とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」731 時代 -ライヴ2010~11- (東京国際フォーラムAより)

2021-10-29 00:51:15 | 日記
なんと、この歌手のカリスマ性は抜群。こんな映像があったとは。私は心中したい。

時代 -ライヴ2010~11- (東京国際フォーラムAより)



中島 みゆき(なかじま みゆき、本名:中島 美雪(読みは同じ)、1952年2月23日 - )は、日本のシンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。北海道札幌市出身。1975年にシングル『アザミ嬢のララバイ』でデビューした。公式ファンクラブ名は「なみふく」。

オリコンにおいて、4つの年代にわたってシングルチャート1位を獲得した唯一のソロ・アーティストであり、他のアーティストへの提供曲が、5つの年代にわたってオリコンシングルチャート1位を獲得している(後述参照)。また、自身の歌唱も含めると、作詞・作曲を手掛けた作品が5つの年代にわたってオリコンシングルチャート1位を獲得したことになる。

デビュー - 1970年代後半

1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による『第9回ポピュラーソング・コンテスト』に「傷ついた翼」が入賞した。9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコードからレコードデビューを果たす。1975年10月の『第10回ポピュラーソング・コンテスト』に「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞し、11月の『第6回世界歌謡祭』でもグランプリを受賞した。「時代」は12月に2作目のシングルとして発売。これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一に見出される。その後中島は川上を現在に至るまで師父のように仰いでおり、中島のアルバムには、今日に至るまで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD 川上源一」と記載されている。ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージシャンが多い中で、中島はヤマハをそのまま自分の拠点としている数少ないミュージシャンである。

1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表。その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けている。同年には研ナオコに提供したシングル「LA-LA-LA」と「あばよ」が大ヒット、ソングライターとしての名を世間に知らしめる。同年大晦日『第27回NHK紅白歌合戦』で研ナオコが「LA-LA-LA」で出場、一挙に認知度を広める。翌1977年には歌手としても「わかれうた」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにした。作詞家・作曲家としても、先述の研ナオコに提供した「かもめはかもめ」をはじめ、桜田淳子「しあわせ芝居」、増田けい子「すずめ」など数多くのヒット曲を世に送り出し、大きな成功を収めた。

数少ない出演番組の一つとして1977年から放送された『コッキーポップ』がある。その中で披露された「時代」では第6回世界歌謡祭グランプリ受賞の様子がインサートされ、「この空を飛べたら」においては加藤登紀子と共演している。

歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められている。1981年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングルカットされなかったにもかかわらず中島の初期の代表曲の一つとなっている。『親愛なる者へ』以降、1985年発表のアルバム『miss M.』までの8枚のスタジオ録音アルバムは連続でオリコンのアルバムチャートで1位を獲得している。1977年発表のアルバム『あ・り・が・と・う』から1996年発表のアルバム『パラダイス・カフェ』までの22枚のスタジオ収録アルバムは連続で同チャートで10位以内を獲得している。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」730 スワンの涙 Mi-Ke このスワンの涙が好き Best collection

2021-10-06 02:29:55 | 日記
番外としませんでした。自然に懐古的な雰囲気に浸れるからです。グループサウンズの曲をカバーしているということも個人的にはぐっとくるのです。ああ、いい時代だったという陶酔。いや、自然に入っていけるのです。

スワンの涙 Mi-Ke このスワンの涙が好き Best collection



Mi-Ke(ミケ)は、日本の歌手グループ。B.B.クィーンズの音楽コーラス隊「B.B.クィーンズシスターズ」として誕生。後に単独のアイドルグループとしてデビューした。

スターダストプロモーション所属。原盤制作をビーイングが担当。

オリジナルロゴには「Presented by B.B.クィーンズ」と書かれる。


概要
アイドルグループとして1991年にデビュー。振付を意識した当時のアイドルグループの形態をとりながら、アルバムごとにテーマを定めたリバイバル・カバープロジェクトであった。

グループ名の由来は当時ヒットした「たま」をもじり、メンバー3名の個性を活かして三毛猫から取っており、白が宇徳、茶色が村上、黒が渡辺というように色が分けられていた。

なお、Mi-Keをさらにもじった名のアイドルグループ「ザ・ポチ」や「DORA」(日本テレビのアナウンサーによるグループ)、「NORA」(読売テレビのアナウンサーによるグループ)が存在した。

ビーイングの流行りのサウンドとアレンジで60年代後半のグループサウンズの「往年の名曲」のパロディを大量に盛り込んだプロデュースが光り、日本レコード大賞、日本有線大賞、全日本有線放送大賞(現・ベストヒット歌謡祭)、日本ゴールドディスク大賞と各音楽賞の最優秀新人賞を総ナメにし、『第42回NHK紅白歌合戦』(「想い出の九十九里浜」)にも出場。尚、スターダストプロモーション所属のアーティストが、新人賞を受賞したのは唯一Mi-Keのみである。

1992年4月、同月から放送が開始された『NHKヒットステージ』にてアシスタントとしてレギュラー出演。1993年3月の放送終了まで出演した。またスターダストプロモーション所属という事もありCM出演やバラエティー番組にも多数出演している。

ビデオクリップの大半は岩井俊二が監督したコミカルな作風のものであり、1991年にVHSと2002年にDVDでソフト化も行われている。

ヴォーカルを務める宇徳敬子は、1993年にシングルCD「あなたの夢の中 そっと忍び込みたい」でソロデビュー。Mi-Keとしては同年にシングル「Please Please Me, LOVE」をリリース。アルバム「永遠のリバプールサウンド〜Please Please Me, LOVE.」リリース後、グループとしては開店休業状態に入り、ソロ活動に専念する。

村上遥はグループ活動休止後、タレント活動を行う。1993年から1998年までビーイング系音楽番組『NO.』(テレビ朝日)のナレーターを務める。(「Wikipedia」より)