とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」702 東京のバスガール ☆ 初代コロムビア・ローズ (映像:松原智恵子)

2021-01-29 15:45:32 | 日記
東京も早くこういう風景が見られるようになるといいですね。松原智恵子さんは吉永小百合さんにも負けない明るい演技で、私たちをひきつけていました。お元気ですか。

東京のバスガール ☆ 初代コロムビア・ローズ (映像:松原智恵子)




松原 智恵子(まつばら ちえこ、1945年1月6日 - )は、日本の女優、タレント。所属事務所はグランパパプロダクション(過去に日活株式会社 → 吉田名保美事務所 → 兒山美榮事務所に所属)。岐阜県生まれ、愛知県名古屋市育ち。名古屋市立桜台高等学校から芸能活動が可能な菊華高等学校(現杉並学院高等学校)に転校し卒業、明治大学二文英米文学科出身。身長157cm。血液型O型。特技は日本舞踊、乗馬。


人物

実家は名古屋市南区で銭湯を経営(現存)。戦時中、名古屋大空襲を避けるため、母親が疎開していた岐阜県で生まれ、戦後に実家のある名古屋に戻った。

1960年、高校生の時に日活が行った「ミス16歳コンテスト」に入賞し、副賞としての撮影所見学がきっかけで「夜の挑戦者」で端役デビュー。

日活時代はアクション映画や青春映画のヒロイン役を多く演じ、1971年に日活の一般映画制作中断により日活を離れ、テレビドラマに主軸を移して活動。

「1960年代を代表する名古屋美人の1人」と評され、吉永小百合・和泉雅子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれた(1967年のブロマイド売り上げでは、吉永、藤純子(現・富司純子)、和泉、酒井和歌子、内藤洋子らを抑えて女優部門のトップになったほどの人気ぶりだった)。都会的で可憐な清純派スターとして絶大な人気を誇り、日活全盛期を代表する女優の1人でもあった。

日活への入社が決まるや否や、父親が東京都調布市に一軒家を建ててくれたため、お手伝いさんと2人で住んでいたという。

16歳で軽自動車、18歳になると普通自動車免許を取得。結婚前はかなりのスピード狂で、高速道路で抜かれると「よくも!抜いたわね〜!(といった具合で)必ず抜き返していましたね」とコメントしている。

27歳でジャーナリストの男性と結婚[1]。新婚旅行ではアフリカ大陸に長期滞在。38歳で妊娠、39歳で長男を出産した。

代表作である『ある日わたしは』が48年ぶりにスカパー!にて再放送されることが読売新聞で報道された。

2016年12月、第1回ソチ国際映画祭で『ゆずの葉ゆれて』の演技が認められ、主演女優賞を受賞した。(「Wikiipedia」より)

あちこち「SYOWA」701 Hayley Westenra - May It Be

2021-01-17 23:03:16 | 日記
今の世、この歌声は心の奥に響きます。

Hayley Westenra - May It Be



ヘイリー・ウェステンラ(Hayley Westenra、1987年4月10日 - )は、ニュージーランドクライストチャーチ出身の歌手である。アイルランド系ニュージーランド人。日本ではヘイリーの名義で活動している。なお、ヘイリーは米語読みであり、ニュージーランドでは、ハイリーに近い発音である。


略歴

祖母は歌手、母方の祖父はピアニストという音楽好きの一家に育った。6歳の時に学校のクリスマス会で歌を歌ったことから始まった。彼女が絶対音感の持ち主であることに気づいた教師に薦められヴァイオリンやピアノ、リコーダーを習い始めた。やがて発声の練習も始め、ミュージカルの舞台を夢見るようになった。11歳までに40回を超える舞台を務めた。

12歳の時に家族と友人に配布する目的でデモ・アルバム『Walking in the Air』を録音し、1000部を制作した。この録音を終えた後、妹と一緒にクライストチャーチの路上でパフォーマンスを行った。多くの群集に取り囲まれそれを目にしたカンタベリー・テレビ (CTV) の記者から番組への出演申し出を受けた。

テレビでのパフォーマンスはプロモーション会社社長の目に止まり、その後、ユニバーサルミュージック・ニュージーランドからレコーディングの申し出を受けた。2000年に自身の名を冠した「Hayley Westenra」でデビューを果たした。アルバムは好調な売れ行きを示し、クリスマス・アルバム『 My Gift To You 』が制作された。ニュージーランド随一の声楽指導者であるマルヴィナ・メイジャー (en:Malvina Major) も彼女の才能を称賛しレッスンを買って出た。2002年の春にロンドンへ渡った際はラッセル・ワトソンと共演する機会にも恵まれた。

ヘイリーの名が国際的に知られるようになったのは2003年にデッカ・レコードと契約しアルバム『Pure』を発表してからのことである。クラシックの楽曲やポップス、マオリの伝承歌のほか、ジョージ・マーティンの書き下ろし曲などを収録したこのアルバムはイギリスのクラシック・チャートで1位、総合チャートで7位となり、全世界での累計売上は200万枚に達した。

『Pure』は日本でも28位と健闘し、さらにテレビドラマ『白い巨塔』の主題歌に「アメイジング・グレイス」が起用されたことで広くその名を知られるようになった。日本ではこのほかに「モーツァルトの子守歌」が映画『ローレライ』の主題歌に採用されたことも話題になった。

2005年にはアルバム『Odyssey』を発表した。ここで彼女はいくつかの曲を共作し、編曲にも参加している。同年12月にはカート・ブラウニング主催のアイス・ショーにゲスト参加しアンドレア・ボチェッリと共演した。2006年の前半はソロ活動と並行してイル・ディーヴォのツアーにゲスト・パフォーマーとして参加した。同年8月から2007年前半にかけてはケルティック・ウーマンに加入し、コンサート・ツアーに同行した。2007年には『ウエスト・サイド物語』の録音(7月30日発売)にマリア役で参加した。2007年2月にはアルバム『Treasure』を発表。彼女自身が全ての選曲を行ったこのアルバムは彼女の祖母に捧げられた。

2008年5月に日本でシングル「アメイジング・グレイス2008」をリリースした。これは2005年に白血病で亡くなった本田美奈子.の残された音源との仮想的なデュエットによるバージョンである。露した同年6月3日には『NHK歌謡コンサート』に洋楽歌手として初めて出演し、本田の2004年のライブ映像をバックにこの“デュエット”版による歌唱を披露。翌6月4日にはこの「アメイジング・グレイス」に加え日本のポップスのカバーを収録したアルバム『純~21歳の出会い』をリリースした。ここでヘイリーは一部の楽曲の編曲や訳詞も手がけている。「アメイジング・グレイス」の一部とボーナス・トラックの「白い色は恋人の色」ではきれいな日本語による歌唱を聴かせている。

< 2014年、海上自衛隊東京音楽隊/三宅由佳莉との共演 >

2014年3月、来日記念ベスト盤『アメイジング・グレイス~祈り ヘイリー・グレイテスト・ヒッツ』をリリース。ボーナス・トラックにNHKが東北地方太平洋沖地震の被災地の支援を行う〈NHK東日本大震災プロジェクト〉の一環として、復興を応援するテーマ・ソング「花は咲く」と、三宅由佳莉(海上自衛隊東京音楽隊)とのデュエットで「祈り~a prayer (duet version) 」の2曲が新録音された。4月7日に都内で行われたアルバムの発売を記念したイベントに海上自衛隊音楽隊から三宅由佳莉(ソプラノ)、太田紗和子(ピアノ)、岩田有可里(コントラバス)がゲスト出演。2人の共演が初めて実際に披露された。

4月8日、8:00~10:25放送の日本テレビ「スッキリ!!」のコーナー”WEニュース”に生出演。20:00~NHK総合テレビ「NHK歌謡コンサート」にヘイリー、そして海上自衛隊東京音楽隊から三宅由佳莉(ソプラノ)、太田紗和子(ピアノ)、岩田有可里(コントラバス)、荒木美佳(ハープ)の4名が出演。「祈り~a prayer(デュエット・ヴァージョン)」をテレビで披露した。

4月14日、東京国際フォーラムで開催された来日公演では、スペシャル・ゲストとして海上自衛隊東京音楽隊の三宅由佳莉(ソプラノ)、太田紗和子(ピアノ)、岩田有可里(コントラバス)が参加。コンサートの後半で「祈り~a prayer」を共演した。
(「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」700 十代の恋よさようなら(神戸一郎)

2021-01-11 16:46:00 | 日記
いやいや、この唄には弱いですね。ま、色んなことを思い出しますので。片思いの・・・・。いや、よしましょう、この年になって今更。

十代の恋よさようなら(神戸一郎)



神戸 一郎(かんべ いちろう、1938年(昭和13年)9月7日 - 2014年(平成26年)4月27日)は日本の元歌手、元俳優、実業家。本名:前原 正捷(まえはら まさかつ)。

経歴

兵庫県神戸市出身。兵庫県立夢野台高等学校、神戸商科大学卒業。芸名は歌手の藤山一郎のような美声と歌の上手さから、「神戸の藤山一郎」…神戸一郎になった。

高校時代から、のど自慢に出場し、1957年(昭和32年)、第8回コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、コロムビアの専属歌手になる。

同年12月、「十代の恋よさようなら」でデビュー。翌年の、1958年(昭和33年)5月発売の「銀座九丁目水の上」がヒット。甘いマスクでアイドル的人気になり、数々の映画にも出演した。当時、「将来の夢は映画スター?」との問いかけに、「やはり歌手でやって行きますよ。いまのところ永久に映画で使ってもらえるかどうかもわかりませんから、そんな大それた夢は持たないことにしています。まず与えられた役をよりよくこなすことで頭が一杯なんです。フランク・シナトラのように歌がうまくなってその上で立派な映画スターになれればいいんですが、ボクの場合は、今のことで夢中なだけです」と答えている。

同じ1958年、NHK紅白歌合戦に初出場。紅白歌合戦には4回連続出場している(詳細は下記参照)。

1963年(昭和38年)には、日活「青い山脈」(主演:吉永小百合、浜田光夫)の主題歌である同曲を青山和子と吹き込みリバイバルヒットさせた。

後に歌手業からは退き、実業家へ転進し会社経営を行っていた。

2014年4月27日午後5時50分、前立腺癌のため東京都世田谷区深沢の自宅で死去。76歳没。喪主は実の弟が務めた。(「Wikipedia」より)