アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記90・映画「Fukushima50」の功罪・「パラサイト」の罪

2020年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム

☆映画「Fukushima50」の功罪

 「3・11」から9年を前に、9日、映画「Fukushima50」を観た(原作・門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」、監督・若松節朗)。
 2時間があっという間の緊迫感、映像の巧みさ、佐藤浩市、渡辺謙をはじめとする俳優陣(すべてハマり役)の熱演。見ごたえのある映画だった。

 現場で体を張って原発事故に立ち向かうスタッフたちと、無責任・無能な東電本社幹部、首相(当時は菅直人)はじめ政治家の対比もよく描かれていた。

 しかし、いくらよくできた映画でも、実際の原発事故はあまりにも深刻だ。どんなに優れた映画でも福島の現実を描ききることはできない。それは想定内だ。

 それを割り引いても、この映画には重大な毒が含まれている。それは自衛隊と米軍の美化だ。

 自衛隊は徹底的に住民の味方として描かれている。「民間の人が戦っているのに、我々自衛隊が退去するわけにはいきません。国を守るのが我々の仕事ですから」という指揮官のセリフは、宣伝用チラシにも載せられている。

 米軍(横田基地)も、福島にゆかりのある司令官が市民を助けるために「トモダチ作戦」を展開したという筋書きになっている。

 自衛隊は世界有数の軍隊であり、その本分は災害出動ではなく戦闘行為だ。それは自衛隊法にも明記されている。被災地での「救助・復旧活動」を大々的に宣伝するのは、自衛隊の違憲性を隠蔽する国家戦略だ。

 米軍は「トモダチ作戦」と称して日本の被ばくを自国のためのサンプルにした。そもそも日本の原発政策は、中曽根康弘、正力松太郎の出発点からアメリカに従属したものだ。原発の背景にも日米安保がある。

 自衛隊、米軍の美化は、劇映画であっても、根本的欠陥と言わねばならない。「復興五輪」の名の下で自衛隊のアピールが強まっているときだけに、その「罪」は重い。

☆映画「パラサイト」の罪

 「Fukushima50」の「罪」は想定内だが、想定外だったのは「パラサイト」だ。韓国の格差社会、貧困問題を描き、アジアで初のアカデミー作品賞を受賞した映画として注目したが、期待は大きく裏切られた。

 確かに、貧困(家族)と富裕(家族)が対比して描かれてはいる。しかし、その格差社会の根源の追及はきわめて乏しい。結末が暴力事件なのは、どうしようもない悲劇を象徴したかったのかもしれないが、それでは生きる意欲も希望も生まれない。

 こした点は、映画の不十分さと評すればすむが、無視できない場面があった。朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の「飛行物発射」を揶揄した場面だ。このシーンは映画の展開上必ずしも必要ない。あえて挿入した印象だ。朝鮮への蔑視・感覚的反発を助長するだけだ。
 これは「パラサイト」の不十分さではなく「罪」だ。「功」なくして「罪」だけが気になる映画だった。

 「映画だから語れる、真実の物語」。これは「Fukushima50」のキャッチフレーズだ。たしかに映画の力は大きい。それだけに、その中に含まれる「毒」「罪」を見抜く眼を持ち続けたい。


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