アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

チャーチルと戦争と天皇制

2023年07月08日 | 天皇制と戦争・植民地支配
   

 3日のNHK「映像の世紀」は「チャーチルとヒトラー」でした。第1次世界大戦から第2次世界大戦へ至る欧州の戦争の軌跡を二人を中心に振り返ったものです。

 この中で新たな発見だったのは(私が無知だっただけですが)、チャーチルの好戦的性格でした。
 第1次世界大戦に陸軍の大隊長として前線に赴いたチャーチルは、塹壕の中で多くの兵士が死んでいく悲惨な状況を眺めながら、「幸福感」に浸ったといいます。

 第1次大戦後、「これからは科学が戦争の勝敗を決める」と察し、戦車の開発を率先指導。「戦車の父」と呼ばれました。

 ヒトラーが対ソ戦へ戦力を集中する思惑からイギリスに「和平」を申し入れたのに対し(1938年)、チャーチルの前の首相・チェンバレンはこれに応じましたが、チャーチルはあくまでも戦争遂行を主張し、結果、第2次世界大戦に突入しました。

 当初、ドイツの圧倒的な空爆によって敗北の危機に瀕したとき、日本の真珠湾攻撃によってアメリカの参戦が決定的となり、チャーチルは「これで勝てる」とほくそえんだといいます。

 チャーチルはいわば戦争の申し子でした。彼の存在がなければ欧州・世界の戦争の歴史は変わっていたかもしれません。

 ゼレンスキー大統領は昨年、イギリスの議会で演説(オンライン)し、チャーチルの言葉を引用し、ウクライナへのさらなる兵器供与を訴えました(写真右)。英政府は彼にチャーチルの名を冠した賞を授けました。
 チャーチルの好戦性は今日に受け継がれているのです。

 そんなチャーチルは、日本の皇室・天皇制とも深いかかわりがあります。

 明仁上皇は皇太子時代の1953年、父・裕仁の名代として英エリザベス2世の戴冠式に出席しました。初の訪欧でした。裕仁に代わって行ったのは、当時まだ裕仁の戦争責任を追及する欧州市民の世論が激しかったからです。

 戦犯・裕仁に対する批判は皇太子・明仁にも向けられ、彼は窮地に立ちました。それを救ったのがチャーチルでした。
 チャーチルは明仁を自宅に招き、労働組合の代表らも同席させ、宥和を演出しました(吉田伸弥著『天皇への道』講談社文庫2016年)。

 明仁皇太子は帰国後の記者会見で、「大いに知見を広め貴重な体験を得たことは私にとって大きな収穫でした」とチャーチルに謝意を示しました(2018年12月23日放送NHK「天皇・運命の物語」)

 チャーチルはなぜ明仁に救いの手を差し伸べたのか。

 英王室(エリザベス女王)の意を体したもの(写真中は女王とチャーチル)、あるいは戦後政治における日本との関係強化という政治的思惑からと思ってきましたが、それだけではなかったのではないか?

 上述のように、ヒトラー・ドイツに対する敗北が目前だったチャーチルは、アメリカの参戦で救われ、勝利を確信しました。そのアメリカの参戦を決定づけたのは日本の真珠湾攻撃だとチャーチルは考えていました。逆説的に、日本の暴挙がイギリスを救った、その日本の侵略戦争の最高責任者は天皇・裕仁だった、という思いがあったのではないでしょうか。

 まったくの推測ですが、少なくとも、戦争を悪とは思っていなかったチャーチルに、裕仁の戦争責任を追及する意思など毛頭なかったことは確かでしょう。

 
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