角館草履の『実演日記』

〓袖すり合うも多生の縁〓
草履実演での日々の出会いには、互いに何かしらの意味があるのでしょう。さて、今日の出会いは…。

お祭りにおけるヤマの存在。

2015年09月05日 | 地域の話




今日の草履は、大仙市大曲のおばさまのオーダー草履です。ベースは日頃使用している「エンジ」と異なり、ミニ草履に多用している「赤」です。ミニ草履の配色をご覧になったおばさまが、『この赤が素敵ねっ!』。おそらく燃えるような情熱をお持ちなのでしょう。
同居されているご家族と嫁がれた娘さんのご主人も含めて7足のご注文は、お祭り初日の七日お引き取りの予定です。

いよいよ曳山にも人形が乗り始めました。西宮家が属する「本町通り曳山」も今日人形が乗り、あとは細かい作業がいくらか残るにしてもほぼ完成と言っていいでしょう。明日はもう前夜祭ですから、気持ちの上ではすでにお祭りですね。
七日は午後4時の号砲を合図に、十八台の曳山が角館鎮守神明社へ参拝に向かいます。午後四時は他丁内へヤマを進めることが出来る時刻で、自分の丁内の中はもう少し前から動き出します。本町通りは例年午後三時が出発時刻となっています。

お祭りにおける中心的存在があたかも「ヤマ」のように誤解されがちですが、決してそのようなことはありません。お祭りにヤマが出るそもそも論を言えば、神が降り立つその日に祝いの余興として町人が出したことに由来します。ですからお祭りの主役はあくまで「鎮守神明社」と「成就院薬師堂」です。お祭りの日どりが曜日に関わらず九月七日・八日・九日となっているのは、まさに神明社と薬師堂の例祭であるからにほかならないわけです。

ヤマがお祭りの主役ではなく余興の一部であることは、過去の曳山年表でも明らかです。現在十八台を数える曳山も少しずつ増えてこの数になったもので、昭和初期までは九台の時代が長く続いていました。地元ではこれを「旧」と「九」を掛けて「きゅう丁内」と呼びます。いわゆる「古参ヤマ」ですね。その当時は毎年必ずヤマを出すという習慣はなく、明治5年からの資料を見ると九台のヤマが揃い踏みとなったのは、明治26年と27年のたった二回しかありません。戦争激化の昭和19年にいたっては、たった一台しか出ていないんですね。つまり余興の一部であるヤマは、どこかが出してくれればお祭りが成り立ったということでしょう。

「角館祭りのヤマ行事」として平成3年国重要無形民俗文化財に指定されたこともあり、今は「角館のお祭り=ヤマぶつけ」のように思われているフシがあります。確かに最も興奮する場でもありますから、そのことに賛否を論ずるのはやめておきましょう。
角館衆の情熱が熱く燃えるお祭りまで、あと二日となりました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする