あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

反駁 ・ 黑崎貞明 「 我々は尊氏の轍を踏むべきではない 」

2020年08月02日 11時01分57秒 | 反駁 3 後事を托された人達 (公判狀況)


蹶起将校の処刑が終ると、
いよいよ私たちの地方将校の取り調べが開始されることになった。
そのある日、村中さんから信号が送られてきた。
「 オマエノコトハナニモイッテイナイ  ヨケイナコトハユウナ 」
私を助けるための助言であることは痛いほどよくわかる。
私が士官学校に入学したときの隣の区隊長で、
革新運動の手ほどきと
北さんの「 日本改造方案大綱 」の ガリ版刷りを最初に与えてくれたのも村中さんであった。
その村中さんが死に臨んでもなお後輩を救うために努力しておられるのだ、
ありがたいことだ。

実のところ、そのころの私はどうなってもかまわないという心境であった。
事件当時東京におれば当然参加していたに違いないのだ。
それに私は精一杯生きてきたし、人生に思い残すことはない。
カントの人生哲学は究極のところ、人生の生きがいを説いたものであろうし、
あとに続く者あると信じておれば、人生の長短など問題ではない。
しかし、村中さんが、もっとも敬慕する先輩がこのように私に指示してくれるということは、
私をして まだなにかをなさしめたいという執念のように思われる。
こんなとき、担当看守が私にそっとささやいてくれた。
「 もう青年将校で死刑になる人はないようです 」
田中や安田の "死ぬなよ、あとを頼むぞ" と いう最期の言葉も、村中さんの本心も、
つまるところ "生き抜いて後に続け" ということなのだ。
それにこれ以上の処刑はないとすれば、生きる以外に方法はない。
先立った同志に対してもすまない。
同時に死ぬべきだという私の心境が、大きく変化し始めた。
「 よし、もう一度出直して先輩の遺志をつごう 」
次第に新しい意志が固まってきた。
審理再開を前には私の態度ははっきりと決まった。

黒崎貞明中尉 所蔵
村中孝次から贈られた獄中での絶筆
当時の看守が秘かに持出して
終戦後、黒崎貞明の手に渡った
尊皇義軍一千
奸害妖雲ント
霏々トシテ白旗揺レル
ハクバ神州是從コレヨリ維新ナルヲ
昭和十一年夏
爲黒崎氏   
村中孝次


私に対する審理の主眼は、叛乱予備罪に該当するかどうかであった。
従って、蹶起将校との間の情報、連絡、資金等の関係を執拗にせめてきた。
しかし私の場合、蹶起に関する情報はなにひとつ知らされていないので、
予審官としても、叛乱予備罪の成立は不可能とみて、
もっぱら在京将校との呼応、訪問、激励等の関係を引き出すために躍起となっていた。
しかしその一面、同志将校に対する批判的言動を示せば、
ただちに放免となるらしい空気は察知することはできた。
私たちはこの誘導にはのらず、その革新への志向は同じであり、
ただ直接行動に参加しなかっただけという事実を述べ続けた。
そのために不利になろうとも、意に介することはなかった。
これはおそらく、残されて審理を受けていた青年将校のすべてに通じていたものであろう。
たとえば、私が村中さんに対し毎月二十円の送金をしていたことについて、
これが決行資金に使用されたのではないかと追及してきた。
しかしそれは敬慕するかつての区隊長が、
デッチあげの事件によって不当な免官処分となり、
ため生活に困窮されていると判断した教え子が、
己の遊興費を節約して送金したものであると答えたため、それ以上は追及はなかった。
そして次の重点は、私の革新将校への傾斜の過程である。
若い青年将校の中で、
最も過激派と目されていた明石と私とに追及の重点があったようである。
予審官はひとつの証拠をにぎっていた。
それは私の日記である。
奉天での逮捕直後、身辺整理のさい
いっさいの証拠物件は焼却した筈であったが、
ただ一つ、当番兵の上田上等兵が私の思い出にとこっそり処分せずにかくし持っていたものであった。
憲兵隊の捜索によって押収されたのである。
しかし当番兵の行為を責める気には勿論なれなかった。
その日記には、この事件に関する具体的なことは なにひとつ 書いてなかったが、
ただ、日本改造方案や支那革命外史に対する所感などが随所に書いてあり、
また 東京の先輩同志に対する思慕の情と、
革新行動の促進に関する焦慮などが認めてあったのだ。
予審官はこれを きめ手とし、責の道具として追及してきた。
予審官追及の焦点はこうである。
被疑者黒崎の信奉する北一輝の日本改造方案による、
君民一体---君臣共治---天皇は国民の総代表ということは、
「 天皇は神聖にして侵すべからず 」
とする  明治欽定憲法を否定することにはならないかということである。
これに対して 私は次のように答弁した。
「 日本の歴史の中には、天皇が、
時としては 人間としての一面を、時としては 神格天皇としてのひらめきの一面を示される。
そのときどきによって現出する、悲しさと厳しさと歓喜が交錯して綴られてきた過去と現在。
しかし 日本はその歴史を通じ、
最後の危機に直面するや必ず神格天皇の顕示によって再生してきた。
天皇と日本、天皇と国民の運命共同体的信仰が日本の特質であり、
これが日本民族の伝統である。
わが恋闕の本質はここにある。
道鏡事件から大化の改新---壬申の乱---承久の乱---正中・元弘の変、
そして建武の中興から明治維新へ。
原始共産時代から種族抗争時代へ、そして君主専制 ( 大種族統一 ) 時代から貴族支配時代へ、
封建時代から立憲民主時代へと進んで現在にいたる日本の歴史的変遷の中に、
天皇は常にその変遷の中核的な存在を失わず、いかなる権力者といえども、
これを廃絶することをなし得なかった事実こそ、日本の特質であり、日本の命運であった。
日本はやがて天皇と権力者との統治する国ではなく、
天皇と国民のもっとも直結した近代国家に進化するであろう。
しかし、それは日本伝統の発展進化であっても変更ではない。
「 君民共治 」 という日本改造方案の基本的精神はこのように解釈し理解している 」
これに対して予審官は、青年将校たちに
「 天皇を奉ずる共産主義だという人がいるが 」
と 追及してきた。
しかし私の天皇観に対しては一応の敬意を表してくれた。
この予審官との天皇論争は、
時として事件の次元を越えた愛国論争の観を呈したこともある。
かたわらの録事 ( 書記 ) も しばしば筆を措いて聞いていた。
予審官はさらに私有財産の制限について追及してきた。
「 私有財産の制限とは一種の否認である 」
との見解を示し、
それを認めるかどうかと迫ってきたのだ。
私は制限と否認とは完全に異なるし、私有財産の否認には反対であると反論した。
「 土地の国有についてはすでに建武の時代、後醍醐天皇によって試みられようとしたが、
地方武士の反対によって放棄された。
この問題はいずれ わが国においても考慮しなければならないものであるが、
私には具体的にいかにすべきかということはわからない。
しかしながら、人間性を無視した悪平等と、私有財産の制限の許容は、
これからの社会の生成発展に大きな害を与える。
現在、農村の小作人からな るわが国の兵士が、
戦場において いかに精神的に悩んでいるか。
それは実際に弾丸の中で生死を共にした者でないとわからない問題である 」
これに対して予審官は、
「 それでは貴官は国家革新の信念を、戦場で部下と共に戦いつつ 益々深めたというのか 」
と 誘導尋問に出てきた。
これをかわすことは容易であるけれども、信念を曲げてまで刑を軽くしようと思わない。
「 その通りです 」
と 答える。
「 では青年将校たちは、成功したならば どのような国家組織を考えているのか 」
と 斬りこんでくる。
質問の狙いは、日本改造方案を実行する意思があったかという点である。
私は答えた。
「 私たち とくに私自身、
日本改造方案の各条項をそのまま実現するということは考えてもみなかったし、
また 私たちが政権をとるなどということは思いも及ばぬことであった。
同志たちのもっとも嫌って排斥するところでもあった。
過ぐる 三月事件、十月事件を境として、
幕僚たちの主謀したその事件は甚だ不純なものであると断定し、
われわれが幕僚将校たちと別の途を選ぶことになったのは、
"我々は尊氏の轍を踏むべきではない" という申し合わせによるものである。
われわれは ただ赤心を披露して、陛下のご決心を促せば足りるのである。
日本改造方案は、そのときのひとつの参考書にすぎない。
討つものも討たれるものも皆、陛下の赤子であり、
私怨私欲しえんしよくでことを起したものでは断じてない。
陛下が革新の大号令を下されて、
蹶起した者に対しては、法の尊厳の下に自ら裁かれるべきことを説かれれば、
彼らは喜んで闕下に罪に服したでありましょう 」
と 強調した興奮と感動から こみ上げる涙を禁ずることができなかった。

八月が来て、私の予審もどうやら終わりに近づいてきた感じであった。
予審官の態度が目に見えてやわらいできたからである。
"よく眠れますか" とか "体はどうですか" と 尋ねるようになった。
この二ヶ月の予審の期間を通じ、二人の間には、
それぞれの立場を越えたひとつの親近感というよりも
共通の理解点が生れていた。
それは日本民族の永遠の生命をまもり、
来るべき共産ロシアとの対決に耐えるためには、
希求する昭和維新な身命を投げ出すのが当然である
という 信念の青年に対しての共感であったと思っている。

黒崎貞明 著  恋闕 から


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