あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

林八郎の介錯人・進藤義彦少尉

2021年01月16日 20時04分26秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


林八郎 
昭和十一年七月十二日午前八時三十分、

代々木原頭、一発の銃声とともに、
林八郎はその若き生命いのちを断った。
大日本帝国の万歳を祈る と 最後の言葉を遺し、
天皇陛下万歳を絶叫して。
享年  二十一歳十カ月。

軍法会議の判決が出た直後、
七月の七日か八日ころであったろうか。
習志野の騎兵聯隊の 同期生 進藤義彦少尉 が私を訪ねてきた。
「 実はこんど死刑執行人の一人に選ばれたのだが、
同期生林八郎を撃つことは、
俺にはどうしてもできない。
この命令はなんとしても辞退返上しようと思うのだが、
どうだろうか? 」

「 馬鹿をいうな。
昔から武士の切腹には介錯人がつくが、
これには親友とか身近な人のあたることを本人は望んだものだ。
貴様は同期生林の介錯人に選ばれたと思い、進んでその任に当たれ。
林もきっと喜んでくれるはずだ 」
かくして彼は、死刑執行の任についたのである。
このときは私は、進藤は射撃指揮官であって射手は下士官か兵であろう 
と 想像していたのであるが、
あとで聞けば射手そのものであったのである。
銃の引鉄ひきがねを引く彼の心中、
苦衷いかばかりであったか、想像にあまるものがある。
しかしながら、
同期生の最期を同期生が見送ったのである。
せめてもの心の慰めというべきであろう。
・・・以上 小林友一著 同期の雪 から
・・・
 昭和11年7月12日 (十八) 林八郎少尉 

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上記同級生、進藤義彦少尉 が後年発表した告白記事
偶然ネット上に見付けたので、次に転載する。


処刑前夜
昭和10年に千葉県習志野騎兵第15聯隊で少尉に任官したばかりの私は、
翌11年7月、突如 「 即日、東京青山の青年会館に出頭すべし 」 との命令を受けた。
同じ聯隊からの同行者は私よりも先任の少尉3名と軍曹4名であったと記憶している。
隊では出張の目的は示されなかったがおよそ軍とは馴染みの少ない 「 青年会館 」 という施設に行けとの命令に、
「 はて何だろう  」 という軽い訝いぶかりを感じたことは覚えている。

同日第一師団諸隊から青年会館に集合を命ぜられた人数は、
後で考えると15名の受刑者銃殺刑の執行のため正副の射手が合計30名、
ほかに指揮官要員・衛星部員など合わせて40名近くはいた筈である。
我々は千葉県佐倉の歩兵第五十七聯隊から派遣された陸士37期 山之口甫大尉の掌握下にはいった。

ここで我々の出張の目的・任務が知らされた。
2・26事件に係わる軍法会議の判決による受刑者の死刑執行が任務であって、
少尉は正射手、軍曹は副射手とのことである。
私は、同期の林八郎がこの事件に関与していたことは
事件当時、騎兵第十五聯隊連絡将校として第一師団司令部に派遣されていた折に関知していたが、
この度の受刑者の中に彼がいること、しかも同期生は彼一人であることはこの会館に来て初めて判った。
将校のこのたびの受刑は古来の武士の慣例に従えば切腹と見なし得る。
切腹の介錯人は今回の射手なのだ。
介錯人は切腹者の縁の人がこれに当たる慣わしであったと聞く。
切腹者の最後を見届け、心安らかな旅立ちを見送ってやるのが介錯人の役割だとすれば、
林の介錯はただ一人の同期生たる私がやるべきではないか?
林は私と予科時代に同中隊で面識もあり、
運動時間には負けず嫌いの二人はお互いに剣道で鎬しのぎを削ったこともある間柄で、
そういう親しい仲でなくとも人間的に能力的に私のひそかに敬仰する男であった。

同期の者に相談までしたことがある。
「 実はこんど死刑執行の一人に選ばれたのだが、同期生林八郎を撃つことは、俺にはどうしてもできない。
 この命令はなんとしても辞退返上しようとおもうのだが。どうだろうか?」
「 馬鹿を言うな。
 昔から武士の切腹には介錯人がつくが、これは親友とか身近な人のあたることを本人は望んだものだ。
貴様は同期生林の介錯人に選ばれたと思い、進んでその任に当たれ。
林もきっと喜んでくれるはずだ。」

その秋の処刑を自ら名乗り出て志願する理由があるのであろうか?
黙っておればそれで済むことではないか?
だが真の武士ならば彼の介錯の役を受けるべきではないか?
俺は武士でありたい
・・・恥ずかしい話ながら人間的に未熟な私は自らの進退に迷いに迷ったあげく、
指揮官の大尉に心の中を打ち明けて裁断を仰いだ。
答えは 「 是非とも同期の君に林少尉を頼む 」
ということで私の考えは決まった。
これは11夜 ( 処刑前夜 ) のことで、指揮官に伺いを立てるまでのあいだは偽らざるところ、
「 林を撃つに忍びない 」 という人間的な弱さと、
「 林の最後を見届けるのは俺しかいない。俺は武士でありたい 」
という悲愴にもまた厳粛な使命感との相克の数時間であった。
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処刑当日 ( 7月12日 )
刑執行の場所は今でも周知の如く、当時の代々木練兵場の南端に接する永住刑務所の北隅である。
お恥ずかしいことではあるが、私の気はいささか転倒していたと見えて、
当日の朝食をどのように採ったか、宿舎の青年会館からどこをどう通って刑場に行ったかと言うことも
当日の天候なども全く印象に残っていない。
雨天でなかったことは確実である。

刑場には、刑務所の外柵のコンクリート塀を背に、白布を巻いた五基の十字架といえばキリスト教を連想するが、
元来これは磔台 ( はりつけだい ) であるが立てられてあり、
その前は射撃位置よりもやや低めに地面を少し堀開して平らに地均しがしてある。
十字架の高さはほぼ座高に等しくその相互の間隔は3ないし5Mはあったであろう。
十字架と射撃位置との距離は、往時の 「 照準監査 」 訓練の際の標的と小銃との隔たり ( 約10m ) である。
十字架一基に対し三八式歩兵銃一挺が照準監査台に似た架台に置かれてある。
小銃は兵器廠格納の正照準の新品であると聞いた。

処刑の始まる少し前から、
直ぐ隣の代々木練兵場南端のお馴染みの族称 「 なまこ山 」 と覚しい辺りで小銃、軽機関銃の空砲射撃が始まる。
小隊程度の小部隊の攻防演習を思わせる。
その手前刑務所の柵内の望楼に看守らしい人影が見える。
これは刑場の指揮官となまこ山の演習部隊との間の合図を行うためのものと思われる。
演習部隊の射撃は一回の処刑が完全に終了するまで続けられ、
処刑時の実包の発射音と判別できない仕組みになっていたようだ。

刑場の五基の十字架の列に向って右方向と覚しいあたりに受刑者の控室がしつらえてあると見えて、
その方向から受刑者の辞世ともいうべき雄叫びが聞こえる。
「 ・・・・・・守れ我等が聯隊旗・・・」
などと叫ぶ声も聞こえる。
第一群の5名の受刑者が刑場に連行される頃には静かになったように覚えている。
受刑者の服装は
その頃軍の車両部隊などに支給されていた濃いカーキー色の繋ぎの作業服の新しいのを着ており
靴ははいていなかったと記憶している。
きちんと折り目のついた白布で目隠しされた受刑者は両脇を二人の看守に支えられて刑場に現われ
所定の十字架の前に正座する。
看守が白布で受刑者の頭、両腕を十字架に縛りつけ、
次いで両膝を縛り合わせる。
最後に幅20センチ程度の長い白布を東部から膝に達するまで垂らし、
その上から更に直径2センチの黒点を描いた鉢巻を、黒点が前頭部の中心に位置するように縛る。
射手は黒点の下際を照準せよということであった。

正副の射手はいずれも架台の上の銃の照準を慎重に黒点の下際に付け
架台のねじを固定して照準が完了すると、指揮官に注目して片手を挙げて無言の準備完了を報告する。
各グループの恐らく最古参者であろう
「 準備が終わりましたら大元帥陛下の万歳を三唱させて戴きます 」
と 前置きして以降同音に
「 天皇陛下万歳 」 を代々木原頭の天空に響けとばかりに絶唱した。
五人の正射手の目は指揮官に注がれている。
この間 沈黙の数秒が流れるが、指揮官の手が挙がるや射手は受刑者に対し低頭黙礼して引鉄を引く。
射弾の命中した前頭部からは僅かに白布の鉢巻に先決がにじみ出る程度であるが、
両の鼻孔からサーツと垂れ布を染めて流れ落ちる様子は
痛ましい印象として終生脳裏から消えることはあるまい。
次いで軍医が検診を行う。
絶命が確認されなければ、正射手の左に並んで射撃準備を控えている服射手が替わって再度射撃することになる。
事実 なかにはうめき声を出してなかなか絶命せず、
二発目で、ある人はさらに正射手の三発目で事切れたのであった。
痛ましい極みである。

そしてこれらの全てが終わるまで なまこ山の演習部隊の空包射撃が続行されたが、
それは空ろな印象として残っているに過ぎない。
刑の執行は15名を5名ずつ3回に別けて為された。
1回ごとに執行が終わると直ぐ様 遺体を近くの幕舎に運んで創の処置をして納棺し、
急ごしらえの祭壇に安置する。
十字架の血でよごれた部分は更に上から新しい白布を巻きつける。
これらの作業はすべて医官と看守が担当する。

刑の執行に当たった我々は、
任務とは言え、この手で瞬時に幽明境を異にするに至らしめた十五名の受刑者の霊前に、
一同無量の感慨に咽びつつ深々と無言の礼拝を捧げて、
夕刻解散してそれぞれ帰隊の途に就いた。

処刑当日の一般経過の記述を終わるに際し 付言しなければならないことがある。
それは当日全体の指揮に当たった山之口大尉の苦衷である。
林八郎少尉の 「 介錯 」 の件はいかに苦しいとは言え 林と私との個人関係であるが、
大尉の立場は同期の香田大尉、一期若い安藤大尉など
平素熟知の間柄である将校を含む15名全員の処刑を担当したという苦悩を味わった点は想像を絶するものだと思う。

林八郎少尉の最期
死を目前に控えて林の態度は正に冷静沈着で、挙措言語まで温厚柔和そのものであった。
処刑前の控え所における、また刑場における受刑者の言動には人によってはいくらか興奮気味の言辞も聞こえたが、
林には寸毫もそのような気配は感じられなかった。
終始物静かで、学校時代の平素の態度そのままに看守と対応している。
看守が膝を縛ろうとすると、
「 ほどけないようにしっかり結わえてくれネ 」
と優しく微笑む。
林よりずっと年かさの看守が親切丁寧に縛ってくれている。
5ケ月余の刑務所での起居の間に
お互いに公私に亘り何かと馴染んできたであろう二人の密やかな心情に思いを致し、
瞬間胸の詰まる思いがした。
些細なことであるが
「 縛ってくれ 」 と言わずに 「 結わえてくれネ 」 と言った彼の言葉が訳もなく今に至のも忘れられない。
林は私の一発の発射で事切れてくれた。
介錯人の任務は終わった。
射手の全員が皆任務が終了したのであるが、この任務は自己の才能を振って完遂を目指す軍務と異なり、
緊張の余りロボットのように固くなって任務に服したという感じを持つのは私だけではあるまい。
前夜いろいろと悩み迷いはしたものの、
結局は半ば己の意思で同期生林八郎の 「 介錯 」 の役を買ってでた私は、
からだの続く限り 彼の供養を怠らぬことを終生の念願としている。
毎年2月26日には 刑死者の慰霊祭が東京麻布十番の賢崇寺で営まれることになっている。
当日はかならず参拝し、心をこめて刑死者の霊前に尺八の古典の曲を献吹しつつ
秘かに林の霊と語り合っているつもりである。


昭和11年7月12日 (十八) 林八郎少尉

2021年01月16日 14時17分41秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


林八郎 

大日本帝国の万歳を祈る
・・・死刑執行言渡時の発言

昭和十一年七月十二日午前八時三十分、

代々木原頭、一発の銃声とともに、
林八郎はその若き生命いのちを断った。

大日本帝国の万歳を祈る と 最後の言葉を遺し、
天皇陛下万歳を絶叫して。

享年  二十一歳十カ月。

軍法会議の判決が出た直後、
七月の七日か八日ころであったろうか。

習志野の騎兵聯隊の同期生進藤義彦少尉が私を訪ねてきた。
「 実はこんど死刑執行人の一人に選ばれたのだが、
同期生林八郎を撃つことは、
俺にはどうしてもできない。
この命令はなんとしても辞退返上しようと思うのだが、
どうだろうか? 」

「 馬鹿をいうな。
昔から武士の切腹には介錯人がつくが、
これには親友とか身近な人のあたることを本人は望んだものだ。
貴様は同期生林の介錯人に選ばれたと思い、進んでその任に当たれ。
林もきっと喜んでくれるはずだ 」
かくして彼は、死刑執行の任についたのである。
このときは私は、進藤は射撃指揮官であって射手は下士官か兵であろう 
と 想像していたのであるが、
あとで聞けば射手そのものであったのである。

銃の引鉄ひきがねを引く彼の心中、
苦衷いかばかりであったか、想像にあまるものがある。

しかしながら、
同期生の最期を同期生が見送ったのである。

せめてもの心の慰めというべきであろう。


七月十二日早朝午前七時頃、
私は林の遺体引取りのため、代々木練兵場の南端についた。

練兵場に面して刑務所の赤い煉瓦塀があり、
その中ほどに通用門、昔流にいえば不浄門があって、
そこから遺体が渡されるのである。

見ると、黒い喪服を着た うら若い美しい女性が佇んでいる。
傍らに二、三歳であろう、まことにかわいらしい女の子が遊んでいる。
今、父親が刑死しようとしていることなど、もちろん露知るはずはない。
広い練兵場の草原が珍しいのか、嬉々として遊び戯れているではないか。
深い憂いに満ちた目で、じっとそれを見つめる母親の姿。
思わず涙が溢れそうになった私は、
つとそこを離れて、叢くさむの上にどかりと胡坐をかいた。

私は腕を組み、目を閉じ、ただ黙然と座りつづけた。
当日は暑かったという。
私は覚えていない。
練兵場は演習の銃声で大変やかましかったという。
私には何も聞えなかった。
林のご遺族も見えていたはずである。
私にはまったく記憶にない。
私は、悲しみというか、憤りというべきか、ただ涙を抑えるのに精一杯で、
全身の神経がその動きを停止したかのように、ただ座りつづけたのであった。
林は一番若かったので、処刑が最後になったのであろう。
大分待たされた。
いよいよ引き渡しの時がきた。
門が開かれて棺桶が差し出される。
まず蓋を開けて確かめる。
まさしく林の遺体である。
死刑直後であるので、顔色は生前とまったく変わらず、
今にも口を動かして語りかけてきそうな錯覚を覚えたほどである。
眉間を中心に、顔面の半分を斜めに、そして頭全体を包帯で巻いてる。
その包帯の白さが目にしみる。
顔の両眼に、百合であったか、菊であったか、真っ白い花数輪が添えられてある。
遺体引き渡しの前に、坊さんの読経の声を聞いたこととあわせ、
私はかすかに 『 武士の情け 』 を感じたことであった。

遺体を落合の火葬場に運んで荼毘に付す。
遺骨を抱いて目白の林の家へ帰る。
すでに夕刻になっていたと思う。
お母さんが、ほの暗い玄関の畳の上に正座して、静かに無言で林を迎えられた姿が、
今もなお明らかに私の瞼に浮かぶ。
もちろん涙は見せられない。
むしろ厳しいとまで思われる白いお顔が忘れられない。
遺体引き取りにはお母さんも見えているし、火葬場からも一緒に帰ったはずではあるが、
私の当日の印象にはこう残っているのである。

その晩は通夜である。
ご家族、ご親族はあくまで静かに、しめやかに、遠慮がちであった。
林は罪人であり、刑死者であるからである。
私は同期生をはじめ、同志十数名を集めた。
そして徹底的に飲んで騒いだ。
林は酒豪であった。
痛飲することが一番の彼の供養になるのだ。
まさしく 『 通夜 』 であった。
時に林の骨壺に酒をふり注ぎながら、夜の明けるまで、
終夜狂ったように軍歌を高唱し続けたのであった。

いく日かの後、多磨墓地で埋骨が行われた。
罪人には葬式ができないのである。
埋骨式ではなく、単なる埋骨である。
坊さんも来なかったと思う。
読経を聞いた記憶はない。
私は陸士生徒を含めて同志約三十名を集めた。
土を掘り、骨壺を埋める作業の周囲に、円陣をつくり腕を組んだ。
そして静かに、声は低いが、腹の底から絞り出すように
『 昭和維新の歌 』 を 皆で歌いつづけたのであった。
林八郎への告別の言葉であり、読経である。

泪羅ぺきらの淵に  波騒ぎ
巫山
ふざんの雲は  乱れ飛ぶ
混濁の世に  吾たてば
義憤に燃えて  血潮わく

権門上かみに  驕れども
国を憂うる  誠なし
財閥富を  誇れども
社稷しゃしょくを思う  心なし

ああ人栄  国ほろぶ
めしいたる民  世に踊る
治乱興亡  夢ににて
世は一局の 碁なりけり

・・・・

・・・・

功名なんかは  夢の跡
消えざるものは  ただ誠
人生意気に  感じては
成否を誰か  あげつろう

・・・・

歌声はいつしか涙声となり、慟哭どうこくとなったが、
いつまでもいつまでも続いた。
林八郎。
二十一歳十カ月のあまりにも短い生涯であった。

埋骨式の翌朝。
聯隊へ出勤すると、さっそく師団司令部からの呼出しがあった。
「 刑死者の埋骨に、あのように多人数を集めるとは、甚だもって不穏当である 」
と、参謀長のきついおしかりである。
結局は私は無罪放免になったが、昨日集めた陸士の生徒のほうが心配になった。
こんなことで処罰でも受けたら大変である。
私はその足で、近くにあった教育総監部にとんで、担当課長に会った。
強硬に、しかも慇懃いんぎんに陳情を行い、
すべて黙認するという言質を得て、胸を撫で下したのであった。


小林友一著  同期の雪  から


昭和11年7月12日 (十九) 水上源一

2021年01月15日 13時35分44秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


水上源一

国民は絶対皇軍を信頼して居るのだ。

其信頼を裏切るな。
露西亜に負けてはいけない。
日本は破壊されます。
・・水上源一 ・・・死刑執行直前の言

十二日は、暑い日であった。
東京衛戍刑務所からの通知が届けられたのは朝。
既に処刑は終った時間である。
「 水上源一の御遺骸御引取ノ為  本十二日午後二時東京衛戍刑務所ニ出頭相成度 」
と あった。
水上源一は午前八時三十分処刑。
妻が差入れた扇子に、
「 我が永遠の最愛なる妻初子よ  義務終りたらば来れ  我れは嬉んで迎ふ
それ迄は強く強く生きよ    昭和十一年七月拾壱日  夫源一 」
と その前夜に書き、箱に、
「 今処刑台に行かんとしそれ迄我手に固く持つていたもの  既に栗原さん露と消えたり 」
と 書き残して刑場へ去る。
水上は最後の処刑組に入れられていた。
遺骸は家族に引渡さず、人型の人形を渡されるかも知れないという噂があった。
夫の柩の蓋をとって死顔と対面した後、妻は綿を含んだ口へ指を入れて夫の歯を確め、
夫の体徴の一つであった小指の曲りを確認した。
夫はよくものを言った瞳を固く閉ざしたままであった。
「 私と思って下さいね 」
その朝切った長い黒髪を夫の胸に抱かせて別れを告げた。
霊柩車の暗い車内に夫の柩を守ってたった一人火葬場へ揺られてゆく。
暑さは容赦ないが、体中の水が涙になったように烈しく頬を伝う。
誰に遠慮もいらない夫と二人だけの秘密を、妻のむせび泣きが満たしていた。


火葬場から帰っての記念の写真がある。
霞町の家を引払った後のアパートの一室に、
黒絽の喪服を着て体がかくれそうな夫の遺骨を抱いた初子さんと、
白い段々のフリルのついたよそゆきを着た宣子さんとの写真である。
若い未亡人の双つの手がしっかりと遺骨を抱いているのが暗示的でさえある。

東京の世帯を畳み、調度類を夫の郷里へ送る作業は、すべて夫の親戚が面倒をみてくれた。
死に直面している夫に対しては、健気な覚悟を示した妻ではあるが、
遺骨を前に茫然としていた。
夫の郷里の街で葬儀を営み、八月が足早に去って行く頃、
風が秋の近いことを知らせた
・・・
澤地久枝著  妻たちの二・二六 から

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軍法会議の判事も俗人なる以上 裁判に間違ひないとは言へない。
源一の死は単なる犬死ではなく あの偉大なる衝動に依り国家は将に二十年の前進を為した。
源一等の真精神をも軈やがて国民全般に認められ
国家が革新された時は維新の先駆者として日本の歴史の一頁を飾るものである。
其が せめてもの一家の嘱望して居る処だ。
秘密に執行せられた死刑も葬場に来る途中を見ると多数の老若男女が遺族に向って
涙を流し 手を合わせて拝んで呉れていた。
此の光景を見て、源一等の為した精神が一応国民に透徹して居る様な気がする。
而し此の死刑を執行する以前に 鈴木侍従長の更迭がなかったことは、
各死刑者共 残念がっていたことと思ふ。
嘗ての軍部は斯ふ云ふことに積極的であったが 此頃の軍部は一向無頓着で
斯る傾向は国民の興亡が軍部に反映しない結果で軍民離間の因を為すものにして
国家の為 慨嘆に堪へず。
・・・叔父・佐藤義蔵

弟は、生前常に国家の改革を主張して居たが、
私は常に弟の主張に対し国家の改造は急激に為し得るものでない事を説明して居たが
而し 壮年の血気は止むに止まれず 遂に斯如き大事を起すに至り、
世間をお騒がせしたことは兄として充分責任を感じ社会に対し申訳ないと申して居ります。
弟の 十五年の求刑が死刑になったことは、
軍服を着て指揮をした為に当局の心証を害した結果と思ひますが、
少し重過ぎる様な気がいたします。
此の上は妻と子供を育てて行く事が、兄として弟に対する務めであり、
国士としての精神を生かすものだと思ひます・・
・・・兄・利四郎


昭和12年8月19日 (二十一) 西田税

2021年01月14日 13時35分03秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


西田税 

昭和十二年八月十九日、
午前五時三十分、
西田税は
東京代々木の陸軍衛戍刑務所内に特設された執行場において銃殺された。
行年三十七歳。
北一輝、村中孝次、磯部浅一 といっしょである。
同日朝、
死刑執行を言い渡した塚本刑務所長に対して、静かにこう言っている。
「 大変お世話になりました。
ことに病気のため、非常に御迷惑をかけました。
入院中、所長殿には夜となく、昼となく忙しい間を御見舞 ( 刑務所註、主として勤務監督なるも見舞と見て感謝す )
に 来て下さりまして、感謝に外ありません。
現下陰悪なる情勢の中の御勤務で、お骨折りですが、折角気を付けて御自愛を祈ります。
皆様によろしく 」
いよいよ刑架前にすわると、
看守に対し
「 死体の処置をよろしくお願いします 」
と、落ちついた態度で撃たれたのである。

北、西田の両家は、処刑の前の晩から、
北家の応接間に合同で祭壇を設け、両人の写真をかざり、たくさんの生花と茶菓を供え、
みんな喪服に着がえて祭壇の前に座った。
北家では、一輝の母リク、妻すず子、養子大輝、
西田家では、母つね、妻初子、長姉由喜世、次姉茂子、弟博、正尚、
その他両家の親戚の人々、
岩田富美夫、中野正剛ら同志の人々
が、六十人余りつめかけ、刻一刻と死期の迫る獄中の北、西田を思って一睡もしなかった。
中でも とりわけ西田を敬愛し、期待し、信頼していた母親のつねは、
平静に座しているものの胸中には あふれるばかりの憤怒の炎があった。
  夜もすがらありし昔の思ひ出を   くり返す間も夜半の秋雨
と、この夜あけに詠んでいる。

朝六時すぎ、 「五時五十一分絶命されました 」 と 憲兵が知らせにきた。
一同は
つね を先頭に、衛戍刑務所さしまわしの車で、遺体の引取りに向った。
門前に新聞社の人が数人つめかけていたが、入門できないでいた。
一同は刑務所の裏門から入ったが、
刑務所側はひどく敬意のこもった態度で、丁重に遺族たちを迎え入れた。
数人の僧侶が静かに読経するなかで、遺族たちはそれぞれの肉親に最後の対面をした。
西田は平素とかわらない静かな表情をしていた。
額の銃弾のあたった所は白布で巻いてあったが 血がにじんでいた。
手は縛られた跡もなく、清潔に身体をふいて、白衣を着せ、
寝棺の中にていねいに納められていた。
係官は御遺体に不審な所があれば何でも聞いて下さいと、
弟の博に言ったが不審な所はなかった。
妻の初子は、
「 額の血が流れて顔にかかっていたので拭おうと思ったけれど、
女の体はけがれているようで、気後れがして、とうとう手をふれませんでした 」
と 語っている。 ( 『 妻たちの二・二六事件 』 ) ・・・リンク→西田はつ 回顧・西田税
刑務所の中でも、火葬場に向う車の中でも、
つね は一言も口をきかず 一滴の涙も流さなかった。
必死に堪えている風であった。

落合の火葬場では 村中、磯部、北、西田 四名の遺骸を一度に焼いたが二時間で終った。
ここにも同志の人々が四、五十人供をしてきて、
お骨を拾わして下さいといって、まだ熱い遺骨を競うようにして 丁寧に拾った。
西田の遺骨は分骨して、
東京に残す箱は妻の初子が、郷里の墓地に埋葬する箱は弟の博が捧げもって、
北家にひきあげたのはもう昼すぎであった。

北家の応接間の祭壇に安置された 北、西田の遺骨に香をたいていた つね は、
黙然としてしばらく座っていたが、突然 伏して腸はらわたをふりしぼるようにして泣いた。
堪えに堪えて、堪えぬいた涙である。
かたわらで黙ったまま、頬をつたう涙をぬぐっていた中野正剛は、
つね のやせた肩に手をかけて
「 お母さん、泣かれる気持はわかりますが、泣いてはいけません。
貴女は後世に名の残る子供を生んだお方です。
不肖 中野が生きている限り必ず西田君を世に出します。
絶対に出してみせます 」
と、力強い声で慰めた。
しかし、その中野正剛も、
それから六年後の昭和十八年十月二十七日、

時の首相 東條英機の圧政に憤怒し、
悲壮な割腹自殺をとげたことは周知のとおりである。

最愛の子を、
しかも無実の一庶民を法をふみにじって銃殺した陸軍に、
つね は やり場のない憤怒をいだいたであろうことは想像にかたくない。
  一九いく空の東こちも南も晴れよかし  命捧し北と西田に
  蓮の葉にしばし宿りし玉露も  一九夜をまたで法のりのうてなに
この日、

つね は こう詠んでわが子の霊前にささげた。
田舎町の仏具商の未亡人としては、ずばぬけた教養と識見の持主であった。
これは必死の思いを歌に托し、
とおい虚空のわが子の霊によびかける悲母の歎きであった。
  老ぬればいつか嵐の誘ふらん  逝きしみたまに逢ふもなつかし
この時、つね は 六十八歳、
余命は永らえたくはないが 非業の死を遂げたわが子を思うたびに、
断腸の思いにかられては歌を詠んだ。
  初雪や胸のつららの夢思ひ  いつかはとけん老のからだに
しかし、つね の憤怒の思いはついに溶けることなく、
昭和十七年八月十四日、七十三歳でこの世を去った。
「 母の口惜しさは、年ごとに強まったように思います 」
と、村田茂子は ある日の つね の思い出を語る。
日支事変が膠着状態に陥った頃だから、昭和十三・四年頃であったろうか。
ある日、後続の妃殿下が伊勢神宮にお詣りになった。
婦人会の幹部であった茂子は、奉迎準備にかり出されていたが、
おりから遊びに来ていた母を、一目拝ませてやろうと、飛んで帰った。
「 妃殿下がもうすぐお着きですよ、一緒に拝みましょう 」
と、声をかけたが、つね は 返事をしない。
二度目の催促に
「 わしゃ行かん、見たくもない 」
と、顔を真赤にして吐きすてるように言った。
つね は 若い時から皇室崇敬の心は篤く、
新聞に出た皇室の写真すら、
下におかないように子供たちに言い聞かせていた。
その昔の母の姿を思い浮べ、
茂子は 今更のように、 母の心の傷跡の深さを知った。
・・・須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から


昭和12年8月19日 (四) 磯部浅一

2021年01月13日 17時35分35秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


磯部浅一     磯部登美子

之は妻の髪の毛ですが、
処刑の際 所持することと
棺の中へ入ることを許して下さい。

・・磯部浅一・・・死刑執行言渡直後の発言

義父は昭和二十六年、七十六歳で他界いたしました。
義父の死後、義父が生前大切にしていた手文庫を開けてみましたら、
磯部さんからの遺書と思われる達筆で書かれた毛筆の封書と、
一通の電報が沢山の書類と一緒に入れてありました。
電文は
『 イマカラユキマス、オセワニナリマシタ、イソベ 』
とあり、発信は渋谷局となっていましたから、
処刑直前に奥さんにでも言いつけて打ったものと思われます。
御生前の凛凛しかった磯部さんの姿を思
い浮かべ、
電文をうつ 奥さんの心中を推しはかって
思わず泣き伏してしまったことを覚えております。
・・松岡とき (松岡喜二郎の長男省吾の妻 )



昭和12年8月19日 (三) 村中孝次

2021年01月13日 14時21分17秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)

 
村中孝次  

 
・・前文略・・

いざ面会だ。
戸をあければそこが面会所、一つのテーブルをはさんで対面、劇的シーンです。
顔をみて言葉を出さず、唯々涙のみ。
一言 言はんとすれば涙して言葉が出ず感情はたかぶるのみ。
されど本人は実に元気、昨年会った時の幾倍もの元気と顔の色、身体の壮健さ、
あゝこの元気な者が今や仏にならんとするかと思へば、又涙するのみ。
膝に法子さんを抱き、力強い言葉で自分の信念を語る弟を見た。
それは神の力によつてか、仏のなさけによつてか、現在は解脱した英雄と思ひました。
死は当然の覚悟、唯々若き部下の青年将校を死に到らしむるは残念だと言つてゐた。
死後は仙台に静子さんと共に行きたい希望、子供や妻の居る場所に葬つてほしいとの事でした。
約三十分の面会時間、前後に固く握る。
それはそれは強い力でした。
涙のみ、言ふ言葉が出ず。
弟は余り悲しまない様にしてくれと言つて別れました。
明日も面会できると思ふ。
ばあさん、孝子よりもよろしくと言つたら感謝して居つた。
死刑執行は全然秘密です。
幾時あるかわかりません。
静子さんは比較的元気、一時的の興奮に大気持の元気と思ふ。
法子さんも元気、子供の顔をみて可愛さうでならない。
『 パパに早く会ひたい。パパの所へ早く行かふ 』
と、母親の膝にすがりつく様子をみて何人も涙なきを得んや。
面会の時間をまつ長き間、その様子は如何んと、悲しみを深くせし事よ。
十七名の若き御霊は、手に手をとつて行くと信じます ・・後文略・・
・・村中孝次の次兄・信次の面会時の様子を旭川の彼の妻に宛てたもの
・・須山幸雄著 二・二六事件 青春群像から

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弟は自分等は血みどろになつて、永久に陛下をお守りすると言ふことを、
何回もくり返して冒頭し、
全国にも多くの同志が居るから、何れ 自分等の気持をうけついでくれると思ふ。
将来、自分等の行った事が明瞭に判る日がくる。
同志十五名の者は、天皇陛下万歳、日本帝国万歳を各々三唱し、最後に君が代を合唱し、
五名宛三回に渉りて銃殺されてゐる。
自分も同志と共に行きたかったが、取調べがあるので生き残されてゐる事は残念に思ふ。
裁判官も、諸君の気持ちは十分判つて居るが、
上からの弾圧で如何ともできぬのを遺憾に思ふと言つてゐた。
又 妻にたいしては、子供を大切に心配せずに暮らしてくれ。
自分は近く最後の日がくると思ふが 決して死にはしない。
魂は今より以上に強く生きて陛下の御為に尽す覚悟だから安心せよ。
活動でも、芝居でもみて朗らかに人生を送ることが、何より一番良い。
クヨクヨしてはならぬ、と 別離の言葉を告げ乍ら、
自分等に対し、兄さん、長い間お世話になりました。
これで言ふことはないから、早く北海道に帰って、皆さんによろしく申してくれ、
と 伝言をたのんでいた
・・村中孝次の長兄・貞次の面会
・・須山幸雄著 二・二六事件 青春群像から

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昭和十二年八月十九日
朝六時過ぎ、
憲兵隊より遺体引き取りの通知をうけた村中夫人は、
義兄の宇野弘と義弟正と法子を伴い、
九時四十五分刑務所に着き 裏門から入った。
数人の僧侶の静かな読経の流れる中で、遺族たちは最後の対面をした。
静子は夫のデスマスクの作成を願い出たが、刑務所側は許可出来ない旨を伝えた。
夫の面影を永久に残しておきたい静子はなおも執拗に頼みこんだが、
警視庁は時間が経過しているから完全にとれない。
内務省は他に利用されるおそれがあるからと許可しないことを再度説き、
兄弘の説得で静子はしぶしぶ聞きいれた。
十一時十三分、代々幡火葬場で火葬にふした。
火葬場では旭川から駈けつけた村中の兄貞次を加え、
ここでも簡単な読経のあと点火、
三時拾骨、大小二個に分骨し、麻布の賢崇寺に着いた。
焼香者は一年前、刑死した田中勝中尉の義父の梶山清蔵だけだった。
夜十時二十分発で、村中の遺骨は妻の胸に抱かれ、
義弟正と法子と青森行きの列車に乗って 静子の実家のある仙台に向った。
上野駅には 「 村中定次、宇野弘、相澤よね ( 相澤三郎の妻 ) 見送りなしたる外
右翼関係者等の見送りなく無事出発せり  尚此の間特異の行動なし 」
と 憲兵情報は記録している。
とっぷりと暮れた東京の夏の夜空に、街の灯がまばたいていた。
憲兵の目は、なおも村中の遺族につきまとう。
仙台に到着した遺族の状況を、
1  仙台市堤通一二八  義兄(歩兵少佐) 宇野修一留守宅 
 死刑者村中孝次  妻村中静子
右は長女法子と共に故孝次の遺骨を携行 
八月二十日午後六時五十七分仙台駅着列車にて帰仙せるが仙台駅頭に 
静子の叔母山内トキ  静子の親戚武亀三郎外女二名の出迎を受け
直ちに自動車にて前記留守宅に至り 遺骨を安置せるが
近く妻の実家の菩提寺たる 仙台市新寺小路三〇曹洞宗松音寺に埋葬する趣なるも
目下在京中孝次の兄の帰来を待ち本月二十四日頃施行の予定なり
遺族村中静子の言
夫孝次も十九日遂に粛軍の犠牲として永久に消えて逝きました
私は何度も申上げます通り
決して夫の行為を真に国法を犯したる大罪なりと考へてはおりません

又 寸毫も夫を憎む気持になれません
然るに 警察や憲兵隊の人々は
其の事に関して色々五月蝿
うるさく尋ねますが 何の意味か解りません

もう既に 亡き夫の事に関し 何も申上げたくありません
只私として夫の遺志を受継ぎ法子を育て  夫の冥福を祈るのみで 
何時か夫の素志の世に出る日を待ち続けます
私は今更泣言ではありませんが
夫の在隊当時軍隊こそ
堅実にして信ずべき世界であると思って居りましたが

現在では 全く其の観念を失い
一種の呪はしさ さえ感じて居ります 

云々
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妻は官憲の恐れを知らぬ大胆な発言をしている。
軍人の家庭で育ち、
軍人の生活を真なりと信じてきた妻は、
夫の死によってその幻想はかき消され、
呪詛の言葉となって吐き出されたのだ。
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陸軍省は午前十一時五十分
「 曩さきに東京陸軍軍法会議に於て
死刑の言渡を受けたる
村中孝次  磯部浅一  北輝次郎(一輝)
 及 西田税の四名は
本十九日 その刑を執行せられたり 」
と 発表した。

叛徒  2.26事件と北の青年将校たち--平澤是曠 著 から


昭和11年7月12日 (番外) 池田俊彦少尉

2021年01月13日 13時37分23秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)

 
池田俊彦

遂に悲しむべき日がやって来た。
十一日の夕刻、向いの棟がなんとなく騒がしい。
いつもと違った大声で何やら話している。
お互に何かやりとりをしているようであった。
その声は夜が更ける迄続いた。
明け方近く、君が代の斉唱が聞えてきた。
それは静かな声であったが、腸はらわたを抉えぐるような調べであった。
長々と歌われていたように思う。
静かな真暗な闇が薄明りの監房を包んでいた。
我々はまんじりともせず耳を傾けていた。

夜が明けて運命の十二日を迎えた。
そして遂に午前七時、第一回の処刑が行われた。
数人ずつ監房を出てきた。
香田さんや 安藤さんや 栗原さん達であった。
刑場に行くとき こちらに向って合図した。
私達は皆 立ち上って格子に身を寄せて見送った。
姿が見えなくなる迄 名前を呼んだ。
しばらく経つと 例の空包射撃が始まり、その騒音の中を実弾の響きが走った。
皆 合掌していた。
そして泣いていた。
私の隣に立っていた常盤の頬を涙が流れていたことを憶えている。
一時間おき位に、三回に分けて処刑は行われた。
皆元気一杯に一列縦隊に並んで行進していった。
林は一番最後の組であった。
私は姿が見えなくなる迄、林の名を呼び続けた。
この時の実弾の音は私自身の胸に突きささるようであった。

戦後、私は林の処刑に当った同期生の進藤義彦君から、その時の話を聞いた。
林は
「 姿勢が乱れないないように足を固く縛って下さい 」
と 監守に頼み、
目隠しをされて看守の肩につかまりながら
平然と刑架についたそうである。
進藤君は林の態度が一番立派であったと言った。
林は強烈に生きたかったに違いない。
だからこそ 死ぬ時も一番立派に死んでいったのだ。

一同死の直前、
天皇陛下の万歳を唱えた。
香田さんは
「 皆 死んだら血のついたまま、天皇陛下の処へ行くぞ。死んでも大君の為に尽すんだぞ 」
と 言った。
安藤さんは 秩父宮殿下の万歳を唱えた。
栗原さんは烈しく身体を振って
「 栗原死すとも 維新は死せず 」
と いったとのことである。

処刑は午前中に終わった。
そして刑務所はひっそりと静まった。
生き残った者は涙に濡れて、しばらく放心状態が続いた。
あの人達は皆 死んでしまったのだ。
もう この世にいなくなってしまったのだ。
虚うつろの思いが胸一杯に広がり、一同全く無言であった。

この日処刑された人々は十五名であったが、
私達は十七名の者全員が処刑されたと思っていた。
村中さんと磯部さんがあとの裁判の証人のため残されたことは全然知らなかった。
看守もこのことは我々に教えてくれなかった。
我々が十八日、
この陸軍衛戍刑務所を去って、小菅の刑務所に移送される迄、両名の生存は知らなかった。

池田俊彦 著  生きている二・二六  から


昭和11年7月12日 (番外) 佐々木二郎大尉

2021年01月11日 13時30分58秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)

 
佐々木二郎 

七月十二日の朝、
いつものように座禅していると、
代々木練兵場から聞こえる空砲に混じって実弾の音が聞こえた。
その瞬間、頭上から冷水を浴びせられたように思った。
所内はシーンと静まり返り 軀はゾクゾクとしてき、上から何物かに圧せられたようだ。
実弾の音の度毎に、瞼の中に パッ と光明を感じ、ある臭いがした。
死刑執行だ
と 頭に閃いた。
ハッ と思い出したことがある。
しきしまのみち会から出した 『 明治天皇御製と軍人勅諭 』 のなかにある
「 ・・・・人体からも放射線が出て、宗教画の円光、後光などは 想像や譬喩ひゆではなく
物理、生理的現象であることが明らかにせられております。
礼記に人の生命は照明焄篙悽愴の三形態を取って空中に放射されるということがありますが、
これも物理、生理的に証明せられております 」
の 文句である。
今感じているのがその三形態ではないか。
私はとめどもなく涙を流しながら、ともすれば抜けんとする腹の力を抑えつつ、
この地上から離れて行く諸霊に祈念を凝らした。

初七日はよく晴れた日で、戸外運動をしているとき看守に言った。
「 今日は初七日だ。涙雨が降るぞ 」
「 この天気で 」
と 看守は笑っていた。
その夜激しい雷雨となった。
巡廻の看守が、
「 大尉殿、ひどい雨で、当たりましたね 」
と 心細そうにいった。
村中孝次はこの夜の模様を、
「 今や 『 死而為鎮護国家之忠魂 』 と 大書したる前に端座して、
十五士の為め 法華経二巻を読誦し終るや、遠雷変じて閃々たる紫電となり、
豪雨次いで沛然たり、
十五士中一人が
『 暫く湯河原で避暑し、一週間後に東京に帰って活動を開始しよう 』
と いいたりという 」
と 書いている。
三七日、四十九日 も 戸外運動のとき、
「 今日もまた雷雨がある 」
と いったが、初七日のことがあったので、今度は看守は笑わなかった。
ともに落雷を伴う激しい豪雨となった。
電灯も消えた闇の中で、雷鳴を聞き 激しい閃光を見ていると、見えざる何者かの怒りを感じた。

佐々木二郎 著
一革新将校の半生と磯部浅一
から


高橋太郎 ・ 最後の写真

2021年01月10日 10時34分40秒 | 高橋太郎

( 昭和十一年二月 )
二十三日は日曜日だった。
太郎は私をつれて、
新宿区若松町の陸軍衛戍病院に入院中の部下の下士官や陸士同期生を見舞い、
近づく、渡満を口実に、それとなく別れをつげた。
同期生である田口厳寛少尉の病室に入った太郎は、
枕もとにあった写真機に気づき、
「 俺を撮ってくれ 」
といって、椅子を窓際に寄せた。
ひとりだけでレンズにおさまろうとする彼の振舞いに、私は妙な感じをうけたが、
自分の最後の姿をのこそうとする感傷的な気持が、とっさに湧いたのであろう。
これが太郎の生前をしのぶ最後の写真である。
目は鋭いが、微笑をうかべる淡々とした表情から、
大事の決行を前にした興奮、緊張はみじんも感じられない。

その夜、
麻布の叔母の家に二人の伯母や従兄たちが集まり、
太郎の満洲出征の送別会をひらいた。
その日から、はげしく雪が降りはじめ、交通もままならなかった。
出征は五月というので、会を延期とようという意見もでたが、
その日は太郎のたっての希望で決められた。
彼にのこされた機会は、その日しかなかったのだ。

高橋治郎 著  一青年将校 終わりなき二・二六事件  から


「 今日も会えたなあ 」

2021年01月08日 11時53分09秒 | 高橋太郎

 
高橋太郎

淡々微笑

面会を許されたことは、とりもなおさず、
太郎の運命が決まったことを暗に通告されたようなものである。
あれほどまでに切実な思いで、太郎との面接を待ち望んでいたのに、
それが実現して見ればかえって辛く、私の悲しみは倍増した。

太郎との面会は穏かな会話に終始したが、
隣室から絶えず 激しいことばが耳に入り、私の興味をそさった。
「 真崎という奴は・・・・」
そういう調子で、蹶起将校たちが
昭和維新を托した真崎大将を裏切り者よばわりして、
怒りをぶっつける者もいた。
「 おい! お前の仇はきっと討つぞ 」
傍若無人に、はげしいことばを吐く勇敢な面会人もいた。
太郎との面会中に、参謀懸章をつけた陸軍少佐が、
看守の制止をふりきって無断で入ってきたことがあった。
参謀将校は 私の存在を無視して、
机の上に意味のわからない記号だらけの地図をひろげ、
「 満洲の状況はこうだ。安心して死んでくれ 」
そう言って、太郎の手を握った。
「 ありがとうございます 」
太郎は嬉しそうに笑みをうかべていた。
看守は見て見ぬふりをしていた。

異常な状況のなかの二人の対面である。
寡黙の太郎と、涙を抑えるのに精一杯の口ベタの私との会話は、ぎこちなかった。
太郎は意識的にか、けっして事件に触れようとはしなかった。
隣室からきこえる激しいことばのやりとりにも、知らんふりをしていた。
私は事件のくわしい話を聞きたいと喉までかかるが、なぜか口にできなかった。
いま、私が心残りなのは、そのときもっと突っ込んで、
多くのことを語り合える大人でなかったことである。

「 お前は 天皇陛下のために喜んで死ねる人間になれよ 」
天皇の命令で殺されようとしている人間が、なお 天皇のために死ねという。
私はけんめいに涙をこらえながら、
これほどまでに天皇を熱愛する人間を、天皇が殺すはずはないと思った。
そして、私はそれを確信した。
そのころ、巷間には まことしやかな噂が流れていた。
「 死刑は表向きで、満洲へ送られ特別任務につくらしい 」
「 秩父宮と天皇が激論された 」
「 減刑されるそうだ 」
かつて歩三の兵舎で、偶然、謦咳に接した秩父宮の温顔を私は思いうかべ、
ワラをもつかむ思いでその噂にすがりつき、秩父宮はかならず救けてくださる、
太郎は助かる と 自分にいいきかせていた。
「 真実を見きわめることは難しいことだ 」
いたましそうに私を凝視しながら、太郎がいったことがあった。
それは呟きのような弱い調子だったが、
真実を見あやまった自分の愚かさへの反省ともうけとれて、私は辛かった。

面会三日目ごろであったろうか。
別れる間際になって太郎の口からでたのは、
私が毎日、毎日、怖れていたことばだった。
「 そろそろ別れる日が近づいたようだ。 今日が最後になるかもしれんよ 」
ことばは激することもなく淡々としていたが、
眼ざしは いちだんときびしかった。
すでに 相沢中佐処刑の銃声をきいている彼は、
自分の処刑がそう遠くないことを予感したのであろう。
なんという残酷なことばだ。
返すことばもなかった。
泣きだしたい激情を抑えるりがやっとだった。
夜になるのが怖かった。
軍人の処刑はどうするのか。
どんなかたちで殺されるのか。
切腹、斬首、絞首、銃殺・・・・
想像できるありとあらゆるさまざまな残虐な光景が、
しーんと静まりかえつた闇のなかに、
つぎからつぎへと思われるのだ。
つぎの日の面会は、
「 今日も会えたなあ 」
の 微笑にはじまり、
「 これが最後かもしれんな 」
と、鋭いが慈愛に満ちた うるんだ眼ざしで、
私を哀れむように見つめながら、きつくきつく握手して別れた。
今日も会えたなあ。今日も会えたなあ。
今日も会えたなあ。
いつたい、このことばは いつまでつづくのか。
それはいつまでも続いてほしい。
一生続いてほしい。
生きていてくれ。
どんな形でもいいから生きていてくれ
---私は流れる涙を拭うことも忘れて、
宇田川町の坂道を嗚咽をこらえながら  とぼとぼと歩いた。
「 どうして、あの忠節な人間が、あれほど天皇を敬愛する人間が、
殺されなければならないのか 」
「 神様、お願いです。天皇陛下、お願いです。兄を助けてください 」
私は歩きながら、途中、目に入れば、神様でもお寺でも手を合わせた。
天皇陛下の特赦が行われる・・・・噂は信憑性をもってひろがった。
甘粕大尉事件---関東大震災の混乱に乗じて、
アナーキスト大杉栄夫妻を扼殺やくさつした甘粕憲兵大尉は、軍籍を剥奪されたが、
そのころ満洲で特殊任務について活躍していた---や、
五・一五事件の犯行軍人にたいする、量刑が噂の根元にあつたのだ。
これらの噂は、とうぜん獄中にも流れた。
己の正義を信じ、ひとかけらの邪心もない軍人たちである。
それを知ったら
驚倒し、狂死したであろう、天皇の激怒を知らない彼らである。
それぞれの意識の底に、
心酔する秩父宮の理解と、
神とうやまい信ずる天皇の明哲を期待していたとしても、
彼らを愚と わらえない。
天皇はもちろん、
秩父宮も同情者でなかったことを、彼らは最後まで知らなかった。

太郎が帰ってきた。
笑いながら 部屋に入ってきた彼の姿に、
私は思わず立ちがった。
・・・夢であった。
夢と知った絶望感に、私は嗚咽をこらえながら、
夢は神託だ、夢は現実を予告する、
正夢でないという保証はない、
と 自分にいいきかせた。
そして、夢が見られる夜が待ち遠しくなり、
一時間でも早く夜がくればいいと思った。
太郎は助かる、
他の人たちは殺されても、
彼だけは絶対に殺されない
---そのときの私は、
まさに エゴ の 固まりであった。

高橋治郎 著  一青年将校 終わりなき二・二六事件  から


「 おおい、ひどいやね。おれと村中さんを残しやがった 」

2021年01月06日 11時31分53秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


末松太平 

村中孝次と磯部浅一は、
十五士とは同じ棟の獄舎にいたのだが、
処刑を翌日にひかえた十一日の夜、突如ひきはなされて別棟に移され、
一緒に死ぬはずだった十五士の初七日を獄中で迎えたのである。
私は十二日の朝、
赤煉瓦を通っていった処刑者の数が、あとで考えるとどうしても合わないことに気がついた。
香田大尉を先頭に第一の組が通って、渋川、水上をしんがりにして第三の組が終ると、
あとは一人も行ったものはなかった。
どうしても二人足りない。
どうも村中、磯部の姿をみなかったようである。
見落とすはずはない。
格子に顔をめりこませるようにして、みつめていたのだから。
翌日であったかに巡回している看守にきいてみた。
「 別の道からも行ったのかね。どうも人数が足りなかったようだが。」
「 さあ、どうですかね。」
別の道というのは西側の通路である。
 
磯部浅一
それから数日後のことである。
ぼんやり赤煉瓦道をながめていて、おやっと思った。
磯部が歩いている。
顔こそ垂れ布でかくしているが、まぎれもなく磯部である。
亡霊をみたような気がした。
その磯部が村中と、まもなく私の房から芝生の庭一つ隔てた南側の棟の真向いの房に移ってきた。
それは夜のことだった。
外が暗いので、電灯のあかりで、互になかの様子がわかる。
磯部は房にはいるやいきなり、こちらに向いた格子にとりつき、
角柱のあいだから顔をのぞかして大声で私に呼びかけた。
「 おおい、ひどいやね。おれと村中さんを残しやがった。」
私は手を振ってだけ応答した。
それからしばらくは、夜になって互いの見通しが利くようになると、
磯部はきまって一度は坐ったままの姿勢で、白い歯をみせて笑いながら、
私に向かって手を振ってみせた。
私もそのたびに手を振ってこたえた。
看守のなかには、磯部には困ったものだ、というものもいた。
それは磯部が大声で私に話しかけたり、手で合図したりすることをさしていた。
同時にそれは磯部に応答する私をも間接にたしなめているわけだった。
が、それもひととき。
やがて磯部は、手を振ることを私が待っていてもしなくなった。
昼となく夜となく、揮毫や筆記で忙しくしているようだった。
ときどき 「 村中さあん、あれはどういう字でしたかなア 」 と 間のびした声で、
同じように揮毫に精をだしているらしい村中に字をきいていた。
揮毫の合間に、蹶起について磯部が村中に話しかけていることもあった。
「 村中さあん、もっと思い切って殺せば、できたですなア 」
それに村中はぼそぼそと答えていたが、
磯部とちがって小さい声なので全然ききとれなかった。

 山口大尉
このころのある朝突然、村中、磯部と同じ棟にいた山口一太郎大尉の房から、
軍人勅諭を奉読する声が朗々ときこえてきた。
無期の刑を受けた山口大尉が、民間の獄に下っていく日だった。
そのながい勅諭前文を奉読する声が絶えたかと思うと、
まもなく芝生の庭に山口大尉は長身を現わし、村中、磯部の房に近より別れをつげると、
大股に赤煉瓦道の方へ姿を消した。
八月にはいって間のないころのことだったようである。
それから何日もたたぬうち村中、磯部は私たちと同じ棟に移ってきた。
私たちは東側にもとのようにかたまっており、間にいくつかの空房を置いて、西側に二人はかたまった。

このころから毎日二人の読経の声がきかれるようになった。
北一輝ゆずりの法華経である。
その師匠の北一輝は北側の棟で、私の房からは筋向い、杉野の房の真向いあたりで
前から暇さえあれば渋団扇左手に風を送りながら、右手に経巻を捧げて読経していた。
これは流石に堂にいったもので、声は殺していたであろうのに、
その読経は、芝生の庭を隔てている、私の房の床まで震動をつたえるもののようだった。
これに比べれば後進二人の読経はまだ未熟だった。
が、それが熟達するころは---と 考えると、急に心臓に痛みをおぼえるのだった。
このころ一度村中と風呂場で一緒になった。
好意を持っている看守の咄嗟の機転だった。
村中が風呂からあがって、獄衣を着ようとしているところに、
その看守は私たちを連れこんだのである。
村中はかえって前より肥えていた。
私が
「 村中さん肥えましたね 」
と いっただけだった。
もっとましなことがいいたかったが、いえなかった。
あとは引き受けた、安心してお出でなさい、
とでも いいたいところだったが、それが喉まででていながら、口にだすことができなかった。
果してかりそめの約束をして、それが実行できるかどうか。
生きている人間には気安めや、うそはいえても、
すでに生きながら仏であるものに、いい加減な気安めやうそはいえない。
村中は口辺に笑いをうかべて、
「 ながいね。なかなか出さないんだね。」
と いった。
笑いは口辺にうかべていながら、目は後輩の身柄を案じて、憐憫れんびんにうるんでいた。
それは量り知れない広さだった。
村中は蹶起部隊関係の処刑さえ終われば、
あとの地方からきた同志は、とうぜん出されるべきものと思っていたようである。
獄中手記 『 続丹心録 』 の なかに、このことが強調されている。
「 本事件は在京軍隊同志を中心とし、
最小限度の犠牲を以て、国体破壊の国賊を誅戮せんとせしものなり。
(中略 )
東京、豊橋以外は青年将校の同志といえども何等の連絡をなさず。
( 中略 )
然るに 是等多くの同志に臨むに極刑を以てせんとしつつあり。
暗黒政治、暗黒裁判も言語にぜっするものあり、
不肖 断じてこれを黙過する能はず、
即ち 刑死後直ちに、至尊に咫尺しせき し奉りて、
聖徳を汚すなからんことを歎願し奉らんとするものなり。」
しかし、村中が磯部、北、西田とともに刑死する昭和十二年八月十九日をまたず、
同じ年の一月十八日には、地方からきていた青年将校も相当数、有罪の判決をうけるのである。
私も、その一月十八日に、有罪の判決をうけた組であるが、
それまでのあいだ村中、磯部と同じ屋根の下ですごした。

村中、磯部は一部未決のものの証人として、一方的に死期をのばされたのである。
ともに死ぬはずだった同志から引きはなされ、
私たちが同じ屋根の下から出るまでの半年、
それからさらに半年以上、四季をひとめぐりして再び夏を迎え、
それの終わるころまでのばされ、
結局は規定の処刑の座に就くのである。
大岸頼好は後年折にふれては、このことを
「 ちょっと前例のない残酷な処置だ 」
と いっていた。
しかしそのために 二・二六事件を知る上には、帰朝な資料となっている 「 獄中手記 」 が、
この二人によって残されることになるのである。
二人がせっせと 「 獄中手記 」 を 綴っていたことは、
遠ざかっていたから知りようもなかったが、
いまから思えば読経の絶え間が、これを綴っている時間だったわけである。

二人は時々面会にも出向いてもいた。
そのとき磯部は芝生の庭を はすかいに突切って素通りするのが例だったが、
村中は いつも私たちの房に近く廊下の外を、排水溝に沿ってきて、
窓の外から顔をのぞかしては、「 元気だね 」 などと 声をかけた。
差入れも引きつづき許されていた。
村中は時々それを、看守を通じて分けてくれた。
「 村中さんから・・・・」
看守はあたりを見まわしては、紙につつんだ干菓子などをとどけてくれた。
それを私はさらに志村、杉野、志岐に看守を通じて分けた。
面会はもとより、差入れも許されていなかった私たちは、
看守にみつかって、看守に迷惑がかかってはすまないから、
あわててそれを口につめこまなければならなかった。
「 ああ、うまい。」
板壁一つ隔てた隣の杉野は、その都度こういった。
志岐は、いつのころか隣の房にきていた石原広一郎に悩まされていた。
「パイナッブルの缶詰のにおいがぷんぷんしてたまらんばい。」
石原広一郎は私たちとはちがって特別待遇なのか、差入れが許されていた。
それに志岐がなやまされるわけだったが、
その志岐も、隣の豪勢さには及ばないが、村中のおかげで、
せめてもの対抗ができたというわけだった。
「 供養とは仏に対してするものだ。
それを反対に仏から供養されているんだ。
徒やおろそかに思っちゃ済まんぞ。」
そのころ運動にでては、こう話しあった。

・・末松太平著 私の昭和史 から


香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった

2021年01月04日 10時53分11秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


黒崎貞明
前頁 黒崎貞明中尉 ・ 獄中風景 (  中略・・以降・・ ) の 続き

同志の処刑

蹶起将校にとっては最期の七月十二日がやってきた。

この前日の夕刻、南側の棟から変化が起こりはじめた。
私たちの夕食は普通のものであったが
 六角格子を通して見える南側の夕食はいつもとちがう様子であった。
看守の表情もいつもとちがって こわばっている。
「どうもおかしい。処刑が決まったのではないか」
と 直感した。
突然、南の方から士官学校の校歌が聞こえてきた。
やがてそれが拡がって監房全体の斉唱となった。
まさしくそれは同志への訣別の合唱であった。
そして校歌から 君が代にかわり、最後は 海ゆかば となった。
私はいつの間にか直立して唱和していたが、すぐに涙声となり、そして涙だけになった。
看守は困ったような顔をしていたが、
せめて合唱ぐらいは 最後の餞別 という思いやりから注意は受けなかった。
合唱のあと最後の晩餐が始まったらしい。
監房の電灯はいつもと違って明るかった。
向こう側の房には村中さんと磯部さんが並んでみえた。
その両側の人びともなにか一心に書きつづっている様子である。
おそらく遺書であろう。
私達の側の房では、ただこれを見守るばかりであった。
ただひたすら最後の夜の安からんことを祈るのみであった。

私は、酬いられることなく 万斛の涙をもって死んでいくであろう
同志の一人びとりに想いをはせいていた。

昭和九年の正月、
早期決行をうながすため東京の各先輩同志を歴訪した時のことが浮かんでくる。
「よし。やろう。
捨て石は多数いらぬ。
今、革新の必要を叫んで死ぬことは、犬死にになるとは思わぬ」
と、唯一人賛成してくれたのが栗原中尉。

「天の時、地の利、時の勢いというものがある。犬死にをしてくれるな」
と、涙声とともに諫めてくれたのは安藤大尉。

「少なくない同志が次々と捨て石になってバラバラになったら、
われわれの希求する革新は、ただ狂人の夢となるばかりだ。
なるほど、明治の維新も幾百幾千の狂人の屍の上に成り立ったことはみとめる。
しかしそれは討幕の旗印を京都から得たからだ。
現在の日本は曲がりなりにも聖明のもとに法治国として存在し、幕府はないのだ。
この時にわれわれの微忠を示すことは至難のことである。
険悪な国防情勢のなかで、
一刻も速やかに皇国の真姿を顕現せんと願うわれわれの赤心は、
貴公らに決してひけはとらぬ。
死ぬときは一緒だ。
俺は理屈に弱い。
が不退転の決意は誰にも劣らぬと思っている。
今のところは、原隊にかえってよい兵を練成してくれ」
と、抱きしめてくれた村中大尉。

人間の安藤、理論の村中といわれた
この二人に説得された私たちは、遂に決行をあきらめた。

その夜は北さんの配慮で、大蔵さんに連れられて神楽坂の料亭で痛飲した。
そして翌日、市川や明石とともにスゴスゴ原隊に帰ったのだった。
・・・
香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった。

渋川善助さんと握手した時の手は温かった。

想い出はつきなかった。

それにしても、私たちを諫めていた先輩たちが、
やむにやまれず、
天皇の赤子として天皇の聖明をおまもりするために
革新への突撃を敢行したのに、
今その天皇の命令によって処刑されようとしているのだ。
一体これはどうなっているのだ。
私は狂わんばかりの憤激をおさえることができなかった。

明けて七月十二日。
太陽は暑い光を投げていた。
今その下では、その灼熱にも負けない赤誠の情熱を燃やし続けてきた青年たちが、
命を果てようとしているのだ。
再び士官学校の校歌と 海ゆかば の合唱が流れてきた。
いよいよ刑場に向うときが迫ったのであろう。
こうした最後の極限に達したときにうたわれるのは 君が代 でなくて 海ゆかば であった。
折からの隣の代々木練兵場 (現在のNHK) では演習が始まったらしく、
軽機関銃の射撃音が高く響いてきた。
おそらくこれからはじまる処刑の発射音をまぎらすためのものであろうことは、
私たちにも推測することができた。
時計ももっていない私たちにはそれが何時頃であったかわからない。
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東京陸軍衛戍刑務所                   映画の 一シーン  
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やがて五人づつ、目だけをあけた白覆面をつけ、
袴をはいた人々が、私たちの監房の前を通って行く。
多分、北さんや西田さんに向かって 「お先に」 と挨拶されたのであろう。
ちょっと覆面の垂れをあげてはすぎていく。
いずれもしっかりした足どりであった。
なかには微笑しながら挨拶する人もある。
私もこれが最後の見おさめと、くいいるように見つめながらお別れの挨拶をした。
二組目にいた同期生の田中勝と、三組目の安田優の二人は、
はっきりと私に向かって 「 死ぬなよ。あとを頼むぞ 」 と強い口調で叫んだ。
涙があふれたが声はでなかった。
それにしても同志の顔はどうだ。
すこしも悲しそうではなく、むしろホッとしているようにも感じられる。
断ちきり難いこの世への想いもかずかずあろうというのに。
ことに田中は新婚早々の妻を残して参加したのだ。
安田は昨年の暮れ、砲江学校に入学するため内地に帰るというので、錦州で悲憤慷慨しながら飲みあかした仲だ。
満洲での戦死を覚悟して後事を託した安田に、今は逆に後事を託されたのだ。
ただ ニャッ とこちらを向いて笑って去った栗原中尉の顔は今でも忘れることができない。
はるかに響く小銃、軽機の射撃音と喚声のあいだに、
天皇陛下万歳 
という叫びと、
栗原さんの声と思われる詩吟が聞こえてきた。
そしてブスッという 弱装薬を使った銃殺用の射撃音。
それが幾たびか聞こえて、やがて静かになった。
ひとつ置いた隣りの北さんの房からは、ひときわ高い読経が流れてきた。
ただ瞑目して刑場の方向に向かって正座した私は、怒髪天を衝いていた。
ようやく我にかえって暑さを感じたとき、蝉の声だけが聞こえた。

冷たい汗が腰まで流れていた。

恋闕 黒崎貞明 著    から
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村中孝次


黒崎貞明中尉 ・ 獄中風景

2021年01月02日 09時58分42秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


黒崎貞明


東條司令官の言葉は冷ややかであった。
「 黒崎中尉、不逞の輩と気脈を通じたこと不届きである。東京に護送するから司直の裁決を受けよ 」
と いう
ムカッとした私は、
「 不逞の輩とは承服できません。私は叛乱を起そうと思ったことはありません 」
と 抗議すると、
「 なにを今さらいうか。厳重な裁きを受けろ 」
と 怒鳴りながら席を立った。
その後ろ姿をしばらく睨みつけた突っ立っていたら、
かたわらにいた憲兵が、"もうよいではないか。
おとなしくしたほうがよい" と 心配そうにいいながら私を連れ出した。
たぶん 三月三十一日だったと思う。
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東京陸軍衛戍刑務所 配置略図
( 正確なものに非ず ・・・? )
    
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獄内の風景
私の収容された独房は、この刑務所の一番北端で、
比較的新しいようであったが、角材造りの頑丈な格子で囲まれた六畳敷きぐらいの板敷きのひと間であった。
聞くところによれば 江戸時代の伝馬町の牢屋の材料を使っての再生であったらしく、
道理で妙に牢獄らしい威圧感をもっていた。
しかし監房の前の庭には花が植えてあった。
隣の住人が四十六期の飯尾祐幸君と四十一期の板垣徹さんであったことがようやくわかってきた。
板垣さんは豊橋教導学校の班として連れてこられたらしい。
"お前もきたか"
と いうような顔をして ニヤリと笑うのが見えた。
監獄長が、これをよく読んで従うように
と いって置いていた入所者心得なるものに目を通してみると、
すべて、"・・すべし" "・・すべからず" の 一点張りで、百五十条くらいの規則がならべてあった。
たとえば、
独房内にあっては常に正座すべし
と あるが、
一日中茣蓙ござの上で正座していたのでは第一、体がもたない。
どの程度守ればよいのかと看守にただしたところ、
答えは、"寝ころんでは困ります。アグラをかいて下さい" ということであった。
よし、その程度なら と 少し安堵した。

入所してしばらくの間はなんの取り調べもなく、独房での無言の行が続いた。
ようやく廣島師団から応援にきていた法務官の取り調べが始まったのは、十日ほどしてからである。
しかし、これとても身上調査のようなものであって、あとは無風状態であった。
こうしたある日、担当の看守が話しかけてきた。
「 むかし 大杉栄は入所するたびに ひとつの語学をものにしたそうです。
あなたはもはや軍籍に復することはないかも知れませんが、殺されることはないと思います。
ですから語学の勉強でもはじめられてはいかがですか 」
「 そうですか。そういう勉強をしてもよいのですか。
でしたら私には哲学の本を買ってきてくれませんか。金は刑務所長に預けてあります。
現在の私は、どうやってあの世に行ったときに笑われない人間になろうかと念じています。
悔いのない死に方をしたいので 」
というわけで、私は西田幾太郎先生の哲学書を読むことになった。
この親切な看守は 宇都宮師団から応援にきていた人であるが、
最後まで実に面倒をみてくれたことを今でも感謝している。
さて "読書百遍 意自ら通ず" で、
「 西田哲学 」 から、「 カント 」 そして 「 デューイ 」 の難解な理論も、次第に身近に感じられるようになってきた。
人間とはなんぞや、ということが客観的に考えられるような気持ちになってきた。
おそらくこの独房内の期間が、私の生涯を通じて一番勉強に打ちこめた時期であったように思っている。

数か月のうち、住みなれた この北棟の独房から次の棟に移ることになった。
これは真崎甚三郎大将が収監されたための独房のやりくりからであったらしい。
ついに 真崎大将の身辺まで及んだとなると、
おそらく同志の追及は最終的な核心に迫ったものと思われ、いささか緊張した。
この棟移監されて初めて、北一輝さんと西田税さんが この房におられるということがわかった。
私の独房は東側から三番目で、右側には満洲の公首嶺にいた北村良一大尉、
左は西田さん、その次が北さんであった。
そして 南の棟にの正面には あの村中大尉の姿がみえ、その右は 大蔵栄一大尉であった。
私の姿を見つけた大蔵大尉が大きなジェスチャーで手旗信号の挨拶を送ってきた。
「 ゲンキデガンバレヨ 」 で あった。
村中大尉はモールス信号で 「 オマエトハカンケイナシ ワスレルナ 」 と 伝えてきた。
それぞれの先輩がいちように私のことを心配していてくれるのである。
しかも、その立場は私の場合と違って絶望に近い不利な立場にありながら、
微塵の暗さもなく、己のことは眼中にないという態度で、後輩同志をかばってくれるのである。
思わず ジーン と きた。
さすがは革新を志す青年将校のリーダー達である。

今度の独房は前のとは違って、格子越しに同志の顔が見えるという大きな救いがあった。
看守の不在のときは 「 モールス 」 や 「 手旗信号 」 で それぞれ情報を交換することができた。
隣の西田さんから ときに珍しい菓子が内密に届けられた。
奥さんからの差し入れであろうか。
一日の日課の中で楽しみなのは散歩と入浴である。
だが散歩といっても、四、五人ずつが十五分間、中庭を行ったり来たりする程度である。
しかも 白い布で覆面しているうえに、私語を禁じられているので、十分な情報の交換はできない。
しかし 覆面の下から見て 誰かれの判別はできるし、短い囁きの中に結構意思の疎通ができたのである。
入浴は毎日ではなく週二回である。
これも五人一組で一分ずつ湯につかって三回で終る。
さすがにこのときは覆面をとる。
もちろん監視付きなので私語はできないが、お互いに確認し合って微笑をかわすだけで、
これもまた結構たのしいものであった。
こうして朝六時から夜十時の就寝時までのほとんどを読書に集中できた。
隣の北さんの房からは終日読経が流れていた。
その迫力のある声量は静かな監房を完全に制圧していた。
このように死に直面していながら泰然たる決行同志の姿を見るにつけ、
私も霊界において先輩諸氏から
"青年将校にもこんなつまらなぬ奴がいたのか"
と 笑いものにならないように己を律することに懸命であった。
こうした張りつめた夜の夢は、決まって楠公であり、西郷であり、坂本龍馬であり、ときとしては明治天皇であった。
そしてこれらの人々の夢での対話は、次第に私を勇気づけてくれた。
そして、いつのまにか私は人間の霊魂を信ずるようになっていた。
知事にあこがれ、左翼運動にも傾斜しかねなかった早熟の私が、順逆不二の忠誠を誓って
いま叛乱軍の一味として獄舎につながれているこの事実も、
幾多の消長盛衰を経過しながら、日本民族の生命を維持せしめてきた力が のり移ったものではなかろうか。
いまここに つながれている蹶起将校を始めとする青年将校らの悲哀は、
湊川において万斛の涙をのんで散華した楠公の悲哀であり 恋闕そのものではないだろうか。
このように思えてきたとき、私は非力であるけれども 皇国の礎石になるのだという
ある喜悦に似たものを感ずるようになった。
そうして 今日まで私を導いてくれた数々の恩師や先輩に 改めて感謝と尊敬の念を深くするのであった。
それは 祖母であり、父母であり、さらに皇国史観への開眼を支えて下さった一宮末次先生であった。
そして なによりも決定的なものは、
『 軍の本質は犠牲に徹することであり、
その作戦の眼目は最少の犠牲をもって最大の効果を収めることであり、
自らはその もっとも価値ある犠牲である 』
との 信念を与えてくれた、四カ年にわたる士官学校の教育であった。
今更ながら、市ヶ谷四十余年の伝統の偉大な影響を再認識するのである。
たとえ 日本変革の理念とその手段方法について相違があるとしても、
現在ここに繋留されている同志は、みな皇国に対する忠誠心の点では同じだったのだ。
このように思い去ると
『 獄舎も獄衣もなんら愧はずることはない。これこそ誇るべき日本男子の紋章ではないか 』
と、声高らかに叫びたい心境になるのである。
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昭和十一年七月三日
相澤三郎 中佐の処刑
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同志の処刑
こうして春が過ぎ夏を迎えたときには、
一日金十銭五厘のいわゆる "臭いめし" にも ある美味を感ずるほど獄舎生活に適応していた。
そんなある日、
にわかに獄内に緊張した空気が流れ、ある殺気が走るのを感じた。
勿論、それがなんであるかわからなかったが、
そのうち誰からとなく、"相澤中佐が処刑されるらしい" という情報が流れた。
風のようにその情報が房中に伝わり終えた頃、
私達の房の裏の方向であまり遠くない距離から、
「 撃て !」 という大声がして
「 パン !」 という弱装薬の小銃の発射音がした。
一瞬房中はざわめき、そうしてすぐもとの静寂にかえった。
その後、看守から
「 本日 相澤さんの処刑が終りました。その最期は見事でした。
はじめ刑場には目かくしをして誘導したのですが、中佐殿はその目隠しをはずしました。
そして、自ら "撃て" と 号令をかけて射撃係を励まされました 」
と、従容とした相沢中佐の最期を聞くことができた。
今から思えば、それは七月三日のことであった。
相澤中佐とは西田さんの家で 二、三回 お会いしたことがあるが、
微笑すると実にやさしい感じのする方であった。
隣の西田さんの心境はどのようであったろうか。
サゾカシ腸はらわたを しぼられる思いであったろう。
北さんの読経の声が心なしかひときわ無気味に感じられた。
相澤中佐の冥福を祈ってこの日は暮れた。
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それから二、三日後に蹶起将校に対する判決が下った。
もちろん判決の内容については知る由もないが、
その翌日あたりから同志の家族との面会がふえてきて、なにかいままでと違う様相が感じられた。
監房の入れ替えも行われているのがわかった。
あとで考えれば、処刑組と有期刑とを区別したのである。
南側の監房から大蔵さんが消えたのはこの時であった。
多分有期刑の班に組み入れられたからであろう。
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蹶起将校にとっては最期の七月十二日がやってきた。
・・中略 ・・以降は ・・・
香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった 
・・・頁に
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看守から
「 皆さんは立派でした 」
と 聞かされたのはしばらくしてからであった。
その日は、一日放心状態であとの記憶は定かでない。
ただ、ふと、向う側に村中さんと磯部さんが生きているのを発見した。
「 ドウシタノデスカ 」
と 信号を送る。
「 マダコロサレナイ 」
という返事が帰ってきた。
すこし後になって看守から、村中さんと磯部さんは、
北さんと西田さんとの関係で刑の執行が遅れていると聞かされた。
ずい分、むごいことをするものだ。

黒崎貞明 著  恋闕  から
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昭和13年8月頃

黒崎貞明
明治45年 徳島市生誕
昭和8年陸士卒業 第45期生

・・・そんなある日、例の市川芳男と明石寛二が、私に一連の極秘資料を見せてくれた。
北一輝の 『 日本改造法案 』 と 『 支那革命外史 』 がそれである。
一読、まずその雄渾なる筆力と革命への気概にすっかり圧倒されたのである。
そして、すっかりこれに魅せられた私は、はじめて奮然として革新運動の戦士たることを決意し、
革新運動の洗礼を受けたのである。
「 われ、日本国家のために最大の犠牲者たらん 」
とすることを信条とした最尖鋭の革新将校の卵と化はしたのである。
・・・黒崎貞明著  恋闕 34頁 から
以下、同著から
・ 香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった
反駁 ・ 黒崎貞明 「 我々は尊氏の轍を踏むべきではない 」 
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昭和の聖代 
( ・・・番外編 / 昭和二十年八月十五日 を 主題としたもの )
・ 終戦への道程 1 『 東條を斃さねば、日本が滅びる 』 
・ 終戦への道程 2 『 阿南惟幾陸軍大臣 』
・ 終戦への道程 3 『 天皇に降伏はない 』 
・ 終戦への道程 4 『 8月15日 』
・ 終戦への道程 5 『 残った者 』