8月が今日で終わります。日本人はこの月に「戦争」を振りかえる機会が多いようです。メディアもさまざまな企画を組みます。その大きな契機はやはり、「8・6」「8・9」の原爆被爆と、「8・15」の「終戦」でしょう。
しかし、その「戦争」回顧は被害の側からであり、侵略戦争・植民地支配の加害の視点はほとんどありません。さらに決定的に欠落しているのは、最大の加害者である天皇裕仁の責任が捨象されていることです。
1947年12月7日、裕仁は敗戦後初めて広島を訪れ、広島市民奉迎所で行われた式典でこう述べました。
「本日は親しく広島市の復興の跡を見て満足に思う。広島市の受けた災禍に対して同情はたえない」(『天皇陛下と広島』天皇陛下御在位六十年広島県奉祝委員会発行)
1975年10月31日、裕仁は初の訪米から帰国した際の記者会見で、自身の戦争責任について聞かれ、こう答えました。
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」
さらに、広島の被爆について聞かれ、こう答えました。
「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」(1975年11月1日付朝日新聞)
裕仁が「国体(天皇制)護持」に執着せずに降伏していれば、広島・長崎の被爆はありませんでした(8月16日のブログ参照)。それだけでなく、「国体護持」と原爆被爆は密接な関係にありました。
「鈴木(貫太郎)内閣と最高戦争指導会議は皇位ともっとも重要な天皇の大権の将来が絶対的に保障されないかぎり、戦争終結を決定することができなかったのであり…民衆が反軍、反戦の感情から国体の変革に向かうことを防ぐために、面子を保って降伏する口実が与えられる状況を外敵がつくり出すのを待っていた。ソ連参戦に引き続く原爆投下(長崎)は、彼らが求めていた口実を与えるものであった。
8月12日、米内光政(海軍大臣)が高木惣吉少将に次のように語ることができたのは、このような理由があったからである。「言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天祐だ」(高木惣吉著『高木海軍少将覚え書』)」(ハーバート・ビックス著吉田裕監修『昭和天皇・下』講談社学術文庫)
「国体護持」を「降伏」の絶対条件とする連中にとっては、原爆投下はまさに「天祐」だったのです。敗戦後の裕仁の度重なる無責任(と言うより非人間的)発言もそれと無関係ではありません。
1945年8月15日の「終戦詔書」(「玉音放送」、写真右)は、たんに「終戦」を知らせたものではなく、天皇制を今後も維持していくと裕仁自身が表明したものです(2020年8月15日のブログ参照)。裕仁と天皇主義者らは「終戦」の日を天皇制の新たな出発の日にしたのです。
重要なのは、その思惑が、敗戦から77年の今日まで引き継がれていることです。
8月15日正午、政府主催の「全国戦没者追悼式」が行われます。それに合わせて、全国で「黙とう」が呼びかけられます。甲子園でもこの瞬間、プレーが中断し球児たちも観客も黙とうします(写真左)。
なぜ「正午」なのでしょうか。裕仁の「玉音放送」が正午に流されたからです。黙とうが終わると、「追悼式」で天皇が「おことば」を述べます。裕仁の声がラジオから流れた時間に。
8月15日正午のこの光景は、まさに77年前のレプリカです。
こうして日本国民は意識するしないにかかわらず、「8・15」に天皇制を刷り込まれるのです。
この国家権力の策略に抗い、逆に、「8・6」「8・9」「8・15」で天皇裕仁の侵略戦争・植民地支配の加害責任を明らかにし、8月を天皇制廃止の世論を広げる月にしたいものです。