とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

我利馬の船出

2010-08-29 14:39:23 | 日記
我利馬の船出



 表題は「ガリバーの船出」と読む。灰谷健次郎氏の代表作の一つである。この本は一九八七年の青少年読書感想文コンクールの課題図書(高校の部)となった。
 先日灰谷氏が亡くなられたことを新聞で知った。そしてある高校に在職していた頃の女生徒を思い出した。その生徒は夏の読書感想文の宿題に『我利馬の船出』(理論社)を選んで書いた。国語の担当をしていた私は校内選考で第一番に彼女の作品を推した。灰谷氏のその作品は、十六歳の主人公の少年が「我利馬」と称する手作りの舟で一人日本を離れ、途中で嵐に見舞われながらある巨人の国にたどり着き、そこの少女「ネイ」との出会いから失いかけていた人間らしさを取り戻すという粗筋である。作者の自伝的な作品だが、寓意に満ちた観念的な作風で、私は一読して理解に苦しんだ。しかしその生徒は主人公に「青春時代の夢」を託して、それを叶えることの大切さを説得力のある文章でまとめていた。
 それからその感想文は県代表となり、とうとう全国入賞を果たした。お陰で私は東京会館で開かれた授賞式に引率者として参加するという貴重な体験をすることが出来た。式の後のレセプションで憧れの灰谷氏の姿を見つけたときは驚いた。早速私はその生徒を灰谷氏に紹介した。「あんな難しい本を読んで立派にまとめていただいてありがとう」。グラスを片手に氏はややはにかんだ面持ちでそうおっしゃった。控え目な態度からは「ガリバー」のような逞しさは感じられなかった。しかし、私は人間的な温かい体温を感じることが出来た。亡くなって改めて鮮明にその場面のことが蘇ってきたのである。謹んでご冥福をお祈り致します。                                (2006年投稿)

塩度計

2010-08-29 14:36:07 | 日記
塩度計



 ある日の夕食時、私がふと上を見ると、台所の食器棚の上に白い箱が乗っかっていた。おやっと思い、降ろして開けて見た。中には素麺(そうめん)の束が入っていた。妻に聞くと、「あっ、忘れとった!」と言った。少し黄ばんでいたので、大分古いもののようだった。
「島原手延そうめん・白糸の瀧」と書いた説明書に素麺乾しをしている絵が添えてあった。髪型、服装からして江戸時代の絵らしかった。生の素麺を短い竹にすだれ状にひっかけて、足の付いた乾し台の横板の穴に等間隔に挿し込み、たくさんの素麺のすだれ乾しをしていた。私は、その絵の世界に吸い込まれていった。
「昔からああして乾してたんだ!」。父母たちは私が幼い頃、その絵の通りの乾し台を使って饂飩(うどん)や素麺を家業として作っていた。からっと晴れていないと旨く乾しあがらない。だから、夏の炎天下での作業だったように思う。眼の不自由な父は細長いウキのような塩度計で桶の塩水の濃さを計っていた。塩度計がどのくらい水に沈んでいるか手で触って確かめていた。「塩加減が大事だけんのー」。そう言って、塩を加えたり、水で薄めたりしていた。調整がすむと、小麦粉を入れた大型のミキサーにざあっと移し入れた。がらっ、がらっ、……。ミキサーが大きな音を出して動き始めると、父はその音にじっと耳を傾けた。
こね上がった生地はローラーで平たく延ばされ、カッターで切られ、細長い筋になって出てきた。それを母と祖母はすばやく竹ですくって持ち上げ、背丈くらいの長さに切って、走って乾し台まで持って出た……。
 私はその絵を見ながら、塩度計に触る父の手の微妙な動きをしばらく思い出していた。 
                                (2006年投稿)

演歌

2010-08-29 14:32:26 | 日記
演歌



「歌い手には一生に何度か、ごく一時期だけ歌の背後から血がしたたり落ちるような迫力が感じられることがあるものだ」
 この言葉は五木寛之の『ゴキブリの歌』(毎日新聞社・昭和四十六年刊)からの引用である。タイトルは「艶歌と援歌と怨歌」。ここで取り上げられている「歌い手」は藤圭子である。藤圭子? 今更どうして? いや、急に懐かしくなって思い出したんです。父は浪曲師、母は三味線弾き。東京の裏町を母と流して歩いていた。後、石坂まさをに見出され「新宿の女」を出し、大ブレイクする。この頃学生運動は激しさを増し、若者は深い挫折感を抱いていた。「下層からはいあがってきた人間の、凝縮した怨念が、一挙に燃焼した一瞬の燃焼」だと五木は感じ、「口先だけの援歌よりこの怨歌の息苦しさが好きなのだ」と結んでいる。
 私は若い頃カラオケで藤圭子の歌ばかり歌っていた。何が私を歌わせたか。考えてみると、あの引きずるような暗い歌いかたと歌詞と影を宿した表情が私の当時の心象と共鳴したからかも知れない。歌い出すと「またかやー」と言われた。でも、歌い続けた。しかし、今、私はあまりカラオケで歌わない。歌いたい歌がないからだろう。いいメロディーの歌いやすいものはいくつかあるが、何か胸の奥にズンと響いてくるものがないのである。
 現在は「演歌」と表記されている歌を五木のように三種類に分類すると、「怨歌」が姿を消したような感じがする。こう思うのは私だけであろうか。私は、今の時代こそ「怨念が、一挙に燃焼した」ような歌が登場してもいいのではないのかと思っている。(文中敬称略)
                            (2006年投稿)

映画狂

2010-08-29 14:28:31 | 日記
映画狂



 先日今年のしまね映画祭のチラシを見た。懐かしい題目が並んでいて、私のかつての学生時代の「虫」がうごめくのを感じた。間借り暮らしのわびしい貧乏学生の楽しみは、休みに映画を観ることだけだった。だから映画狂いと人から見られていた。邦画、洋画を合わせると、四年間で数百本は観たと思う。
 中でも新藤兼人監督の『鬼婆』(昭和三十九年制作)という作品は、映画の質自体もそうだが、特にその完成までのいきさつが印象に残っている。
 ある日、新聞広告に、感想を書くことを条件に脚本を無料でプレゼントするという記事が載っていた。私はすぐ応募した。脚本が送ってくると、急いで感想を書き送った。そして封切りの日、その脚本のストーリーを思い出しながら新作を観ていた。ところが、ラストシーンで私は体が震えるほど驚いた。「私の意見が映画に取り入れられた!」。とっさにそう思ったのである。
 その映画は、戦乱の世を落ち武者狩りで食いつないでいく姑と嫁の姿がリアルに描いてあった。草むらに迷い込んだ手負いの武者を槍で突き殺し、その武具を売りさばいて暮らしていたのである。ところが最後にその悪業が祟って二人は自分たちが作った落とし穴にはまって死んでしまう。……脚本ではそういう結末だった。しかし、私の観た完成版では、その穴を二人が飛び越えていくところをスロモーションで穴の中から写していたのである。私は脚本の感想に、「……最後は報いを受けて死に、すべては流れ去ってしまう。ラストシーンが弱いのでは……」などと生意気にも書いていた。だからその場面を観たときの衝撃は並大抵のものではなかったのである。
 しかし、……。今になって思い返すと、監督は私が気づく以前に手直しをしていたのではと思われるのである。だが、そのときの私は意見が採用されたと思い、映画狂としての至福の時を味わっていたのである。(2006年投稿)

運動会

2010-08-29 14:22:02 | 日記
運動会



 第二次世界大戦中に東京の小山書店から「新風土記叢書」が刊行され、各地方を代表する作家が筆を執った。中でも昭和十九年に刊行された太宰治の『津軽』は名作と評価され、その一部が一昔前教科書でよく取り上げられていた。私は非常に心に残っていたので、授業に入るときは初めに必ず私自身で朗読することにしていた。しかし私はある場面に来るといつも涙が込み上げてきて、声をつまらせた。それは運動会の場面である。
 太宰は津軽への取材の旅の最後に、子どもの頃養育のために雇われていた「越野たけ」を尋ねて小泊まで足を延ばす。家を探し当てるが、運動会に出かけていて留守だった。そこで太宰は国民学校での村の運動会を覗いてみる。国運を賭して戦争をしている最中に莚(むしろ)の掛小屋を作って運動場で大祝宴を催していたので、日本という国は「日出づる国だ」と感じる。そして、小屋を一つひとつ覗き込みながら、「たけゐますか。」と声を掛ける。しかし見つからない。諦めて「たけ」の家まで引き返すと娘が帰っていた。そしてその娘の導きでやっと会うことが叶った。
「修治だ。」(注・太宰治の本名は津島修治)というと、「あらあ。」という声を上げる「たけ」。それから二人は小屋の中で並んで運動会を見る。「たけ」と一緒に久しぶりに並んでいて、少しも不自然な気持ちにはならない。むしろ母親以上の母性を感じる。そして、太宰は、生まれて初めて「心の平和」とはこういうものだと実感し、自分は「たけ」から性格のほとんどを受け継いでいると考える。……太宰にとって故郷津軽への旅は自分の精神の形成史を確かめる旅であった。
運動会と母性……。私はこの作品を読んでから、毎年地区の運動会でたくさんのテントを見る度に、太宰が「たけ」を呼ぶ声を遠くで聞くような思いがするのである。(2006投稿)