相澤三郎
昭和十一年七月二日
午後七時より約三十分間 ( 最後の接見 )
接見人 妻 相澤米子
同 知人 猪狩定典
被告 急に思ひ付いた事があるので御許しを得て面會するが、 之から又調べがあるので長くは會はれない。
先程調べられた際、私に決心が出來たかとの御訊ねがあったが、實に情けないと思ふ。
肉體は亡びても精神は七生報國の覺悟がある。
○○○の御心が解らない。
亦生死の〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇が言はれたので○○○やつたが、
あんな事を言ふて○○○が良いものであらうか。
今わのきわに取調べをすることは情けないことだ。
私が死體になつて家に歸る事も近い内と思ふから、次の事は特に頼んで置く。
1、死刑執行があった際は、どの様な事があつても必ず死體は家に持ち歸る事。
2、如何なる創傷があつても、眞裸體にして檢査をして貰ふ事。
3、子供達には死體を見せない事。 以上の事は確實に行つて貰ひたい。
猪狩さんにも御頼みして置きます。
猪狩 はい。
被告 お前が申しました様に遺言は訂正して置いた。
何処迄も家は本家である正彦 ( 長男 ) を中心にして、円満に生活發展する様に書いて置いた。
遺言等總て私の書いた書類は、 たとへ佐藤さんや大野さんが欲しいと言ふて借りに來ても決して貸してはならぬ。
又家より外は出さない様に注意して保存して置く様に。
私が死刑に處せられたと言ふ事は、
社會を刺激し却って無期等に處せられたより以上御國を良くする爲には効果があると思ふ。
必ず御國は變化し良くなる事 受合だ。
之を個人的に考へれば定めしお前は殘念だらうが、 其の點は能く解つて貰ひたい。
解つて居るだらうな。
妻 解つて居ります。
被告 遺言等大切な書類は、直接お前に手渡しをして頂きたいと御願して置く。
又 最後まで筆を執る積りであるが、最後の筆は絶筆として置くから承知して置く様に。
猪狩さんとは不思議な縁で今日迄厄介になつたが、今後も宜敷く頼みます。
今日貴方に面會出來て實に良かつた。 猪狩 畏りました。
被告 最後迄健康体で活動出来たのも、皆 刑務所の御蔭であつた。 眞に感謝に堪へない。
お前はときには刑務所の処置に對して不平を言ふたが、それはお前の誤解である。
子供達にもこの事は能く話して置いてくれ。
妻 貴方が其の様な御元氣で終始された事は、皆 刑務所の御骨折であると常々思つて居りました。
本當にお礼を申上げます。
立會官に對し 兩人にて 心から感謝の辭を述ぶ。
以上
七月二日
午後七時三十分、
妻等と面會終り、
歸室後直に、明治大帝の御冩眞 ( 書籍挿画 ) に對し礼拜を爲し、
次で 木像 ( 不動明王 ) に礼拜したる後
稍暫ややしばらく 木像の裏に彫刻しある作名を見つつありしが、
どうも人に會つて話をするのは骨が折れます。
疲れましたよ。
等と發言し、
其後夕食を喫する際、
やあ 御馳走 御馳走、成程ね。早速頂きます。
と 意味有り氣に發言しつつ至つて元氣よく喫食せり。
午後八時五十分
私が逝つた後 妻に御渡しして頂くものは、
箱の蓋に誰が見ても直く解る様に書いてありますから御願ひします。
之は相澤家の家宝として永久に家に殘したいと思ひますから、
必ず妻に御渡しを願ひます。
と 願出づ。 又、
何時頃執行されますか、所長殿に前以て知らせて頂くことを願ひます。
午後九時頃、
所長の命を受け 今晩はゆつくりお寝みなさいと看守長の傳達に對し、
有難う御座います。
と 言ひ、其後書類の整理及揮毫きごう等忙しげに爲し居れり。
午後十一時三十分頃、
床を展べ就寝したるも 稍々暫らく眠れざる情況なりしが、
午前零時頃には 良く安眠し居れり。
七月三日
午前三時に起床し ( 命に依り看守傳達 )、
室内の清潔整頓を爲し、次で洗面後朝食を喫す。
此の時 願出を爲し、
家を出る十分前に知らせて下さい。
と申出で、朝食後半紙に遺書を認め、且既に認めありたる遺言書を更に點檢し、
「 之で良し 」 と 言ひ 整頓せり。
( 朝食は給与の牛乳一本 「 少量殘す 」 を飲み、
差入洋菓子三個を食したる後 わかもとを服用す )
午前四時三十四分、
居室 ( 將校監第二房 ) に於て差入の画仙紙に、
尊皇絶對
昭和十一年七月三日午前四時三十五分
於宇田川 相澤三郎 絶筆
と 書く。
自 四時四十分、
至 四時四十五分、
差入の佛像に對し観音經の朗讀を爲し、
終つて居室前に在りし看守長に對し、
私は何時でも宜敷くあります。
御蔭で時間を与へて頂き有難う御座いました。
家内に編んで貰つた此の腹巻毛糸をやつて行きます。
と 發言す。
午前四時四十八分、
出房を命じたる処、医務室に監獄長、檢察官等の在るを目撃し、
早歩にて監獄長の前に至り、
長い間御世話になりまして有難う御座いました。
と 謝辭を述べ、
次で 檢察官に敬礼を爲す等 其の狀況至つて明朗にして、
間もなく死刑の執行を受くる者とは思はれざる程落付居れり。
午前四時五十二分、
医務室前に於て 監獄長の死刑執行言渡後、遺言なきやに對し、
何もありません。
色々御世話になりました。
御蔭で健康でありました。
皆様に宜敷。
遙拜させて頂きます。
と 言ひ、許可を得て、
遙拝所に於て遥拜後、
大聲にて、
天皇陛下萬歳
を 三唱す。
次で刑場に護送中 ( 温浴場前 ) に 於て 看守長は本人に對し目隠を爲す旨告げたる処、
やらないで下さい。
と言ひしに付、 「 規則ですから 」 と 目隠を鞏へたる処、
私には其必要はありません。
と 發言す。
依て 更に看守長は 射手の方が困りますからと告げたるに、
そうでありますか。
と 柔順に目隠を爲し、
何だか私は外に出て行く様な氣持ちがしましたが此の中ですか。
と 發言す。
午前五時、
刑架前に於て看守水を与ひたるに、
頂きました。
と 少量飲みたり。
・
午前四時五十分、
陸軍監獄看守長 諸角要は、看守三名 ( 細谷、加藤木、高取 ) 共に受刑者
( 服装は通常衣に上靴を穿ち、戒具を施さず ) を 護送し
医務室前に到着したるを以て監獄長は軍医をして健康診斷を行はした。
受刑者の心神異常なきを確め、
相澤三郎に對し、昭和十一年五月七日第一師團軍法會議に於て殺人罪に依り
死刑の宣告ありたる其刑を執行する旨告知し、
尚申し遺す事の有無を訊ねたる処、何等言ふ事無き旨述べたるに依り、
更に所持品の処置に付ては 家族に下付すべき旨を告げたるに之を了承したり。
其言語明晰にして態度亦沈着なり。
次で監獄長は本人の願に依り遙拜を許し、
遥拜後看守長をして受刑者の目隠を爲し刑場に護送し、
刑架前の莚むしろ上に受刑者を正座せしめ、
兩手、頭部、胴體を刑架に確縛し、尚膝を縛し、
看守 ( 長塚 ) 水を与ひ、
午前五時一分、
射撃指揮官岩井中尉に執行準備完了を告ぐ。
・
前記 射手田畑少尉及豫備射手諸澄軍曹は、所定の地點に位置し、
田畑少尉は托架に装したる三十八年式歩兵銃を以て立射準備を爲し、
諸澄軍曹は伏射の姿勢を以て何れも準備を完了したり。
午前五時三分
射撃指揮官は射手田畑少尉に發射を命じたるに依り、
同少尉は受刑者の眉間を射撃したる処 同個所に命中し、
後頭結節部に貫通し 出血甚しく、
軍医は直に受刑者の創傷及心臓脈搏を檢し、
午前五時四分
受刑者絶命したる旨を報告す。
檢察官、監獄長は之を承諾したるに依り
茲に相澤三郎の死刑執行を終了す。
・
七月三日
午前十一時
遺骸を、夫人、令弟に一見せしめた後、
直ちに落合火葬場にて憲兵隊の手にて荼毘に附し、
午後二時半 骨揚げ、
遺族奉持して
三時、鷺宮の自宅に歸った。
・
夜になって荒木大將は軍服姿で弔問された ・・< 註 >
一部右翼の者が
相澤中佐の遺骨奪取を計っているとの情報があり、
廷内は直診道場の若者が昼夜警戒、
外周を警察と憲兵が私服で警戒するという物々しさだった。
夫人が
「 せっかく歸ってまいりました主人です。
せめて家庭では のんびりと家族だけでくつろがせたい 」
との 希望から、警備員は戸外に出たと云う。
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< 註 >
荒木、眞崎が中佐の背後にあるごとくデマを飛ばし、
兩名を中佐とともに葬り去ろうとの陰險な策動が軍中央部で行われていたときであったので、
弔問は控えるべきだとか、軍服でなく私服で行くべきだと荒木の知人たちは忠告したが、
荒木夫人が
「 相澤さんが國を思うご一念から倒られた以上、弔問されるに何遠慮がいりましょう。
いわんや現役軍人であられる閣下が、軍服で行かれることは當然すぎるほど當然で、
遠慮される必要はありますまい 」
と毅然と言い、荒木は憲兵の監視する相澤家へ堂々と軍服で弔問したという。
・・・菅原祐 『 相澤中佐事件の真相 』
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荒木と眞崎の焼香を聞いた獄中の澁川善助
今朝號外ニテ判決理由等發表サレタル由。
相澤中佐殿ハ、
六月三十日上告棄却トナリ、
既ニ、七月三日死刑執行セラレナサレシ由。
誠忠無比ノ中佐殿ヲ遂ニ死刑ニナシタルカ。
噫、皇國ノ前途暗澹タルベシ。
絹子モ御通夜ニ参りたる由。
荒木 ( 貞夫 ) 大将、眞崎 ( 甚三郎 ) 大將モ通夜ニ見エタリト。
如何ノ心事ヲ以テカ、霊前ニ對シタル。
知ル人ゾ知ル。
咄。咄。咄。
相澤様ヘノ手紙ヲ出スノガ遅レタルモ妙ナ因縁ナリ、書改メテ出ス。
要部ヲ削除セシメラル、戸田精一兄ヘモ手紙ヲ出ス。
・・・渋川善助 『 感想録 』 七月七日 より
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・・・にわかに獄内に緊張した空気がながれ、ある殺気が走るのを感じた。
勿論、それがなんであるかわからなかったが、
そのうち誰からとなく、
「 相澤中佐が処刑されるらしい 」 と いう情報が流れた。
風のようにその情報が房中に伝わり終えた頃、
私たちの房の裏の方向であまり遠くない距離から、
「 撃て ! 」 という大声がして
「 パン ! 」 という弱装薬の小銃の発射音がした。
一瞬房中はざわめき、
そしてすぐもとの静寂にかえった。
その後、看守から
「 本日相澤さんの処刑が終わりました。
その最期は見事でした。
はじめ刑場には目かくしをして誘導したのですが、中佐殿はその目隠しをはずしました。
そして、自ら 撃て と号令をかけて射撃係を励まされました 」
と、従容とした相澤中佐の最期を聞くことができた。
相澤中佐とは西田さんの家で二、三度お会いしたことがあるが、
微笑すると実にやさしい感じのする方であった。
隣りの西田さんの心境はどのようであったろうか。
さぞかし腸をしぼられる思いであったろう。
北さんの読経の声が心なしか ひときわ無気味に感じられた。
相澤中佐の冥福を祈ってこの日は暮れた。
・・・恋闕 黒崎貞明 著から
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陛下万歳の一語殘し
相澤中佐
從容死ニ就く
「 ・・・死刑を執行セシム ・・・陸軍大臣寺内壽一・・・ 」
低く讀み上げる塚本定吉所長の聲が、微かに震へて寂とした靜かさの重壓、
直立して聞いてゐた相澤元中佐 「 承知しました 」 と硬こわばつた顔を稍和やわらげて
「 色々御世話になりました、御苦労 ・・・・・ 」 と島田朋三郎檢察官、夏目、小倉、勝井の各錄事等に目禮する、
塚本所長を先に植本、諸角、越川、加藤の各看守長に護られた相澤氏が昂然、
前方を正視しつゝ確しつかりした歩調で獨房の外へ出る薄い朝靄もやで露の冷たい大地 ・・・・・
下士官兵の銃殺の際は同村叉は同町出身の兵三名を射手に選ぶ、
同郷の者がゐない場合は日頃最も親しい 戰友 がこれに當る、
残酷だといふ人もあるが介錯は武士の情、眞新しい第一装の軍服を着用する、
距離三十米、目標は左胸乳下の心臓部 ・・・ 手許が狂つて撃ち損ずることはないか、
何故もつと接近して射たぬ?
空砲でさへ三四米では即死する火薬爆發の勢ひで餘り近づいては顔を灼くし、
第一非常な空氣の壓迫で後にひつくり返る惧れがある
監房内でも毎朝五時起床するや身を潔きよめて宮城を拜した中佐である、
最後の瞬間遥かに
皇居 に最敬禮して黙禱したに違ひなく規定の面蔽ひも拒けた事であらう、
嘗て地方のある歩兵聯隊の二年兵が娼妓に溺れた揚句脱營して強盗殺人を犯し銃殺された事がある、
刑場に立つと兩膝がガクガクして姿整が崩れて仕様がない、
指揮官が 「 氣を付け!」 と大喝したら日頃の訓練といふものは偉いものでピタリ不動の姿整をとつた相だ
處刑される相澤中佐に向つて右手横に塚本所長、島田檢察官、岡田、浅野兩法務官と錄事等が並び、
射手は三八式歩兵銃を右手に支へ 蒼白 な面に緊張し切つてゐる、
刀を抜いた指揮官の低い 「 立ち射ちの構へ-- 」 でサッと斜め半歩に開いて安全装置を外す
装彈は唯一彈而も装塡は下士上りの看守長が、射手の眼に触れないやうにやつて
「 よいか、この中に空砲が一發ある 皆の中、誰か一人は必ず空砲を装塡した銃に當るわけだ 」
少し射撃に慣れた者なら、空砲と實砲の區別位は射つた時の手應へで直ぐ解るが
戰場ならイザ知らず、平時我が指の 引金 一つで人を殺さねばならない宿命に際會すると、
大概の者がカーツとなつて 「 自分の射つた彈丸こそ、きつと空砲だつたに違ひない 」
とせめてもの氣休めにする由、
命令とは言へ銃殺の射手になつた印象は生涯深刻に脳裏を失せぬ、
そこで銃の掃除も他の人に絶對に見せず看守長だけで行ふ、
空砲を射つた銃口と實包を發射したそれとはどんな素人にも一目瞭然、
空砲は實包よりも油布が眞黒に汚れてゐるから
「 天皇陛下萬歳!」 の聲が終るか終わらぬかに 「 ネ…射てツ 」 の指揮刀一下、
中佐の身は先づ膝が折れ
上體 が前屈みとなつてドサリ倒れる、
南部式拳銃を右手に、脈を見る檢屍官に近づいた指揮官は
「 絶命です 」 の報告に拳銃を納める、
二 ・二六事件が起こらなかつたら、死刑にならずに濟んだのではあるまいか---
といふ疑問を永久に殘して
相澤中佐の處刑は
戒嚴下の帝都で何等の豫告もなく執行されてしまつた譯である
・・・日伯新聞 昭和十一年八月六日 読書欄