とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」726 イバネマの娘 アストラッド・ジルベルト

2021-07-29 00:20:19 | 日記
私はこの映画はみていません。しかし。このメロディーだけは耳の奥に残っています。そして、絡みついてきます。




アストラッド・ジルベルト(ブラジルポルトガル語:Astrud Gilberto(アストルーヂ・ジウベルト)、1940年3月29日 - )は、ブラジル出身の、ボサノヴァ・ジャズ、ポピュラー音楽の歌手。

来歴

アストラッドは、ブラジル・バイーア州でアストラッド・エヴァンジェリーナ・ワイナート(Astrud Evangelina Weinert)としてブラジル人の母とドイツ人の父親の間に生まれ、リオ・デ・ジャネイロで育った。

1959年にジョアン・ジルベルトと結婚した。彼らは1963年にアメリカ合衆国に移住し、同年3月、アルバム『ゲッツ/ジルベルト (Getz/Gilberto)』のレコーディングをジョアン・ジルベルト、スタン・ゲッツ、アントニオ・カルロス・ジョビンと共に行った(発売は翌1964年)。そのときまで彼女はプロの歌手として歌ったことはなかったが、彼女の歌声にプロデューサーのクリード・テイラーが目をつけ、彼女が英語で歌う「イパネマの娘」が作られ、これがアメリカを中心に大ヒットする。しかし、ジョアンとアストラッドは1960年代の半ばに離婚する。

イパネマの「娘」の大成功により、彼女は一躍ジャズスターとなり、その後すぐにソロ・デビューする。彼女はブラジルのボサノヴァと、アメリカのジャズ・スタンダードの架け橋的な役割を果たす。1970年代には、彼女自身が作曲した曲もレコーディングするようになる。

彼女はボサノヴァの代表的な歌手という、海外における一定の評価もある一面、ブラジル国内ではほとんど実績を残していない。このことから同国内における評価はあまり高くない。サンバ歌手で有名なベッチ・カルヴァーリョなどもその点を指摘したコメントを残している。

動物虐待や動物実験には批判的な姿勢を持っており、自らも反対運動に参画している。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」(番外)  仮面ライダージオウ 変身場面

2021-07-18 18:13:12 | 日記
ツクヨミの変身はカッコイイ。大幡しえりが演じている。今までにないキャラクター。注目しています。




大幡 しえり(おおはた しえり、1998年(平成10年)11月5日 - )は、日本の女優。

埼玉県出身。エイベックス・マネジメント所属。


略歴

2016年、原宿でスカウトされる。
2017年、映画『ひるなかの流星』で女優デビューを果たす。
2018年、平成仮面ライダーシリーズ第20作『仮面ライダージオウ』にて、ヒロイン・ツクヨミ役で出演。平成仮面ライダーシリーズのTVシリーズ本編に登場した最後の女性仮面ライダーとなった。
2020年3月30日よりフジテレビ系列『めざましテレビ』の『イマドキ』のコーナーにてイマドキガールを務めている。
(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」725 高峰秀子「銀座カンカン娘」

2021-07-05 00:22:22 | 日記
小学生のころ、この唄を聴きながら「カンカン娘」とはどういう娘なのかよく理解できなかった。しかし、大人の世界のにおいがしてきて、大人になるとどきどきするようなことが起きる、奇麗な娘さんにも会えるなどと思っていた。時計見ながらそわそわしているということはだれかと早く会いたいのだ、自分にもそういう娘さんが現れるだろうか、などと妄想を逞しくしていた。「カンカン」という響きがとても快感で、むずむずする感覚を味わっていた。高峰秀子という女優さんの顔を映画で見て、この人が「カンカン娘」なのかと思って密かに恋をしていた。

高峰秀子「銀座カンカン娘」



高峰 秀子(たかみね ひでこ、1924年3月27日 - 2010年12月28日)は、日本の女優、歌手、エッセイスト。本名は松山 秀子(まつやま ひでこ)、旧姓は平山(ひらやま)。愛称は「デコちゃん」。


(「Wikipedia」より)


子役から大人の女優へ成長、戦前・戦後を通じて半世紀にわたり日本映画界で活躍した女優の1人。1929年(昭和4年)に松竹蒲田撮影所で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。ハリウッドの名子役シャーリー・テンプルとも比較されるほどの天才子役ぶりで名を馳せた。その後東宝、新東宝を経てフリーとなる。木下惠介、成瀬巳喜男監督作品に常連出演したほか、小津安二郎、豊田四郎、稲垣浩、五所平之助など日本映画界を彩る巨匠監督の名作に数多く出演した。1979年(昭和54年)に女優を引退し、その後はエッセイストとして活動。主な出演作品に『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『浮雲』など。著書に自伝『わたしの渡世日記』など。夫は映画監督の松山善三。(「Wikipedia」より ※長い解説だったので、最初の部分だけ引用しました)

あちこち「SYOWA」724 竹脇無我さん・栗原小巻★二人だけ①~三人家族より~★ 

2021-07-04 06:17:11 | 日記
このゴールデンコンビは不滅ですね。私はコマキストではないけれど、強く惹かれます。栗原小巻さんは舞台公演も見ました。ですからその魅力は普通ではないと思っています。吉永小百合さんとの共演は実現しなかった。もし実現していたら大変な反響があったと思います。

竹脇無我さん・栗原小巻★二人だけ①~三人家族より~★ あおい輝彦、瀬間千恵



栗原 小巻(くりはら こまき、1945年3月14日 - )は、日本の女優。本名同じ[2]。父は劇作家の栗原一登。弟は演出家の加来英治。

東京都出身。エイコーン所属。


人物・来歴

1963年、東京バレエ学校卒業。

俳優座養成所(第15期)在籍中に抜擢され、『虹の設計』等に出演。

1967年、『三姉妹』(お雪役)で脚光を浴び、同年、日本映画製作者協会新人賞を受賞。

1968年、『三人家族』『みつめいたり』『風林火山』で日本放送作家協会賞、第一回テレビ大賞優秀タレント賞に選ばれる。

1972年、『忍ぶ川』の演技で毎日映画コンクール主演女優賞、ゴールデンアロー賞映画賞、エールフランス女優賞を受賞。

仕事の中心である舞台では、1968年に日生劇場『三人姉妹』イリーナ役で初舞台。1971年『そよそよ族の叛乱』で紀伊國屋演劇賞を受賞。『ルル』をはじめ、千田是也演出作品に多く主演。また1981年には木村光一演出『ロミオとジュリエット』ジュリエット役で芸術祭優秀賞。1991年には千田是也演出『復活』カチューシャ役で芸術祭賞を受賞。1986年2月、俳優座劇場でロシアの演出家セルゲイ・ユールスキーを招き『恋愛論』を初プロデュース、主演する。その後、同作品をモスクワで上演、高い評価を得る。2000年、ロシアのアレクサンドル・マーリン演出、千田是也追悼『肝っ玉おっ母とその子どもたち』にアンナ役で主演。加来英治演出『愛の賛歌―PIAF』『プレンティ』他に主演。『欲望という名の電車』では1995年から2000年まで主演、新劇運動として281回の公演を重ねた(2010年に再演)。また、ミュージカルでは東宝『マイ・フェア・レディ』にイライザ役で主演。

国際的活動としては、『NINAGAWAマクベス』レディ・マクベス役で、1985年、英国エジンバラ芸術祭に参加(同作品はアムステルダム、ロンドン、ニューヨーク、オタワ、シンガポールで上演)。ロシア(旧ソビエト連邦|ソ連)との繋がりも深く、1981年には日本で初めてソ連の演出家(A・エーフロス)を招いて行った舞台公演『櫻の園』に主演した。日ソ合作映画にも主演(『モスクワわが愛』(1974年)、『白夜の調べ』(1978年)、『未来への伝言』(1990年))。『未来への伝言』では企画も担当した。読書アンケートでも、愛読書の一つにレフ・トルストイ『戦争と平和』を挙げている。

イギリスの作曲家、ベンジャミン・ブリテンの作曲の『青少年のための管弦楽入門』の年少者向けクラシック音楽の解説も行う。(楽器の紹介をしながら作品のナレーションを行う日本語版作品)中国との関係では、改革開放期の1978年に『サンダカン八番娼館』、1979年に『愛と死』が中国で上映されたことが契機となり、以降中国でも人気を博する。『セツアンの善人』を、北京、上海、広州、香港で上演。1991年の中国映画『乳泉村の子』(謝晋監督、中国題名『清涼寺鐘聲』)にも主演し、日本中国文化交流協会副会長も務めるなど中国との繋がりも深い。2015年6月1日には、CCTVの大型児童番組『2015年六一晩会(中国語版)』に出演し、日中双方の児童と共に「故郷」と「茉莉花」を歌った。

クラシック・バレエを特技としており、映画の中でもその姿が見られる。

ダークダックスと共にロシア・ソ連の歌を紹介するテレビ番組に出演したことがあり、ソロでLPレコードを発売したこともある。

玄人受けする演技力と現代的美貌から熱狂的な男性ファンが多く、吉永小百合ファンが「サユリスト」と呼ばれたのに対し、栗原小巻ファンは「コマキスト」と呼ばれた(奇しくも吉永とは生年月日が1日違い)。アイドル的存在として人気を二分したが、中年以降、吉永が映画を主軸に据えているのに対し、栗原は舞台を主軸としている。

近年は舞台の衣装デザインも手がけている。

ももちパレスの名誉館長を務めている。(「Wikipedia」より)


竹脇無我

竹脇 無我(たけわき むが、1944年2月17日 - 2011年8月21日)は、日本の俳優。本名同じ。

千葉県我孫子市出身。石原プロモーション、タケワキプロダクション、イザワオフィスを経てアクターズ・セブンに所属していた。

来歴・人物

アナウンサー・ニュース映画解説者をしていた竹脇昌作の三男として生まれる。最初は「宇宙」という名前を父からつけられる予定であったが、母の反対で「無我」という名前になった。青山学院中等部・青山学院高等部を経て青山学院大学法学部を卒業する。父・昌作の自殺、元ラジオ関東アナウンサーの長兄・竹脇義果の半失明状態、さらには次兄・竹脇真理が脳腫瘍のため18歳で早逝するなどしたために苦しくなっていた一家の経済状況を立て直すべく、16歳で映画界入りした。

1960年に松竹映画『しかも彼等は行く』で俳優としてデビューする。1965年、『アンコ椿は恋の花』で初主演を果たした。松竹は田村正和と共に無我を看板俳優に据えたいと考えプロモーションしていたという。テレビドラマ『姿三四郎(1970年)』、映画『人生劇場(1972年)』で一躍スターとなり、クールな二枚目のイメージを確立させた。特に『人生劇場』では高橋英樹、田宮二郎、渡哲也を抑えて主演を務めている。石原プロモーションに在籍していた時もあったが、1971年に退社している。

1966年10月から1971年4月までTBS系で放送された、若者向け情報番組『ヤング720』では司会を担当(1966年11月から1967年9月)。この当時に知己を得た関口宏、松山英太郎、西郷輝彦とは晩年まで親交があった。

テレビドラマでは森繁久彌や加藤剛との共演が多く、親交も深かった。

時代劇やホームドラマなどで幅広く活躍。美声であったことから女性ファンが非常に多く、知的で優しいイメージが定着して「理想の夫ナンバーワン」とも呼ばれた。一方で、外面と内面とのギャップに悩まされ、気の休まらない日々が続いたという。

役者として円熟味が増してきた矢先、友人の松山が食道癌で1991年に死去したショックと、二枚目を演じるストレスなどにより、49歳ごろから自殺の衝動を酒で抑え始め、心療内科での診察を受けてうつ病と診断された。抗うつ剤と眠剤でうつ度が軽くなり、自身も周囲も病状をやや甘く見ていたため、半年の入院後に復帰することをマネージャーと病院に伝えて1度は退院したものの、再び落ち込みが激しくなり、また自殺の衝動を酒で抑える事態となった。糖尿病と高血圧症も併発し、再度入院。その入院が元となり、娘からのサポートや森繁・加藤からの手紙が心の励みとなり、うつ病の治療に専念する。

8年間の闘病生活の末に復帰。食生活も改善して闘病体験を語れるまでになったが、2009年に父と慕っていた森繁が亡くなったことによる精神的ショックもあり、以後再び落ち込みが激しくなり、食生活も改善を続ける一方で、一度は止めた飲酒と喫煙を再び続けるようになり、うつ病と糖尿病時に併発していた高血圧症の症状も再度現れた。

2011年8月21日、同日未明に自宅内で意識不明の状態で発見され、東京都大田区の東邦大学医療センター大森病院に搬送、集中治療室で入院中と報道された。脳幹出血の症状があり、集中治療室にて治療が続けられていたが、同日14時5分、小脳出血により東邦大学医療センター大森病院にて死去した。67歳没。

8月22日、東京都民教会にて近親者と石井ふく子、長山藍子、関口宏、西郷輝彦、勝呂誉といった故人と親交が深かった芸能関係者らが列席し、密葬が行われた。無我は2012年1月2日から22日までの明治座公演『女たちの忠臣蔵』に出演が決定していたが、その出演は果たせぬものとなった。

死去が報道された2011年8月22日にTBSテレビで再放送されていた『大岡越前・第12部』第22話「鬼を泣かせた大工裁き」の冒頭部分にて追悼テロップが流れた。TBSテレビでは8月23日に追悼企画として、『おやじのヒゲ20・南国沖縄珍道中!ガンコ親爺の目に涙』を、BS-TBSでは8月25日に「竹脇無我さん追悼特別番組『おやじのヒゲ11』」を放送した。

竹脇の死去の報に、加藤剛が追悼メッセージを発表したのを始め、関口宏や西郷輝彦、加山雄三、津川雅彦など無我と縁が深かった者たちも追悼のコメントを発した。

10月5日、お別れの会が都内ホテルで行われ、かつての共演者や友人の加藤剛、関口宏、西郷輝彦、いしだあゆみ、長山藍子、石井ふく子、小泉純一郎、土田早苗、あおい輝彦、草笛光子、音無美紀子、中村雅俊、沢田雅美、高橋元太郎ら約300人が出席した。発起人は小泉純一郎元首相、加藤剛ら。葬儀委員長はかつて無我が所属したイザワオフィス社長井澤健。小泉はかつて無我に知人の選挙カーに乗ってもらった縁がある。ドラマ『大岡越前』で親友役(他に「風が燃えた」、「関ヶ原」(TBS)に共演)を演じ、公私共に40年間以上、親友関係の加藤が発起人代表として弔辞を述べ「こうして立っていてすら、どうしても君の姿を、人の間に探してしまう。無我ちゃんがいないとはどうしても思えない。今は、待っている電話がもう鳴りません」「オシャレな無我ちゃんらしいラストメッセージ。またいつものように電話を下さい。待っています」と無我が電話魔であったこと、死去の2日前に無我の2人の娘の名をつけ、苗木から育てた2本の桜の木に花をつけたエピソードを披露。2012年の明治座公演『女たちの忠臣蔵』で共演予定だった西郷輝彦は「無我ちゃん、一緒に舞台に立ちたかったね」「本当にありがとう」と無我への思いを述べた。

お別れ会出席者のコメント

加藤剛「一緒に仕事ができてよかったと感謝しています。人生の中で大きな位置をしめる友人でした」「40年以上の付き合いだが、親友役として脇に回してもらったのは私。オフステージは無我ちゃんが主導していた」

西郷輝彦「うつ病を乗り越えて、さあこれからだという時期だったから残念ですね。よく飲んだり、ケンカをしましたよ」「いずれ僕も行くけど、すぐには行けないから、森繁のおじいちゃんや松山英太郎くんとそっちで仲良くしていてください」

草笛光子「甘ったれのところもあって、かわいくて純粋な人。一緒に舞台をやっていて楽しい人でした。相手役がいなくなって寂しい」

いしだあゆみ「森繁のおじいちゃんに怒られていますよ、早く来すぎだって」

関口宏「無我っていい名前だな。言わなかったけど。修行僧が到達する世界。生きてるうちは我がたっぷり出ていたが、これで無我になるんじゃないか」(「Wikipedia」より)