アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「加害責任」に向き合う「毒ガス工場動員学徒」

2014年06月26日 | 戦争・遺跡

PhotoPhoto_2 福山市人権平和資料館で「絵で語る子どもたちの太平洋戦争」という企画展が行われています(7月31日まで)。
 広島県出身(三原市在住)の岡田黎子(れいこ)さん(84)が戦争体験を絵と文章で綴った画集(写真左など)から、子どもたちがいかに戦争に巻き込まれていったかを振り返る企画です。
 22日、作者の岡田さんを招き、直接お話を聴く催しがありました(写真右)

 岡田さん(当時中学2~3年生)には、2つの痛烈な戦争体験があります。1つは、1944年秋から約9ケ月にわたり、竹原市沖の大久野島の日本陸軍毒ガス工場に学徒動員されたこと。もう1つは、被爆直後に被爆者を救護するため広島市へ動員されたことです。

 毒ガスとは知らされず、厳重な秘密保持・管理の下、危険で過酷な作業に従事させられた日々。多くの学友たちが、当時も戦後も、毒ガスの影響で命を奪われました。

 それでも敗戦時、工場の養成工たちからは、「わしらが作った毒ガスをもっと使えばよかったのに」という声が聞かれたという岡田さんの言葉に愕然としました。戦争はこれほど人間性をマヒさせるのです。

 被爆直後の地獄の中で、それでも必死に生きようとする人々の姿に、岡田さんは子どもながら、「人間の生と死」を深く胸に刻みました。
 そして思いました。「もう少し戦争が続いていたら、日本中がこうなっていた」

 過酷な戦争被害者といえる岡田さんに、戦後、大きな転機が訪れました。
 旧日本軍の中国での蛮行を記録した『三光』を読んだ衝撃です。「三光」とは、殺光(殺し尽くす)、搶光(奪い尽くす)、焼光(焼き尽くす)という日本軍の作戦名です。
 南京大虐殺などを知り、岡田さんは驚愕しました。原爆投下の被害国だと思っていた日本が、実は「加害の国だったんだ」。

 しかしそれがまだ、「自分自身の問題になっていなかった」岡田さんに、再び襲撃的な事態が訪れました。昭和天皇の死去です。死亡を少しでも遅らせようと大量の輸血が行われました。戦争の最高責任者が、死ぬ時もなお、多くの人の血を吸うのか。

 岡田さんは思いました。「何も知らされない学徒動員だったとはいえ、大久野島で毒ガスを作っていた私も、戦争加害者だ」

 「私に何ができるだろう」と考え抜いた岡田さんは、大久野島の実態を描いた画集を自費で出版し、謝罪の手紙とともに、「三光作戦」の犠牲となった中国の地域に大量に送りました。

 すると、受け取ってもらえるかどうかも半信半疑だった先方から、多くの手紙が届きました。「戦争こそ加害者です。力を出し合って、全人類の平和を希求しましょう」。
 手紙には、南京大虐殺時の血で染まったという石の標本(写真右)が添えられていました。以来、その人たちとの親交が続きました。

 中国だけでなく、風船に毒ガスを積んで飛ばし、市民に被害を与えたアメリカにも、謝罪しました。

 岡田さんは言います。「私は生涯、戦争の加害責任を背負って生きていかねばなりません」

 私は体が震えました。
 なぜなら、4年前に肺がんで亡くなった私の父も、大久野島で毒ガスを作っていた養成工の一人だったからです。(この問題は、別途あらためて書きます)

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