水俣病被害者団体と環境省の懇談で起こった「マイク切り」(5月1日、写真左)。伊藤信太郎環境相は8日、懇談をやり直しましたが、団体が求める認定制度の見直しや大規模調査などは「ゼロ回答」。「(具体的な議論のない)パフォーマンス」(関礼子・立教大教授、9日付京都新聞=共同)にすぎませんでした。
「マイク切り」はたんなる運営上のトラブルではありません。その意味を私たちは改めて考える必要があるのではないでしょうか。
発言中にマイクを切られた当事者の松崎重光さん(写真中)を支援し続け、当日松崎さんの横にいた永野三智さん(水俣病センター相思社職員、写真右)が、「水俣 断ち切られた声」と題した論稿(「世界」8月号所収)でその真相を語っています。(以下、抜粋)
<(重光さんの妻)悦子さんは昨年四月、痛みの中でのたうち回って亡くなりました。悦子さんを語るのは、重光さんにとってとてもつらいことで、本当ならば、ゆっくり時間をかけて聞くことです。一団体三分と定められた枠を前に、練習を重ねました。
「チッソが嘘をつき、それに国と熊本県、多くの科学者が協力し、メチル水銀という毒を流しつづけました。我々はそれを知らずに一生懸命海に出て、魚を目いっぱい獲って市場に卸し、その魚は熊本県中に売られていった。毒入りと知らず、水銀漬けの魚を食べるだけ食べて、水銀で全身焼けきってしまった。妻が痛いよ、痛いよとのたうち回っても、私は何もしてやれなかった。海に生まれ、海に生き、その海で苦しみながら、浄土へ行った」
そう言っている途中で、環境省の木内特殊疾病対策室長は「話をおまとめください」と言い、直後にマイクの音声が切れました。
重光さんは絶句しました。私は横に座った重光さんのその顔が、今も頭から離れません。私は重光さんに「マイクはないけど最後までしゃべっていいですよ」と声をかけました。そして重光さんは、
「あなたがたにとっては、たいしたことではないのでしょうね。でもね、患者はみんなこうやって死んでいきます。腹が立つのを通り越して、情けないです。自民党の皆さんは私らを棄てることばかり考えず、我々を見て、償う道を考えてください」
と言いました。大臣はすごく遠くに座っていたから、声は届かず、重光さんの言葉は宙に浮きました。>
これが「マイク切り」の経過でした。「隣にいて、一緒に傷ついた」という永野さんは、この問題が報道された意味をこう話します。
「日本中、たくさんの人のもとにこの出来事が届きました。患者と同じように苦しんできた全国のあらゆる被害当事者が同じ痛みを思い出したと思います。そして、当事者ではないと思っている人たちの心も揺さぶりました。全国の人の心の揺れと傷つきは、被害者を一人にしないことにつながりました(注・例えば重光さんのもとに大阪の小学生からエールの似顔絵が届きました―私)。
被害者が声を上げるということは、今も昔も勇気と覚悟のいることです。報道の向こうにいる人たちが、なぜ怒っているのか、なぜ泣いているのかに関心を寄せてほしい。水俣病だけでなく、他の多くの踏みにじられている人びとに向けても。水俣病だけが救われればよいのではないのです」
「報道の向こうにいる人たちが、なぜ怒っているのか、なぜ泣いているのか」関心を寄せ、想像力を働かせる。そして自分とのかかわりを考える。水俣病だけでなく、沖縄にも、ガザにも、世界のマイノリティ・踏みにじられている人びとにも。
問われているのは、「当事者ではないと思っている」私たちです。