アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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天皇はなぜ「海鳴りの像」へ行かなかったのか

2014年06月28日 | 天皇・天皇制

PhotoPhoto_2 天皇・皇后が27日、那覇市内の対馬丸記念館、およびその慰霊塔である「小桜の塔」を初めて訪れました(写真左)。

 対馬丸は、1944年8月22日、米潜水艦によって撃沈された学童疎開船。学童780人はじめ1482人が犠牲になりました。

 犠牲になった学童と同年代であることから、天皇かかねてから希望したものと言われています。
 天皇・皇后は対馬丸記念館で15人の生存者・遺族と面会し、「優しい言葉」をかけました。

 メディアがこぞって「天皇賛美」報道を行ったほか、対馬丸関係者も、「これで一つの区切りがついた」など、歓迎の意見が多いと報じられています。
 しかし一方で、平良啓子さん(79)のように、「戦前の教育(皇民化教育)を考えると、足が向かない」と天皇・皇后との面談を拒んだ生存者もいます。

 天皇・皇后の対馬丸記念館訪問は、沖縄にとって、さらに日本にとって、どのような意味を持つのでしょうか。私たちは、関係ないと傍観していてよいのでしょうか。
 それを考える手掛かりが、、対馬丸記念館に隣接している「海鳴りの像」(写真右)にあります。

 先の戦争で米軍に撃沈された沖縄の民間船舶は対馬丸だけではありません。ほかに25隻あり、犠牲者は約2000人に上ります。その人たちを慰霊する像が、「海鳴りの像」なのです。

 今回の天皇・皇后の対馬丸慰霊に当たり、沖縄の戦時遭難船舶遺族会は、ぜひ「海鳴りの像」も訪れ、船舶犠牲者全体を慰霊するよう、宮内庁に文書で申し入れました(20日)。遺族会としては当然の要求です。

 ところが、天皇・皇后は「海鳴りの像」には行かなかった。
 遺族会の要望書が宮内庁長官から天皇に示されたにもかかわらず。
 「日程の都合」だといいますが、信じられません。なぜなら、「海鳴りの像」は「小桜の塔」よりもはるかに記念館に近いからです。「小桜の塔」に行けて、「海鳴りの像」に行けない道理はありません。

 ではなぜ天皇は「海鳴りの像」には行かなかったのか。
 それは、対馬丸が当時の政府の決定(すなわち天皇の命令)で疎開し、撃沈されたのに対し、それ以外の船舶は直接政府の決定というものではなかったからです。

 この違いは今回の慰霊訪問だけではありません。戦後、対馬丸の犠牲者には国家補償が行われている(記念館にも国家予算が投じられている)にもかかわらず、25隻約2000人の犠牲者遺族には、今も国の補償は全くおこなわれていないのです。

 軍人・軍属には国家補償があるが、それ以外の戦争犠牲者には国家は何の補償もしない。
 これは船舶犠牲者だけではありません。那覇大空襲を含む沖縄戦の犠牲者全体に言えることです。
 また沖縄戦だけでもありません。例えば、広島・大久野島の陸軍毒ガス工場の被害者もまったく同じ状況に置かれています。

 天皇・皇后が「公的行為」として行う、沖縄などへの「戦跡巡幸」は、結局、国家(政府)に都合のいいように、戦争の記憶にフタをすることではないのか。そして同時に、「象徴天皇制」の国民への一層の浸透を図るものではないのか。
 そしてそれは、自民党改憲草案が明記している「天皇元首化」の動きと無関係ではないのではないか。

 「海鳴りの像」を無視した今回の天皇・皇后の「対馬丸慰霊」は、そのことを示しているのではないでしょうか。


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