あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和11年3月5日 (七) 河野壽大尉

2021年01月30日 14時06分35秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


河野壽

河野壽は、

所沢飛行学校学生で在学中、
単身事件に参加し、
二月二十六日早朝、
東京部隊と時を同じくして、湯河原に牧野伸顕伯別邸を襲撃した。
この際 護衛警官の反撃の銃弾を胸部に受けて倒れ、
その上襲撃目標の牧野伯を撃ち損ずる不運となって、
重傷の身を熱海陸軍病院に運び入院する身となった。
東京本部と電話連絡を取りつつ
療養の間に、蹶起は叛乱軍の汚名の下に完敗した。
切歯扼腕の河野は、傷の軽快になるのを待って、
三月五日、
病院構外の松林の中で自決し、
翌六日早暁に死んだ。    リンク→河野壽大尉の最期 
この河野の死は、
前々日四日にはすでに予知されており、
四日は兄弟三人と病院長、
入院中の同期将校とで別離の酒を酌み交わした覚悟の死だった。
私たち兄弟は
東京の自宅で菩提寺の住職も詰めて、弟の死の知らせを待っていた。
六日の朝 八時頃、
病院から死の電報を受取って、私と義兄が熱海に急いだ。

すでに祭壇が設けられ、供花も数多く枕頭に飾られていた。
遺体をあらため
頸部、腹部の自決のあとを検分し、弟と死の対面を済ませた。
入院中の将校をはじめ、
東京から駆付けた所沢飛行学校の川原教官や同期生の田辺中尉等の弔意を受け、
遺体引渡しの手続を済ませるうちに夜に入った。
用意された霊柩車に生花に埋まった遺体を移し、多数の葬送のうちに、
私と田辺中尉、川原副官が分乗して病院を去った。
二十六日早暁、昭和維新を期して東海道を下ったその道を、河野は遺体となって東京に帰った。
私の家に着いたのは明けやらぬ五時頃であった。
河野大尉の死は、
六日の午後一時、戒厳司令部の発表でラヂオを通じて発表された。
午後から夜にかけて 弔問の客が相次いだ。
所沢の飛行学校から校長徳川好敏中将をはじめとして、同期の学生将校たちが多数、
軍装姿で、富ヶ谷の家に弔問された。
平素縁のなかった町内の国防婦人会や在郷軍人会の人々までも弔意を表しに来られた。
意外なことであった。
世間の眼を忍び、こっそりと密葬を覚悟していた遺族にとっては、こうした現実らとまどう思いだ。
これでよいのだろうかということが、偽らない心境であった。

翌八日は珍しい春の雪が降った。
その雪の中を、密葬の霊柩車が火葬場に向った。
この日も所沢の徳川校長 外、多数の将校たちや、同期の将校たちの軍服組が、
自宅前の道を埋めた。
在郷軍人団、婦人会の人など立並ぶ人垣の葬送されて、密葬らしからぬ出棺であった。
夢想もしなかったことだった。
死んでくれてよかったと涙をこらえた。
火葬場で骨になるのを待つ間も、雪はやまなかった。
雪に蹶起し 雪に消えた 弟の清らかな死であった。

その翌日、河野家の菩提寺、浦賀の東福寺での埋葬を行った。
東京から横須賀線で、横須賀駅で下りた。
驚いたことには ホームに陸軍の将校たちが渚列しょれつしている。
まさかと思ったが、河野大尉遺骨の出迎えであった。
河野は横須賀の重砲兵聯隊に、少尉任官前後の数年を勤務していた。
その聯隊の人々であった。
戦争中に見られた戦死者遺骨の凱旋風景と同じであった。
私たちは我目を疑うこの光景に接して、またしても意外というより驚きであった。

あれだけ日本中を騒がせ、
しかも叛乱の烙印を押された事件の責任者が受ける制裁は十二分に覚悟していた。
葬儀埋葬に当っても何らかの制約、監視の目も予想していた。
それよりも世間の人々への手前にも、極力目を避けて、ひそやかな密葬を期していた。
それが 現実にはこの三日間の意想外の姿であった。
人間として 又 肉親としての本性からは、矛盾したことではあるが、
死んでくれたことの喜びを胸にしみて味わったものであった。
野中家の方々の心境も まったく同じであったと思われる。
ことにそれから四ヶ月後、
生き残って軍法会議での公判闘争に最後の望みを掛けた同志の人々が、
事志に反し 公判を通じて国民に訴えんとした悲願むなしく、
刑場の露と消えた非業な死に際会したとき、
その方々の遺族の心境に思いをはせるにつけ、
ひとしおにその感が深いものがあった。

ある遺族の二・二六事件  河野司 著 から