アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

佐渡金山と皇室と三菱

2024年09月13日 | 天皇制と政治・社会
   

 佐渡金山を訪れ、認識を新たにしたことがあります。それは金山と皇室と三菱のただならぬ関係です。

 朝鮮人労働者に関する「新たな展示」がある「相川郷土博物館」は、元は皇室財産を管理する「御料局佐渡市庁」でした。博物館の入口には、「史跡 佐渡金銀山遺跡 御料局佐渡市庁跡」の石柱が建っています(写真中)。博物館の鬼瓦は「菊の紋章」です。

 博物館に掲示されている年表によれば、江戸時代に採掘が始まった佐渡金山は、1889年に宮内省御料局に移管し、皇室財産となりました。

 それを機に、翌1890年に「高任機械選鉱場」が稼働するなど鉱山の近代化が進み、採掘量が飛躍的に増大しました。

 ところが、7年後の1896年、金山は三菱合資会社に払い下げられ民営化しました(写真左は相川郷土博物館に並んで展示されている「菊の紋章」と三菱の紋章の鬼瓦)。

 払い下げの経過について博物館の年表はこう記述しています。

「佐渡・生野の両鉱山は、貨幣素材の金銀を産出する鉱山であり、黒字経営の優良鉱山であった。しかし、今後の経費負担や、民間企業の成長などもあり、さまざまな調査・議論を経て民間への払い下げが決定した

 払い下げを実現したのは、三菱の創業者・岩崎彌太郎の長男で3代目社長の岩崎久彌でした。三菱は「久彌の時代に日本各地の20カ所以上の金・銀・銅山を取得」(博物館の年表)しました。

 宮内省はただ払い下げただけではありません。同時に「恩賜金7万円」を相川町に下賜しました。「恩賜金」は「大規模事業の資金として活用」(同年表)されました。そして、「恩賜金への感謝を忘れないように、記念式典が現在も鉱山祭りの初日に開催されている」(同)といいます。

 また博物館では、「開館以来、皇室の方がたが大勢ご来館」として、皇太子夫妻(現上皇夫妻)の来館(1956、81年)のもようが展示されています(写真右)。

 「佐渡金山」は三菱に膨大な利益をもたらしました。

「三菱期の総産出量は、金33㌧990㌔グラム、銀444㌧677㌔グラム、銅3859㌧297㌔グラムに及びます。仮に、金Ⅰ㌔グラムを500万円とすれば、1㌧は50億円となります」(竹内康人著『佐渡鉱山と朝鮮人労働』岩波ブックレット2022年)

 日本政府・新潟県は佐渡金山の世界遺産登録申請にあたって「江戸時代まで」を対象にしました。「きらりうむ佐渡」などの展示もその時代に特化しています。それは朝鮮半島植民地支配時代を避けて批判をかわすためですが、もう1つの狙いがありそうです。竹内康人氏はこう指摘します。

「観光での江戸期の金生産の強調は、近代での三菱の利益を覆い隠すかのようです」(竹内氏前掲書)

 ひるがえって、金山が1889年~96年まで皇室財産だったことを想起すれば、金山による膨大な利益は皇室にも入ったと考えられます。それはどのくらいだったのか、その利益(皇室資産)はその後どう扱われて今日に至っているのか、明らかにされる必要があります。

 それにしても、そのような文字通り金の山がわずか7年で皇室財産から三菱に払い下げられた(しかも「恩賜金」付きで)のはなぜか。詳しい経緯は不明です。明治政府(宮内省)と三菱の間でどのような交渉があったのか。

 朝鮮人労働者の強制動員・強制労働によって生み出された佐渡金山の膨大な利益が、今日の三菱の土台をつくりました。その三菱は現在国内最大の兵器産業であり国策企業です。
 三菱は明治以降、時の政権と、あるいは皇室と、どのような関係をつくってきたのか。
 
 政府が「江戸時代」に限定しようとしているのは、朝鮮人労働者の強制動員・強制労働の責任を回避するだけでなく、金山と皇室と三菱のただならぬ関係を隠ぺいする意図もあるのではないでしょうか。


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