あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

林八郎の介錯人・進藤義彦少尉

2021年01月16日 20時04分26秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


林八郎 
昭和十一年七月十二日午前八時三十分、

代々木原頭、一発の銃声とともに、
林八郎はその若き生命いのちを断った。
大日本帝国の万歳を祈る と 最後の言葉を遺し、
天皇陛下万歳を絶叫して。
享年  二十一歳十カ月。

軍法会議の判決が出た直後、
七月の七日か八日ころであったろうか。
習志野の騎兵聯隊の 同期生 進藤義彦少尉 が私を訪ねてきた。
「 実はこんど死刑執行人の一人に選ばれたのだが、
同期生林八郎を撃つことは、
俺にはどうしてもできない。
この命令はなんとしても辞退返上しようと思うのだが、
どうだろうか? 」

「 馬鹿をいうな。
昔から武士の切腹には介錯人がつくが、
これには親友とか身近な人のあたることを本人は望んだものだ。
貴様は同期生林の介錯人に選ばれたと思い、進んでその任に当たれ。
林もきっと喜んでくれるはずだ 」
かくして彼は、死刑執行の任についたのである。
このときは私は、進藤は射撃指揮官であって射手は下士官か兵であろう 
と 想像していたのであるが、
あとで聞けば射手そのものであったのである。
銃の引鉄ひきがねを引く彼の心中、
苦衷いかばかりであったか、想像にあまるものがある。
しかしながら、
同期生の最期を同期生が見送ったのである。
せめてもの心の慰めというべきであろう。
・・・以上 小林友一著 同期の雪 から
・・・
 昭和11年7月12日 (十八) 林八郎少尉 

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上記同級生、進藤義彦少尉 が後年発表した告白記事
偶然ネット上に見付けたので、次に転載する。


処刑前夜
昭和10年に千葉県習志野騎兵第15聯隊で少尉に任官したばかりの私は、
翌11年7月、突如 「 即日、東京青山の青年会館に出頭すべし 」 との命令を受けた。
同じ聯隊からの同行者は私よりも先任の少尉3名と軍曹4名であったと記憶している。
隊では出張の目的は示されなかったがおよそ軍とは馴染みの少ない 「 青年会館 」 という施設に行けとの命令に、
「 はて何だろう  」 という軽い訝いぶかりを感じたことは覚えている。

同日第一師団諸隊から青年会館に集合を命ぜられた人数は、
後で考えると15名の受刑者銃殺刑の執行のため正副の射手が合計30名、
ほかに指揮官要員・衛星部員など合わせて40名近くはいた筈である。
我々は千葉県佐倉の歩兵第五十七聯隊から派遣された陸士37期 山之口甫大尉の掌握下にはいった。

ここで我々の出張の目的・任務が知らされた。
2・26事件に係わる軍法会議の判決による受刑者の死刑執行が任務であって、
少尉は正射手、軍曹は副射手とのことである。
私は、同期の林八郎がこの事件に関与していたことは
事件当時、騎兵第十五聯隊連絡将校として第一師団司令部に派遣されていた折に関知していたが、
この度の受刑者の中に彼がいること、しかも同期生は彼一人であることはこの会館に来て初めて判った。
将校のこのたびの受刑は古来の武士の慣例に従えば切腹と見なし得る。
切腹の介錯人は今回の射手なのだ。
介錯人は切腹者の縁の人がこれに当たる慣わしであったと聞く。
切腹者の最後を見届け、心安らかな旅立ちを見送ってやるのが介錯人の役割だとすれば、
林の介錯はただ一人の同期生たる私がやるべきではないか?
林は私と予科時代に同中隊で面識もあり、
運動時間には負けず嫌いの二人はお互いに剣道で鎬しのぎを削ったこともある間柄で、
そういう親しい仲でなくとも人間的に能力的に私のひそかに敬仰する男であった。

同期の者に相談までしたことがある。
「 実はこんど死刑執行の一人に選ばれたのだが、同期生林八郎を撃つことは、俺にはどうしてもできない。
 この命令はなんとしても辞退返上しようとおもうのだが。どうだろうか?」
「 馬鹿を言うな。
 昔から武士の切腹には介錯人がつくが、これは親友とか身近な人のあたることを本人は望んだものだ。
貴様は同期生林の介錯人に選ばれたと思い、進んでその任に当たれ。
林もきっと喜んでくれるはずだ。」

その秋の処刑を自ら名乗り出て志願する理由があるのであろうか?
黙っておればそれで済むことではないか?
だが真の武士ならば彼の介錯の役を受けるべきではないか?
俺は武士でありたい
・・・恥ずかしい話ながら人間的に未熟な私は自らの進退に迷いに迷ったあげく、
指揮官の大尉に心の中を打ち明けて裁断を仰いだ。
答えは 「 是非とも同期の君に林少尉を頼む 」
ということで私の考えは決まった。
これは11夜 ( 処刑前夜 ) のことで、指揮官に伺いを立てるまでのあいだは偽らざるところ、
「 林を撃つに忍びない 」 という人間的な弱さと、
「 林の最後を見届けるのは俺しかいない。俺は武士でありたい 」
という悲愴にもまた厳粛な使命感との相克の数時間であった。
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処刑当日 ( 7月12日 )
刑執行の場所は今でも周知の如く、当時の代々木練兵場の南端に接する永住刑務所の北隅である。
お恥ずかしいことではあるが、私の気はいささか転倒していたと見えて、
当日の朝食をどのように採ったか、宿舎の青年会館からどこをどう通って刑場に行ったかと言うことも
当日の天候なども全く印象に残っていない。
雨天でなかったことは確実である。

刑場には、刑務所の外柵のコンクリート塀を背に、白布を巻いた五基の十字架といえばキリスト教を連想するが、
元来これは磔台 ( はりつけだい ) であるが立てられてあり、
その前は射撃位置よりもやや低めに地面を少し堀開して平らに地均しがしてある。
十字架の高さはほぼ座高に等しくその相互の間隔は3ないし5Mはあったであろう。
十字架と射撃位置との距離は、往時の 「 照準監査 」 訓練の際の標的と小銃との隔たり ( 約10m ) である。
十字架一基に対し三八式歩兵銃一挺が照準監査台に似た架台に置かれてある。
小銃は兵器廠格納の正照準の新品であると聞いた。

処刑の始まる少し前から、
直ぐ隣の代々木練兵場南端のお馴染みの族称 「 なまこ山 」 と覚しい辺りで小銃、軽機関銃の空砲射撃が始まる。
小隊程度の小部隊の攻防演習を思わせる。
その手前刑務所の柵内の望楼に看守らしい人影が見える。
これは刑場の指揮官となまこ山の演習部隊との間の合図を行うためのものと思われる。
演習部隊の射撃は一回の処刑が完全に終了するまで続けられ、
処刑時の実包の発射音と判別できない仕組みになっていたようだ。

刑場の五基の十字架の列に向って右方向と覚しいあたりに受刑者の控室がしつらえてあると見えて、
その方向から受刑者の辞世ともいうべき雄叫びが聞こえる。
「 ・・・・・・守れ我等が聯隊旗・・・」
などと叫ぶ声も聞こえる。
第一群の5名の受刑者が刑場に連行される頃には静かになったように覚えている。
受刑者の服装は
その頃軍の車両部隊などに支給されていた濃いカーキー色の繋ぎの作業服の新しいのを着ており
靴ははいていなかったと記憶している。
きちんと折り目のついた白布で目隠しされた受刑者は両脇を二人の看守に支えられて刑場に現われ
所定の十字架の前に正座する。
看守が白布で受刑者の頭、両腕を十字架に縛りつけ、
次いで両膝を縛り合わせる。
最後に幅20センチ程度の長い白布を東部から膝に達するまで垂らし、
その上から更に直径2センチの黒点を描いた鉢巻を、黒点が前頭部の中心に位置するように縛る。
射手は黒点の下際を照準せよということであった。

正副の射手はいずれも架台の上の銃の照準を慎重に黒点の下際に付け
架台のねじを固定して照準が完了すると、指揮官に注目して片手を挙げて無言の準備完了を報告する。
各グループの恐らく最古参者であろう
「 準備が終わりましたら大元帥陛下の万歳を三唱させて戴きます 」
と 前置きして以降同音に
「 天皇陛下万歳 」 を代々木原頭の天空に響けとばかりに絶唱した。
五人の正射手の目は指揮官に注がれている。
この間 沈黙の数秒が流れるが、指揮官の手が挙がるや射手は受刑者に対し低頭黙礼して引鉄を引く。
射弾の命中した前頭部からは僅かに白布の鉢巻に先決がにじみ出る程度であるが、
両の鼻孔からサーツと垂れ布を染めて流れ落ちる様子は
痛ましい印象として終生脳裏から消えることはあるまい。
次いで軍医が検診を行う。
絶命が確認されなければ、正射手の左に並んで射撃準備を控えている服射手が替わって再度射撃することになる。
事実 なかにはうめき声を出してなかなか絶命せず、
二発目で、ある人はさらに正射手の三発目で事切れたのであった。
痛ましい極みである。

そしてこれらの全てが終わるまで なまこ山の演習部隊の空包射撃が続行されたが、
それは空ろな印象として残っているに過ぎない。
刑の執行は15名を5名ずつ3回に別けて為された。
1回ごとに執行が終わると直ぐ様 遺体を近くの幕舎に運んで創の処置をして納棺し、
急ごしらえの祭壇に安置する。
十字架の血でよごれた部分は更に上から新しい白布を巻きつける。
これらの作業はすべて医官と看守が担当する。

刑の執行に当たった我々は、
任務とは言え、この手で瞬時に幽明境を異にするに至らしめた十五名の受刑者の霊前に、
一同無量の感慨に咽びつつ深々と無言の礼拝を捧げて、
夕刻解散してそれぞれ帰隊の途に就いた。

処刑当日の一般経過の記述を終わるに際し 付言しなければならないことがある。
それは当日全体の指揮に当たった山之口大尉の苦衷である。
林八郎少尉の 「 介錯 」 の件はいかに苦しいとは言え 林と私との個人関係であるが、
大尉の立場は同期の香田大尉、一期若い安藤大尉など
平素熟知の間柄である将校を含む15名全員の処刑を担当したという苦悩を味わった点は想像を絶するものだと思う。

林八郎少尉の最期
死を目前に控えて林の態度は正に冷静沈着で、挙措言語まで温厚柔和そのものであった。
処刑前の控え所における、また刑場における受刑者の言動には人によってはいくらか興奮気味の言辞も聞こえたが、
林には寸毫もそのような気配は感じられなかった。
終始物静かで、学校時代の平素の態度そのままに看守と対応している。
看守が膝を縛ろうとすると、
「 ほどけないようにしっかり結わえてくれネ 」
と優しく微笑む。
林よりずっと年かさの看守が親切丁寧に縛ってくれている。
5ケ月余の刑務所での起居の間に
お互いに公私に亘り何かと馴染んできたであろう二人の密やかな心情に思いを致し、
瞬間胸の詰まる思いがした。
些細なことであるが
「 縛ってくれ 」 と言わずに 「 結わえてくれネ 」 と言った彼の言葉が訳もなく今に至のも忘れられない。
林は私の一発の発射で事切れてくれた。
介錯人の任務は終わった。
射手の全員が皆任務が終了したのであるが、この任務は自己の才能を振って完遂を目指す軍務と異なり、
緊張の余りロボットのように固くなって任務に服したという感じを持つのは私だけではあるまい。
前夜いろいろと悩み迷いはしたものの、
結局は半ば己の意思で同期生林八郎の 「 介錯 」 の役を買ってでた私は、
からだの続く限り 彼の供養を怠らぬことを終生の念願としている。
毎年2月26日には 刑死者の慰霊祭が東京麻布十番の賢崇寺で営まれることになっている。
当日はかならず参拝し、心をこめて刑死者の霊前に尺八の古典の曲を献吹しつつ
秘かに林の霊と語り合っているつもりである。


昭和11年7月12日 (十八) 林八郎少尉

2021年01月16日 14時17分41秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


林八郎 

大日本帝国の万歳を祈る
・・・死刑執行言渡時の発言

昭和十一年七月十二日午前八時三十分、

代々木原頭、一発の銃声とともに、
林八郎はその若き生命いのちを断った。

大日本帝国の万歳を祈る と 最後の言葉を遺し、
天皇陛下万歳を絶叫して。

享年  二十一歳十カ月。

軍法会議の判決が出た直後、
七月の七日か八日ころであったろうか。

習志野の騎兵聯隊の同期生進藤義彦少尉が私を訪ねてきた。
「 実はこんど死刑執行人の一人に選ばれたのだが、
同期生林八郎を撃つことは、
俺にはどうしてもできない。
この命令はなんとしても辞退返上しようと思うのだが、
どうだろうか? 」

「 馬鹿をいうな。
昔から武士の切腹には介錯人がつくが、
これには親友とか身近な人のあたることを本人は望んだものだ。
貴様は同期生林の介錯人に選ばれたと思い、進んでその任に当たれ。
林もきっと喜んでくれるはずだ 」
かくして彼は、死刑執行の任についたのである。
このときは私は、進藤は射撃指揮官であって射手は下士官か兵であろう 
と 想像していたのであるが、
あとで聞けば射手そのものであったのである。

銃の引鉄ひきがねを引く彼の心中、
苦衷いかばかりであったか、想像にあまるものがある。

しかしながら、
同期生の最期を同期生が見送ったのである。

せめてもの心の慰めというべきであろう。


七月十二日早朝午前七時頃、
私は林の遺体引取りのため、代々木練兵場の南端についた。

練兵場に面して刑務所の赤い煉瓦塀があり、
その中ほどに通用門、昔流にいえば不浄門があって、
そこから遺体が渡されるのである。

見ると、黒い喪服を着た うら若い美しい女性が佇んでいる。
傍らに二、三歳であろう、まことにかわいらしい女の子が遊んでいる。
今、父親が刑死しようとしていることなど、もちろん露知るはずはない。
広い練兵場の草原が珍しいのか、嬉々として遊び戯れているではないか。
深い憂いに満ちた目で、じっとそれを見つめる母親の姿。
思わず涙が溢れそうになった私は、
つとそこを離れて、叢くさむの上にどかりと胡坐をかいた。

私は腕を組み、目を閉じ、ただ黙然と座りつづけた。
当日は暑かったという。
私は覚えていない。
練兵場は演習の銃声で大変やかましかったという。
私には何も聞えなかった。
林のご遺族も見えていたはずである。
私にはまったく記憶にない。
私は、悲しみというか、憤りというべきか、ただ涙を抑えるのに精一杯で、
全身の神経がその動きを停止したかのように、ただ座りつづけたのであった。
林は一番若かったので、処刑が最後になったのであろう。
大分待たされた。
いよいよ引き渡しの時がきた。
門が開かれて棺桶が差し出される。
まず蓋を開けて確かめる。
まさしく林の遺体である。
死刑直後であるので、顔色は生前とまったく変わらず、
今にも口を動かして語りかけてきそうな錯覚を覚えたほどである。
眉間を中心に、顔面の半分を斜めに、そして頭全体を包帯で巻いてる。
その包帯の白さが目にしみる。
顔の両眼に、百合であったか、菊であったか、真っ白い花数輪が添えられてある。
遺体引き渡しの前に、坊さんの読経の声を聞いたこととあわせ、
私はかすかに 『 武士の情け 』 を感じたことであった。

遺体を落合の火葬場に運んで荼毘に付す。
遺骨を抱いて目白の林の家へ帰る。
すでに夕刻になっていたと思う。
お母さんが、ほの暗い玄関の畳の上に正座して、静かに無言で林を迎えられた姿が、
今もなお明らかに私の瞼に浮かぶ。
もちろん涙は見せられない。
むしろ厳しいとまで思われる白いお顔が忘れられない。
遺体引き取りにはお母さんも見えているし、火葬場からも一緒に帰ったはずではあるが、
私の当日の印象にはこう残っているのである。

その晩は通夜である。
ご家族、ご親族はあくまで静かに、しめやかに、遠慮がちであった。
林は罪人であり、刑死者であるからである。
私は同期生をはじめ、同志十数名を集めた。
そして徹底的に飲んで騒いだ。
林は酒豪であった。
痛飲することが一番の彼の供養になるのだ。
まさしく 『 通夜 』 であった。
時に林の骨壺に酒をふり注ぎながら、夜の明けるまで、
終夜狂ったように軍歌を高唱し続けたのであった。

いく日かの後、多磨墓地で埋骨が行われた。
罪人には葬式ができないのである。
埋骨式ではなく、単なる埋骨である。
坊さんも来なかったと思う。
読経を聞いた記憶はない。
私は陸士生徒を含めて同志約三十名を集めた。
土を掘り、骨壺を埋める作業の周囲に、円陣をつくり腕を組んだ。
そして静かに、声は低いが、腹の底から絞り出すように
『 昭和維新の歌 』 を 皆で歌いつづけたのであった。
林八郎への告別の言葉であり、読経である。

泪羅ぺきらの淵に  波騒ぎ
巫山
ふざんの雲は  乱れ飛ぶ
混濁の世に  吾たてば
義憤に燃えて  血潮わく

権門上かみに  驕れども
国を憂うる  誠なし
財閥富を  誇れども
社稷しゃしょくを思う  心なし

ああ人栄  国ほろぶ
めしいたる民  世に踊る
治乱興亡  夢ににて
世は一局の 碁なりけり

・・・・

・・・・

功名なんかは  夢の跡
消えざるものは  ただ誠
人生意気に  感じては
成否を誰か  あげつろう

・・・・

歌声はいつしか涙声となり、慟哭どうこくとなったが、
いつまでもいつまでも続いた。
林八郎。
二十一歳十カ月のあまりにも短い生涯であった。

埋骨式の翌朝。
聯隊へ出勤すると、さっそく師団司令部からの呼出しがあった。
「 刑死者の埋骨に、あのように多人数を集めるとは、甚だもって不穏当である 」
と、参謀長のきついおしかりである。
結局は私は無罪放免になったが、昨日集めた陸士の生徒のほうが心配になった。
こんなことで処罰でも受けたら大変である。
私はその足で、近くにあった教育総監部にとんで、担当課長に会った。
強硬に、しかも慇懃いんぎんに陳情を行い、
すべて黙認するという言質を得て、胸を撫で下したのであった。


小林友一著  同期の雪  から