元Dream、元DANCE EARTH PARTY)
Aya(元Dream)
Ami(元Dream)
MIYUU(Happiness)
川本璃(Happiness)
藤井萩花(元Flower、元ShuuKaRen)
重留真波(元Flower)
中島美央(元Flower)
E-girlsリーダー
初代:Aya(2013年11月 - 2017年7月)
二代:佐藤晴美(2017年10月 - 2020年12月)

あちこち「SYOWA」(番外) 秋桜 (コスモス) ナターシャ・グジー 

2023-10-14 17:21:32 | 日記
昨年だったか、グジーさんのコンサートに行きました。収益はすべて母国のために寄付するとか。妻と一緒に拝聴しながら、こみ上げてくる熱いものを感じました。日本語がなかなか上手でした。不条理な戦争をしかけられた母国。世界はこの戦争を一日も早く終結させねばなりません。

秋桜 (コスモス) ナターシャ・グジー / "Cosmos" by Nataliya GUDZIY


ナターシャ・グジー(Nataliya Gudziy 1980年2月4日 - )は、ウクライナ出身で日本で活動している歌手、バンドゥーラ演奏家(バンドゥリースト)である。

概要
ウクライナのドニエプロペトロフスク州(現:ドニプロペトロウシク州)の村に生まれ、チェルノブイリ原子力発電所から3.5kmのプリピャチへ転居した。1986年4月26日のチェルノブイリ原子力発電所爆発事故によって被曝した後、避難生活で各地を転々としてキエフ市へ移住する。

ウクライナの民族楽器バンドゥーラの音色に魅せられ、8歳から音楽学校で学ぶ。チェルノブイリ原発事故で被災した少年少女を中心に結成された民族音楽団「チェルボナ・カリーナ」(チェルノブイリの赤いカリーナの実)のメンバーとして、1996年と1998年に来日し、全国で救援コンサートを行う。2000年からは日本語を学びながら日本での本格的な活動を開始。その透明で1996年と1998年に来日し、全国で救援コンサートを行う。2000年からは日本語を学びながら日本での本格的な活動を開始。その透明で美美しい水晶の歌声とバンドゥーラの可憐な響きは、多くの聴衆の心を惹きつけている。2005年7月のウクライナ大統領ヴィクトル・ユシチェンコ来日の際には、首相官邸での小泉純一郎首相主催の夕食会に招かれ、演奏を披露。チェルノブイリ救援コンサートのほか、テレビ、ラジオ、音楽教室や学校での国際理解教室など多方面で活躍している。2016年には、音楽を通じた日本とウクライナの相互理解の促進に対する功績が認められ、日本国外務省から外務大臣表彰を受けた。

2022年に発生したロシアのウクライナ侵攻を受けて、さまざまなウクライナ支援プロジェクトを展開中。CFU47「希望の大地」チャリティーツアープロジェクトでは、これまでのウクライナ支援のお礼と今後長期に必要となる支援のお願いとして、47都道府県でのチャリティーコンサート実施に取り組んでいる。また、長期支援には、ウクライナ文化(料理、言葉、刺しゅう、音楽など)を紹介して、ウクライナに興味を持ってもらい、好きになってもらうことが欠かせないとして、食べて応援!ウクライナ「なっちゃんボルシチ」クラウドファンディングを、マクアケで8月10日より10月14日まで実施。#勝手にウクライナ語会話 として、簡単なウクライナ語会話や豆知識などを毎日発信を続けている。更には、幼なじみで同じくチェルノブイリ避難民でもある友人を通じて、現地支援活動を行なっており、食料支援などのほか、スラーバ・ナロードゥ・ウクライーニ!(ウクライナの人々に栄光あれ)プロジェクトで、現地被災者に生活費の供給を目的としてウクライナ刺しゅうのブラウスなどをフェアトレードで買取り、支援グッズとして被災者のメッセージ付きで、コンサート会場で販売、その売り上げをまた現地に送っている。
(Wikipediaより)


あちこち「SYOWA」764 若いふたり 北原謙二 1975思い出のメロディー

2023-10-10 19:35:56 | 日記
声を震わせない独特の発声。太くすーと伸びていく。私は好きでした。今はどうしていらっしゃいますか。ああ、亡くなったんですね。

若いふたり 北原謙二 1975思い出のメロディー


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

北原 謙二(きたはら けんじ、1939年(昭和14年)10月8日 - 2005年(平成17年)1月26日)は、日本の歌手、俳優。本名は北原 謙太郎(きたはら けんたろう)。

人物・来歴

大阪府出身。浪華商業高等学校(現・大阪体育大学浪商中学校・高等学校)出身。ジャズ喫茶で歌っていた事が縁で、鈴木英治とブルー・カウボーイズのメンバーとして上京。その後日本コロムビアのディレクターにスカウトされ、1961年(昭和36年)歌手デビュー。NHK紅白歌合戦に2回出場している。

1991年(平成3年)3月に高血圧症脳内出血で倒れたが、左半身麻痺と闘いながらリハビリを重ね、3年後に復帰。その後は全国各地の福祉施設への慰問活動などを積極的に行っていたが、2005(平成17)年1月26日午後10時1分、虚血性心疾患のため都内の病院で死去。